第33話・STATION②

 我々が乗る列車の入換をして、関東軍が見捨てた客車を列車後部に連結した。汽車の性能は、とうに超えている。それでもソビエトから逃れるために、関東軍が見捨てた満州を、一刻も早く離れなければならない。機関士は汽車に鞭打ち、加速をさせる。

 そのとき、誰もが抱いていた不安を、妻がぽつりと漏らした。

「ねぇ、どこへ向かっているの?」

「大連だろう。俺たちが渡ってきた港から、日本に帰るんだ」


 ところが、だ。奉天駅に残っていた駅員が、進路を変えろと通告してきた。

「大連は人で溢れている、葫蘆島ころとうに行け! 葫蘆島ならば、何とかなると聞いている!」

 なるほど、距離で言えば大連よりも葫蘆島が近いと列車の総員が納得し、駅員の転轍てんてつを受け入れた。列車は連京線の南進をやめ、北京に向かう西の奉山線へ。大連へ行くより早く着いた葫蘆島で、俺たちは奈落の底に叩きつけられた。


「日本は敗けた、満州は中国のものになる。みんなを日本に帰したいが、外地民を現地に留まらせらるのが、日本の方針だ」

 何ということだ。日本の手が及ばなくなった土地で、日本人が留め置かれるのか。

 五族協和など夢のまた夢、船上で見た幻だった。八紘一宇は、日本を除いた世界中で達成された。

 糸が切れた凧と化した我々は、いつ来るのかわからない助けをひたすら待つしかない。


 遅れて葫蘆島に着いた者の中には、逃避行の混乱で家族とはぐれてしまったと、ソビエト兵に妻や娘が襲われたなどと、悲痛な声が届いてきた。

 ただ待っているしかない我々までも、匪賊や暴徒に襲われないか、中国の覇権争いに巻き込まれないか、ソビエトが共産党を飲み込んで葫蘆島まで押し寄せないかと、不安を募らせるばかりだった。

 

 その不安を跳ね除けたのは、鉄道だった。

 満鉄職員の総力を、鉄道を引き継ぐ中国人に明け渡す。駅の営業、軌道の保守、車両の点検、列車の運転。見返りにもらえた食料で、我々は糊口をしのいだ。

 避難民には葫蘆島近傍の者もおり、使用人として雇ってくれた礼がしたいと、食料を差し入れる中国人もいた。


 しかし、とてもじゃないが、足りないものの方が多かった。

 幼子や老人から痩せ細り、みるみる小さくなっていく生命の灯火がフッと消える。もう世話など出来ないからと、差し入れに来た中国人に泣く泣く子供を託す母親を見た。

 子宝に恵まれなくてよかったと思えたのは、はじめてだった。


 避難している日本人がひとり、またひとりと消えていき、助けを待つ輪がじわじわと萎んでいって、このまますべてが無に帰すかと思った矢先の、翌年五月。

 蒋介石軍の将校を乗せた船が、日本に向かうから乗れといわれた。何とか生きながらえた妻と、強く強く抱きしめあった。こんなに強く妻を抱きしめたのも、はじめてだった。


 輸送船に詰め込まれた俺たちは引揚者と一括ひとくくりにされ、日本の土を踏んですぐ厳しい検疫を受けさせられた。風土病を恐れての足止めで、春には引揚者からコレラ患者が見つかったそうだ。しかし俺たちが乗っていた船は、栄養失調が多くを占めていた。

 栄養失調の患者が搬送されるのを、アメリカ兵が物珍しそうに見ては嘲笑を浮かべた。これが占領、これが敗戦国日本かと膝の上で拳を握り、恥辱を血が滲むまで噛み締めた。


 検疫を済ませた俺たちは、用を失った兵舎を一時しのぎの場所とさせられた。

 生きながらにして、天国に昇ったのだと思えた。

 食事は無料、主食は四百グラム。長く逃げ、長く待たされ、長く船に揺られた労いと詫びだと思い、ありがたく戴いた。痩せ細り、満鉄の恩恵など見る影もなくなった俺も妻も、この瞬間から血色を取り戻して、久しぶりに笑顔を交わせた。


 しかし、ここはあくまで一時しのぎ。次の引揚者のため、明け渡さなければならないのだ。

 一世帯五百円を上限に、郷里までの旅費を出す。そう言われたので、親が暮らす東京までと申し出て切符を買い、プラットホームで列車を待った。

 入線した列車を目にして、再び地獄に落とされたのかと引きつった。


 電気機関車の両端デッキには、客が溢れかえっている。連なる客車は乗り切れず、扉や窓から身体がはみ出している。それでもこれに乗らなければと、屋根に上がっている者までいる。

 その機関車も客車も色褪せており、まともな整備を受けていないと、鉄道の素人である妻にもひと目でわかった。


 しかしこの列車は、かなり遅れて到着している。次の列車がいつ来るのか、わからない。これに乗るしかないと思い、連結面の梯子から屋根に上がり、棒立ちしている妻に手を差し伸べる。

「頭に気をつけろ、架線に当たったら感電するぞ。それと、これを掴め。振り落とさたら、せっかくの生命もおしまいだ」

 屋根に並ぶ通風器を頼みの綱として、俺たち夫婦は東京を目指した。走行中は、景色など見る余裕はない。だが列車が横浜駅に到着すると、俺は架線も恐れずに白くなった顔を上げた。


「……焼け野原じゃないか……これが、横浜か?」

「そうとも、これでもマシになったほうだ。一年は経ったからな」

 突然かけられた知らない声を、俺は掴み取った。俺の鬼気迫る表情に、やさぐれた男は目を丸くしている。

「一年!? 一年前に、何があった!?」

「あんたら、外地から帰ってきたのか。空襲だよ、東京も名古屋も大阪も、みんなやられた」


 呆然と膝をついた俺たち夫婦に、男は吐き捨てるように助言をしてきた。

「そうか、引揚者か。これからが大変だぞ」

 男がわらいながら言うように、列車の屋根は地獄の一丁目でしかなかった。

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