第39話・HOPE③

 十一月三十日、横浜の新港埠頭に一隻の船が接岸した。

 船が桟橋に身を寄せると、甲板からロープが投げられる。それを港の作業員が拾い、係留柱にくくりつけ、積荷が眼前に下ろされるのを今か今かと待ち受けていた。

 接岸離岸の事故は多い。気の抜けない時間だが、幾度となく繰り返してきて、考えるより先に身体が動く作業であった。

 だが今日だけは、見えない甲板に眼差しを向け、積荷が降ろされるのを今か今かと待ち望んでいた。


 いつもどおりの時間であったが、時の流れが遅くなったのかと疑った。

 澄み切った青空に、希望の影が差した。縄の網に覆われた木箱が、簀子すのこに載せられ吊り上げられた。それがゆっくりと慎重に、時間をかけて降りていくのを、天使でも見たかのように至福の表情を誰もが浮かべた。

 木箱を彩るMILK、BUTTER、RICE POWDER。次は何かと、積荷を迎える作業員は胸躍らせる。すると木箱の大きな隙間から、横浜港に鳴き声が響く。

「おい、山羊じゃないか?」

「生きた山羊だ。おい! 鉄道総局はいるか!?」


 作業員に呼ばれて、仁科は桟橋を走っていった。

 船の名は、ハワード・スタンズペリー号。それに大量の物資を積み込んだのは、サンフランシスコの日本語新聞社の社長で日系一世、浅野七之助を中心に設立された日本難民救済会。アメリカの慈善活動に困窮する日本が含まれていないと知り、援助物資を送ると決めた。

 善意で海を渡った食糧や衣類を、港に留めるわけにはいかない。日本全国に行き届かせるため、鉄道を使う。そのやり取りを渉外室、それも貨物を専門とする仁科が担うのは当然であった。


「家畜車も繋げています、隙間が多い貨車です」

 その声を聞いた作業員は、目つきを変えた。鉄道総局の官僚がいる、現場を知らない親方だ。積荷を抱えた男たちが、知るも知らぬもを一斉に問いただしてきた。

「それは米粉です、機関車寄りの貨車に積んでください。バターと乳は、冷やさなければなりません。氷を詰め込んだ貨車が……ここに」

 仁科が貨車の引き戸を開けると、ぎっしりと詰め込まれた氷がこぼれた。靴もズボンも氷に埋まった仁科を見て、作業員は嘲笑に湧いた。


 それを気にすることなく、仁科は貨車に首を突っ込む。臭いはない、清掃は完璧だ。

 日本での生活がはじまったGHQは、船積みした食品を日本各地へ輸送するよう指令していた。缶詰や瓶詰めならば破損以外の問題はないが、生鮮食品に頭を悩ませた。

 冷凍機のある貨車はないのか、と問われたが日本でそれに近いものは、鮮魚を運ぶ貨車のみだ。それも機械などには頼らず、大量の氷で冷やして運ぶ。


 その、氷だ。肉も野菜も、冷やして運べと命ぜられた。鮮魚輸送とは比べものにならないほど、大量の氷を必要とした。

 日本の、そしてGHQの拠点港である横浜。その横浜の製氷業者を駆けずり回り、頭を下げて大量の氷を安定的に確保した。


 冷やすのは、それでいい。GHQが顔をしかめたのは、魚の匂いだった。

 連合軍専用とされた鮮魚車は、入念な清掃を要求された。庫内に匂いが残っていれば、貨車を替えるよう指示された。代わりなど簡単に見つかるはずもないので、GHQから指摘を受けないよう、木屑が出るほどに内張りを磨いた。


 バターが魚臭ければ、飢えている日本人でも幻滅する。魚を焼けばいいだろう、それがなくても魚を食べた気になる、などと軽く考えるかも知れない。

 しかし庫内の匂いを確かめるのが、仁科の習慣になっていた。渉外室の貨物専門家として、魚臭いとGHQに呼びつけられて、現場の職員に指導をするのは、もうこりごりだ。


「それでは、バターを積んでください。乳は家畜車の手前です」

 作業員が氷を除けて、バターが入った木箱を積み込む。こぼれ落ちた氷を拾い、木箱の手前や上へとかけていく。冬の気配に染まる海風が、氷で冷えた身体を凍りつかせる。

「手伝います」

 仁科は、実直な彼らに突き動かされた。こぼれた氷をすくい上げ、バターの木箱へとかける。すると作業員のひとりがスコップを抱えて、凍てつく仁科の手を制す。


「素人は下がってな、これは俺たちの仕事だ」

 名残惜しく下がった仁科に、男は歯を見せて笑いかけた。

「あんたは、あんたの仕事をしな。お役人様」

 こぼれた氷があらかたなくなったので、作業員は貨車の扉を閉め切った。たじろぐ仁科を押しのけて隣の貨車の扉を開ける。

 仁科は辺りを見回して、主のないスコップを拾い上げた。


「私は、貨物列車の担当です。救援物資を国民の手に届けるのが、私の仕事であります」

 作業員はキョトンとしてから、薄く笑って返事もせずに、木箱を貨車に積み込んだ。仁科がこぼれた氷をすくい上げると、岸壁から声が上がった。

「今度は牛だ! 牛はどこへ連れていけばいい!?」

 積載を担当した作業員が、仁科のスコップを奪い取った。

「行けよ、あんたでなければ出来ない仕事だ」

 仁科は深く頭を下げて、野太い声を響かせる木箱の下へと走っていった。

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