第36話・STATION⑤

 混乱が落ち着いた頃、一息つくよう気を遣われて改札業務を引き継いだ。事務所に入ると、出札口で切符を売る丸まった背中が並んでいる。

 食堂に入り、手前の椅子に腰掛けて、弛緩させた身体をゆったりと委ねる。気を張って留めた疲労に侵されていくのを内から感じて、それを吐き捨てるように長い長いため息をついた。


 それを聞きつけたのか、先輩駅員のひとりが出札を閉め、にやにやと笑いながら食堂にやってきた。

「ずいぶんお疲れの様子だな」

 膝を畳んで背中を丸めて、身体全体で会釈した。満鉄とはあまりに違いすぎる、と口を突いた言葉を呑んで「すみません」と照れ笑いをしてみせた。

 消えた国の国策企業だ。満州の風を吹かせては、「引揚者め」と後ろ指を差されてしまう。


「出札に入ります」

「いいんだ。少しばかり閉めないと、駅が人で溢れ返っちまう」

 詭弁だったが一理ある返答だった。車両が足りず大混雑で、ダイヤ通りに走れない上、次がいつ来るのかわからない。求められるまま矢継ぎ早に切符を売れば、プラットホームは溢れてしまう。

 そうか、改札やプラットホームをうかがって、切符を売る早さを調整するのか。考えられた仕事だと、俺は感心させられた。


 その彼も、一息つきに来ていた。胸ポケットから煙草を取り出し、マッチを擦って一筋の紫煙をくゆらせた。

 それはシケモクの巻き直しだった。あぶられた残りを混ぜたので、焦げ臭くて味は格段に落ちる。物価高騰、物不足の中、煙草を吸いたければ、これしかない。

 GHQに媚を売れば、洋モクを分けてもらえるのだろうか。


「お前は吸わないのか?」

「高いのと、手に入らないので……」

「そうか。かみさんがいたな、それでか?」

「まぁ……節制しなければいけないので」

 そうか、と彼は呟いてからシケモクを一本、差し出してきた。いつ以来の煙草だろうか。葫蘆島ころとうで足止めされていたときだ、喉が渇くだけだとやめた。


「すみません、いただきます」

 煙草を咥え、彼と顔を寄せ合って貰い火をした。

 久々の煙草は隅々まで沁み渡り、脳が撹拌されて髄まで痺れた。焦げ臭いが、旨いじゃないか。参ったな、これから煙草代がかかってしまう。

 俺が煙を吐き出すと彼は悪戯っぽく、それでいて申し訳なさそうに笑った。

「煙草代も要求に加えるか」


 そんな、と謙遜しようとした口を結んだ。俺だけの要求ではない、労働者全員のためにある組合要求を話しているのだ。

 確かに、少しでもいい暮らしがしたい。同じ屋根の下で暮らしていても、両親は自分たちの生活で精一杯だ。俺ひとりで、俺と妻の食い扶持を得なければならない。

 GHQを相手にした土産物の工場や売店PXでの仕事が増えている。妻がそこで働け楽になるが、あんなことをされてGI相手に商売出来るとは思えない。


 やはり総局の給料が頼みの綱だ。「そうですね」と愛想笑いを返した俺は、紫煙を含んで眉間に深いしわを刻んだ。これを吸い終えたら戻ろうと事務所に目をやると、ふとした疑問がぽつりと湧いた。

 鉄道総局の労働者が報われる、それだけでいいのだろうか。切符を求めに並ぶ客、改札に押し寄せる客、乗れない電車に乗ろうとする客。国民の足たる鉄道は、国益に貢献しなければならないのでは。

 そう思うのは、国策企業満鉄にいた俺だからか。


 そして、それを横目に駆け抜ける休暇列車Rest Camptrain

 あれは、かつての満鉄だ。奪い取った満州の資源を運び、それで稼いだ日本人は豪華列車でふんぞり返り、五族協和を謳った大地を走る。

 GHQが恨めしい。恨めしいが、満鉄も満州も、同じだった。そう思うと、歯痒さで身悶えしそうになる。


 いいや、同じではない。

 敗けた日本を正すため、勝者のGHQが占領している。しかし敗者であろうと、勝者の蹂躙を許していない。凌辱を許してならないが、支配下にあるのは変わらない。

 何たる屈辱。八紘一宇をうそぶいた満洲国でも、これほどまでに虐げられる罪を犯しただろうか。


 俺の思考を見透かしたのか、向かいの彼は煙草の火を消し、肩が重なり合うほどに身を寄せた。

「迷っているな? 俺も同じだ」

 軽々しい笑みが、彼から消えた。重く鋭い眼差しが俺の心臓を貫いてくる。その瞳が一瞬だけ事務所に逸れて、再び胸の内を掴みにきた。


「賃金は命綱だ。特に我々、安い労働者には、な。だが、給料を支払うのは会社だ。その会社の存続も考えなければならない、違うか」

「それを考えるのが、会社の仕事です」

「借りた言葉をそのまま写すな、お前の考えが知りたいんだ」

 彼は、組合とは異なる角度を向いている。労働者と鉄道総局が、互いをおもんばかって進む未来。

 理想だが、綺麗事だ。GHQの手に落ちて、余暇の世話までする鉄道総局。それに譲歩していては、何ひとつ叶えられない。


「しかし、今は占領下です。日本は、日本人のものではありません」

 すると彼は、不適に笑みを取り戻した。隠し玉がある、とでも言うように。

「飼い犬の総局にも、GHQに噛みつく犬がいる。渉外室の蓮城鉄道官と、仁科鉄道官補だ。出世はしないが、気に入られたのか公職追放されていない。なぁ、関屋。俺たちの手で、彼らに総局を託してみないか?」

 つまり、労働者と総局が手をたずさえる組合を作る、そういう誘いだ。また夢物語を見ると思えば返事は憚られたが、雲の上の蓮城と仁科に会ってみたいと強く願った。

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