第32話・STATION①
東洋一の鉄道会社に勤めるのだと、誇らしく日本を離れていったのは、夢か幻だったのか。
間違いなく、夢を見ていた。そしてそれは、残酷な現実でもあった。
流線型のカバーに覆われた蒸気機関車パシナ型、それが牽引する特急あじあに憧れた。
引き上げられたボイラー圧力、2メートルもの大車輪から繰り出される最高時速130キロ。客車は完全空調、後端で弧を描く密閉式の展望室。日本の看板列車であった特急燕を、遥かに凌駕していた。
これに乗りたい、これのそばで働きたい、これに乗務したいと強く願うようになっていった。
狭き門を潜り抜け満鉄に職を得ると、ひとりでは不自由だろうからと見合いの席を設けられ、あれよあれよという間に所帯を持って、新妻と船で満州に渡った。
同じ船には、満州は広大な土地を得られる希望の大地と、目を輝かせている者が多くいた。
もちろん、夢を掴んだ俺も、希望を抱いていた。
アジアをひとつにする五族協和、そして満州から世界をひとつの傘に収める八紘一宇、それを南満州鉄道が動脈となり支えるのだ、と。
その夢は大連港に着いてすぐ、ぼろぼろと崩れていった。
俺が入る少し前、特急あじあは満州を統べる関東軍から、運転休止を命じられたというのだ。
配属された駅は満州北部。町を一歩外れると荒涼とした大地、それがどこまでも広がっていた。土は冷たく固く痩せており、どれだけ土地を貰おうとも苦労と落胆が増えるだけだ。
開拓に従事する人々を横目に見て、自分は満鉄でよかったとしか思えなかった。
そして誰かに教えられなくても、大本営発表の裏にある真実が理解出来た。
戦局は、悪化している。
満州の暮らしを豊かにしようと、渡ってきた女子義勇隊。そのうち将校の娘たちは、満州は危ないと言われて日本に帰った。
それを知らされなかった平民出身の女子義勇隊、そして凍てつく大地に根を張ってしまった我々は、日本に帰ることが許されなかった。
それでも俺は諦めなかった。夢を叶えるとは現実と向き合うこと、そう信じて変わらない毎日を守り抜こうと仕事に励んだ。それが駅長の目に止まり、可愛がられて車掌、いずれは機関士と期待された。
この駅長は、子宝に恵まれなかった俺たち夫婦を世話してくれた。早くに家族を亡くされたから、俺を息子のように感じたのかも知れない。
えこひいきだと嫉妬の目で見られることもあったが、それ以上に色々と教えてくれて、そんなものは仕事で跳ね除けられていた。
しかし会社は、不穏になっていく一方だ。共産党のスパイがいないか、関東軍が血眼になって探していた。実際に逮捕者も出ていたから、日本を逃れた共産主義者がソビエトを頼っていたのは、否定できない事実だった。あるいは、共産主義に転向したのかも知れない。
氷の大地のすぐ北から満州が赤く染め上げられるのか。そう思うと満天の星空さえ襲いかかるような気がして、なかなか寝つけない夜を過ごした。
駅員は二十四時間勤務、一日が長い。それが身についていたものの、不安が祟ってぼんやり出勤した俺を、駅長のひと言が叩き起こした。
「関東軍が南進した。この町はガラ空きだ」
「南進? では、ソビエトからの守りは……」
「岸谷君、満鉄は国策会社だ。満州を守る務めは、満鉄が果たす」
そう言って駅長は、一振りの刀を抜いた。満鉄が製造した興亜一心、これを抜くときが俺にも来るのかと固唾を呑んだ。
そのときは来なかった。それが幸か不幸か、わからない。
ソビエトが宣戦布告し、二百万もの日本人が満州を逃れることになったのだ。関東軍が消えた今は、満鉄がそれを担うしかない。
駅に押し寄せた人々を客車に押し込み、南の港へ送り出す。もう、この町から日本人がいなくなろうというとき、駅長だけが駅に残った。
「駅長も乗ってください、ここには誰もいません」
「ソビエト軍が迫っています、駅と心中するつもりですか」
我々が声を張り上げ手を伸ばしても、駅長は発車の合図を車掌に送って、それから微動だにしない。俺が「駅長!」と張り裂けんばかりに声を上げると、駅長は進路をじっと見つめたまま口を開いた。
「諸君らの旅路を見送る義務が、私にはある。何、どうせ老い先短い独り身だ。満州に骨を埋める覚悟など、とうに出来ておる」
それに車掌は涙を飲んで、機関士に合図を送る。機関士は蒸気圧を絞り込み、汽車を歩くような速さで加速させる。最後の綱になってくれと、車掌が腕を伸ばしたが、駅長はそれを掴もうとはせず進路を見据えたままだった。
俺たちは、次第に小さくなっていく駅長の無事を祈って敬礼するだけで、精一杯だった。
虚しさを抱えて背中を丸め、早く港に着いてくれと、列車に乗った総員はそれだけを考えていた。
乗務経験のある職員が眉をひそめて、人垣を掻き分けて窓を開け、首を出して進路を睨んだ。
この異常は、駅員だった俺にもわかる。駅の遥か手前でブレーキをかけている。俺たちの顔色に乗車は「匪賊か」と緊張が走る。他の満鉄職員も、俺も同じようにして、迫りくる景色に目を疑った。
客車だけが切り離されて、駅構内で停まっていたのだ。この列車と同じように満員で、光が差す隙間もない。
駅直前で列車が停まると、機関士が事情を聞きに客車へと歩み寄った。やはり俺たちも、同じようにする。
「汽車はどうしたんですか、汽車はないんですか」
すると客車の乗客は、涙ながらに喉から声を絞り出した。
「関東軍が、この客車を切り離したんです。私たちは、関東軍に見捨てられました」
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