第89話 メントフ王国の先兵隊

朝靄あさもやなのか、瘴気なのか、はっきりとは分からないが、薄っすらとグレースの街を覆う霧があった。

それほど、視界を妨げるものではないため、気にせずレイヴンたちは、街の広場の方へと向かう。


ちょっと、油断をすると欠伸が出そうになるため、気合を込めて一発、自分の頬を叩いた。

思いの外、大きな音が出て、仲間からの視線をかっさらう。


「どうした?まだ、寝ぼけているのかい?」


海の民の女剣士にからかわれるが、レイヴンは、「目覚ましのための、いつもの習慣だ」と、赤い頬を気にせずうそぶいた。


カーリィやソフィアから、失笑を買うが、逆にリラックスできてよかったかもしれない。

これから会うのは、何といってもエウベ大陸の中で、大国と称されるメントフ王国の先兵たちだ。


交渉相手としては、決して楽な相手ではない。

初めから、飲まれていては、話にならないのだ。


噴水の前が、ちょうど開けた場所になっており、そこが街の広場となっている。

すでにグレースの街の住人が、疎らながら集まっていた。


この街での娯楽は、お酒しかないため、夜更かしする者が多い。みんな、一様に寝ぼけ眼を擦っているのだった。


レイヴンは、疎らという感想を持ったが、そもそも住人の数は少ない。

これで定員を確認したのか、メントフ王国の代表らしき男が仮設の台の上に登り、周囲を見回した。


その登壇した人物を認めると、カーリィとメラは顔を見合わせる。

二人の反応から、もしかしたら昨日、話していたアホ王太子がやって来ているのかもしれない。


どんな男か面を拝んでやろうと、レイヴンは目を凝らすのだった。


「集まってもらった諸君。おそらく、はじめましてだろう。・・・私はメントフ王国の王太子ユリウス・フォン・カラヤン・マルシス・ジョンヌ・ド・メントフだ」


はじめましてでは、絶対に覚えることができない長ったらしい名前を王太子が名乗る。

面倒くさいので、レイヴンはユリウスとだけ覚えた。まぁ、それで正解だろう。


ユリウスは、南国の王子さまらしく日に焼けた褐色の肌をしており、一見、精悍な顔つきをしている。

高貴な血統を自負するように、煌びやかで真っ赤な甲冑を身に纏っていた。


そのユリウスが話を続ける。


「我ら、メントフ王国は瘴気をばらまく元凶、ファヌス大森林に正義の鉄槌を下そうと思う。そこで、諸君らに相談だが、この聖戦に協力をしていただきたい」

「具体的に、何をすればいいんだ?」


一瞬のざわめきの後、広場に集まった群衆の中から、声が上がった。その言い方が気にくわないのか、気軽に声をかけるのが御法度なのか、ユリウスの側近が色めき立つ。


だが、そんな部下の反応を抑えて、メントフ王国の王太子は質問に答えた。


「諸君らには、ファヌス大森林に火をかける先発隊の栄誉を拝呈したい」


壇上からの回答に、先ほど以上のどよめきが起こる。現在、瘴気を発生しているとはいえ、太古からある神聖な大森林。

そんなファヌス大森林に自ら、火をつける行為は、さすがに畏れ多いのだ。


「そんな事をしたら、風の精霊シルフさまの怒りを俺たちが買っちまうよ」

「そこは安心してくれ。後方には、我らメントフ王国の正規軍が控えている。何があっても、諸君らを守る事を誓おう」


しれっと、自分たちは後方待機を宣言する。

大精霊の怒りを後ろの離れたところにいて、防げるわけがないのだ。


このユリウスが言っているのは、自分たちの手を汚さずに成果だけを持ち帰ろうとする卑怯な人間の考え方である。

そんな事に気づかないほど、グレースの街の住民たちは馬鹿ではなかった。


しかし、大国の威光を笠に、強制的に実行させられるのではないかという不安の空気が、広場に流れる。

これには黙っていられず、レイヴンが前に出て行こうとすると、それよりも先んじる人物がいた。ヘダン族の族長の娘カーリィである。


「ちょっと、ユリウス。あなたの言う事には信を置けないわ。グレースの人々を巻き込むのを止めなさい」


群衆をかき分けて登場した赤い髪にセルリアンブルーの瞳を持つ女性。

大陸広しといえども、これほどの美人はそうはいなかった。ユリウス自身も、昔から知る女性を見間違う訳がない。


「これは我が幼馴染にして、婚約者でもあるカーリィじゃないか。珍しい所で会うね」

でしょ。いい加減な事を言わないでちょうだい。」


ユリウスの勝手な言い分を否定すると、付き人のメラも同調した。


「そうです。姫さまの想い人は、こちらのお方です」


そう言って、無理矢理、前方に引っ張ってこられたのはレイヴンである。

