第38話・HOPE②

 昭和二十一年十一月三日、大日本帝国を葬るときがきた。

 日本国憲法が、ついに公布された。

 成立まで紆余曲折あり、今も議論を巻き起こしているが、施行は半年先である。

 それでも、新たな日本の指針が示された。生まれ変われ、悪しき過去を捨てるのだ、と太平洋の昇る御来光に祈るような清々しさが胸に沁みた。

 特筆すべきは、この一文だ。


第九条

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


 蓮城はこれを読むたび、湯の花トンネルに行った日を思い出す。

 悲劇を繰り返してはならないと、日本人は戦争をしてはならないと、ベッスンは必死に訴えかけた。

 ベッスンひとりの力ではない。GHQが立案し、日本の議会が可決させた憲法だったが、彼の願いが通じたようで嬉しかった。


 そうか、日本は戦争をしないのか。もう戦争をしなくていいのかと、蓮城は広がる青空を見上げた。羽のように心が軽く、そのまま吸い込まれてしまいそうな、晴れやかな気持ちで新憲法が施行される日を待ち望んだ。

 渉外室の窓辺に佇む蓮城を、ぼんやり眺めているのは仁科だった。心中にあるのは懸念であり、その根本は天皇陛下で、思い浮かんでいたのはこの一文だった。


第一条

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。


 新聞に掲載された、マッカーサーと並んだ写真が思い出される。天皇陛下は現人神から人間に、ついには国の象徴という曖昧な存在にされてしまった。しかも天皇陛下が天皇陛下であるためには、国民の総意がなければならない。

 今は、いいや今も、行幸に向かわれた先々で国民は熱烈な歓迎をしている。以前と違うのは、距離と目線だ。国民と同じ目線で、子供や年寄りには御身を屈めて、話を聞いて日々の暮らしを労っている。

 人間として、日本の象徴を受け入れた天皇陛下の御尽力により、その地位は安泰に見える。


 しかし世論の風向きが変わってしまったら、どうなるだろう。それを許しているのが、新憲法だ。

 やはり戦争責任を問うべきと、天皇は新しい日本に不要だと、そういう意見も耳にする。

 総意をどう捉えるか。過半数か全会一致か、それが曖昧であるが故、この現状でも盤石とは言いきれない。

 そして天皇陛下あってこそだが、鉄道官僚として気がかりなことがある。


 一号御料車だ。


 生命に代えてでも、と総力を挙げて戦火から守り抜いた御料車は、国民の総意を得られなければ無用の長物になるのだろうか。

 もしそうなってしまったら、我々鉄道総局は何のために生命を懸けたのか。

 GHQや、それを迎合する国民からしてみれば、これも大日本帝国の亡霊なのか。

 東浅川駅で見た鳳凰は、どこか遠くへ飛び去ってしまうのだろうか。

 降伏文書調印の日、ベッスンとはじめて対峙した日、東浅川駅に導いた蓮城は何を思っているのか。


 御名を言うのは憚られたので、求める答えが返らなくてもいいからと、仁科は曖昧に問いかけた。

「憲法は、鉄道も変えますか?」

「変えるだろうな。ただ、変えてはならないところもあるさ」

 御料車は、御召列車はどちらだろう。変えるべきか、変わらぬべきか。

 保安上、周りを巻き込むほどの厳しい運転方は、変えてはならない。関東軍は、立体交差を利用して列車の張作霖を暗殺したのだ。この模倣がないとは言いきれない。

 変わるとしたら、この部分に添うのだろう。


第十四条

1.すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。


 天皇陛下と皇后陛下は、それぞれ専用の御料車を御乗用とする。食堂車や外国要人御乗用など用途は様々だが、各地に疎開させたのは御料車の数が多いからだ。

 性別が法の下に平等ならば、両陛下が揃って乗車されるようになるのだろう。

 そう思い至った仁科の目を、蓮城のひと言が丸くさせた。


「陛下が一般列車に乗車される日が、来るかも知れないな」

「そんな! それは、あまりにも……」

「今すぐに、ではないさ。窓や扉のない客車、ましてや貨車など、乗りたいと仰せになられても命懸けで引き留める」


 仁科に笑いかけてから、蓮城は東京駅を眺めた。御乗用にも相応しい客車に、一般旅客も乗車する。法の下の平等が、そのような形で達成されれば、と蓮城は強く願っていた。

 仁科は製造中の新型客車を思い浮かべて、それが遥か遠い未来にあるのでは、と感じて胸を痛めた。

 そして新憲法の条文が、未来に期待と不安を抱くふたりを問いつめる。


第二十五条

1.すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。


 新憲法施行までの半年で、日本に、鉄道総局に、この理想をすべての国民に届けられるのか。荒んだ心が荒廃させる日本を、そして鉄道を、立ち直せることは出来るのか。

 希望の光は新たな道を照らすのか、それとも影を落とすのか。

 そのとき、不安が渦巻く仁科宛に電話が鳴った。

 それは、日本に差し込む新たな希望の光だった。

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