ユリウスは、その黒髪緋眼くろかみひのめの青年をジッと見つめた。


「ほう、もしかして君がロンメル殿の話の中にあった『ダネス砂漠の英雄』殿かな?」


そんな呼ばれ方をしている事など知らない。だが、例の二つ名よりは大分ましかもと考えるのだった。

レイヴンが返事をしてやろうと、一歩前に出ると、その前にユリウスが再び口を開く。


「いやラゴス王の『黒い翼ブラック・ウイング』殿と言った方がいいのかな?」


そう言って、メントフ王国の王太子がニヤリと笑う。

レイヴンは、生理的にこいつは、嫌いな奴だと決め込むのだった。


グレースの広場で、思いがけず注目を集めた黒髪緋眼くろかみひのめの青年。

詳細はよく分からないが、今ある情報では、南の大国の王太子と絶世の美女を巡って争っている男と見られていた。


衆人環視から好奇の目に晒されたレイヴンは、何ともばつが悪い。

身分や風体の比較から、レイヴンの事を当て馬と思っている者が大半のようだからだ。


その空気に、本人以上にメラが憤る。

ヒートアップした彼女は、饒舌にレイヴンの正体を明かすのだった。


「この方は、西の大国イグナシア王国の『国王巡察使』殿です。遠方にあっては、いわばラゴス王の代理ともなられる御方。レイヴンさまを軽んじないで下さい」


メラの叫びに、群衆から「おおおっ」という喝采の声が上がる。

不穏な空気から一転、面白そうな娯楽が始まったような感じになった。


『ほら、見なさい』とばかりに胸を反らせるメラの頭をレイヴンが、軽く小突く。

その瞬間、調子に乗り過ぎたと族長の侍女は反省した。


シュンとしたメラの肩を叩くと、レイヴンは彼女に耳打ちする。


「俺のために、ありがとうな」


感謝の言葉を述べたのは、もう一つの意味があった。

大国イグナシア王国の名前を出す事で、メントフ王国側に重圧プレッシャーをかけることができる。

少しは、交渉が楽になると思われたのだ。


「呼び方は、あんたに任せるよ、好きにしな。ただ、ファヌス大森林を燃やすなんて、好き勝手なことはさせないからな」

「下郎が、控えろ!」


メントフ王国の王太子を『あんた』呼ばわりしたため、ユリウスが反応する前に、その側近からの怒声を浴びる。


しかし、誰が何を叫ぼうとも、レイヴンにとっては、蛙の面に何とかだ。一向に気にする様子はない。

そんな態度に側近の男は、ますます激高するのだった。


ユリウスの傍に立つ男の一人が剣の柄に手をかけると、モアナも反応する。『千鳥』の鯉口を切り、いつでも抜ける態勢をとった。


一触即発と思われた時、ユリウスが側近を制する。こんなところで血を流す必要はなく、何より、まだ、話の途中なのだ。


「ファヌス大森林を燃やさせないというが、この危機を君は、どう脱するつもりなのかな?」

「瘴気が大森林から出ているというのなら、その原因を取り除けばいいだけだろ」


「だが、一度汚染した木々が蘇る訳がない。・・・いや、仮に戻るとしても、どれだけの年月が必要になる事か」


一般的な理論でいれば、ユリウスの言っている事は正しい。長い年月をかけて、大森林が元に戻っても、その間、瘴気が垂れ流しになっては意味がないのだ。

だが、レイヴンには、ファヌス大森林がすぐに復活するという自信がある。


「大森林の緑は、すぐに元に戻ると思うぜ」

「どうしてかな?」

「あそこには、『世界樹』もあれば、大精霊のシルフもいるからな」


レイヴンの発言の後、微妙な空気が流れた。先ほど、ファヌス大森林に直接火をつけることをシルフの怒りを買うと恐れたグレースの住人たちも、それはあくまでも精神的な話。


精霊を実際に目にした事もなければ、そもそも存在自体に懐疑的な人が多いのだ。

実はユリウスも、その手の人間の一人である。軽い嘲笑混じりにレイヴンを見返した。


「いや、君は実に信心深いんだね。もっと、現実主義者リアリストだと思っていたよ」


王太子につられて、側近の者たちの笑いが重なる。それはグレースの群衆の中にも伝染するのだった。

そんな中、レイヴンはやれやれと言った感じで、大きなため溜息をつく。


「まったく、こんな近くにいるのに、自分の目で見ないと信じないんだな。」


振り返って、目配せを送るとカーリィとモアナが、自信に満ちた顔でレイヴンの隣に並んだ。

この後の出来事に、大衆は驚くこと間違いない。

彼女たちは、目を瞑ると精霊具に念を送るのだった。

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