第26話・REQUIEM③

 蓮城は観念したが腑に落ちないと、伸ばした両手を上げてかぶりを振った。降参だ、正義は勝利した側が得る、しかしそれは本当に正義なのか、と。

「市民の生命を奪う、そんな使命なんて──」

「蓮城、これが戦争だ。そして、これが軍人だ」

 向けられたままの銃口に、蓮城は理解せざるを得なかった。これが軍人のやり方なのだ、どこの国であろうとも。


 ベッスンは拳銃を収めるよう通訳に命じて、蓮城に腕を下ろすよう合図をした。

「私にはアメリカを、世界を救う使命がある。そのためならば狂ってしまっても構わない、罪なき市民にも銃口を向けよう。だがな、蓮城……」

 蓮城への慈しみ、自身への落胆と、世界への落胆がベッスンの瞳を悲壮に染めた。ベッスンもまた、迷いの中にあったのだ。

「君との仕事を通して、私は戦争が嫌いになってしまった。どうして、日本人は……」


 ベッスンの思いが堰を切り、波濤のごとく言葉を浴びせた。芯まで濡れた蓮城は、震えるほどに胸を締めつけられていた。

「どうして日本人は、街が焦土になろうとも絶望もせず自暴自棄にもならない? だからといって特別なことを求めず、日常として受け入れて笑ってさえいる。何故なんだ、どうして日本人はこの絶望にも耐えられる。そしてどうして、GHQを迎え入れるんだ」

 蓮城は迷いの中で、ひとつの答えを導いた。だがそれは、答えとは言えないような代物で、恥じらい目を泳がせながらベッスンに答えようとした。


 そうしなければ、生きていけない。


 いや、ベッスンの目に触れていないだけだ。今の日本人は内なる炎を秘めた獣だ。無いものを求めて略奪、暴行、破壊行為に及んでいる。車庫に帰った車両を見れば窓は割られて座席の布は切り取られ、電球を覆う網笠までも盗まれている。荒んだ心が、手に取るようにわかってしまう。

 行き場のない憤りは、車両に投影されている。


強請ねだっても手に入らないからです。しかし日本人は、すべてに飢えています。今は窮状を招いた帝国政府に憤っておりますが、その矛先がいつGHQに変わるかわかりません」


 ベッスンは、いつか見た姿をしていた。

 そうだ、失策だったダイヤ改正のときだと、蓮城は強張るどころか懐かしそうに淡い笑みを浮かべていた。

「軍用炭のように、ほどこしをしろというのか?」

「保障も統治の一環ではございませんか」

 食い下がったにも関わらず、ベッスンは嘲笑っていた。その真意が見えず、蓮城は表情を硬くした。


「共産主義的な言葉だな」

「私は、共産主義者ではありません」

 ベッスンは手の平を向けて「わかっている」と、態度で示した。そして通訳と視線を交わし、立てた人差し指を口元に当てた。仕事をするな、と通訳に伝えたのだ。

 つまり、誰かに聞かれてもいいように英語で会話を行う。少しであればわかると言った蓮城だから、通用する秘密の会話だ。


「食糧も家も、早急に取り組むべき課題だ。しかし国として、国民にとって必要なものを、我々はまず授けたい」

 そう言われた蓮城に、思い当たるものがあった。二月一日の新聞で、すっぱ抜かれた情報だった。

「憲法ですか?」

「そうだ、新しい日本の筋道を立てる。そこには、我々の願いを込めている」

 ベッスンは、英語のやり取りが聞こえないよう、蓮城の肩を掴んで身を寄せた。


「戦争を放棄させる。日本人は、戦争をしてはならない」


 蓮城は、驚きを隠せなかった。風の噂で耳にした共産主義者の憲法と、同じ内容ではないか。それを察したベッスンは、否定も肯定もしなかった。

「これは、思想や主義主張を超えた世界の願いだ。生命を捨てて敵を討つ、捕虜を恥じて自決を選ぶ、それを天皇の名を利用して、国を挙げて扇動する。そのような絶滅戦争を世界は断じて認めない。悲劇は、繰り返してはならないのだ」


 蓮城の肩に、ベッスンの指が力強く食い込んだ。死ぬな、生きろ、生命を懸けるな、そう訴えているのが痛いほどに伝わった。

 これ以上、天皇陛下の御名を穢さずに済むのか、と雲の切れ間から光が差すような温かさが、蓮城の胸に流れていった。

 しかし、次の瞬間。ベッスンの柔らかな囁きが、蓮城を奈落の底へと突き落とす。


「私からも、最後の贈り物をしよう」

 蓮城は、声も出せないほど狼狽えた。絞り出そうにも日本語が漏れそうになり、慌てて口を噤んだ。

 ベッスンは、蓮城の身体を引き寄せた。悔しい、名残惜しい、一緒に仕事をしていたい、その無念が蓮城の全身を震わせた。

「三月にはアメリカに帰る、これも軍人の使命だ」


 衝突することも多かったが、それは互いに日本を憂いていると知っており、腹を割ってぶつかれると信頼し合っていたからだ。

「准将、あなたと仕事が出来て、幸せでした」

「私もだ。気骨のある日本人と仕事が出来て、幸せだった」

 蓮城とベッスンは、握手を交わした。ともに仕事をすることは、残りわずかな時間でもあるだろう。だが、こうして出掛けられるのは今日が最後だと、ベッスンの瞳が語っていた。


「蓮城、私にして欲しいことはあるか?」

 要望は、山ほどあった。日々の生活、列車の運行に必要なものが、何もかも足りない。食糧も家も、客車も石炭も欲しかった。

 しかし、そうではない。これはベッスン個人への要望だと蓮城は思い直して、湯の花トンネルに目を向けた。

「弔ってくださいませんか、ここで亡くなった方々を」

 ベッスンは目を伏せ、躊躇いなく十字を切った。それが連合軍将校としてなのか、アメリカ人としてなのか、それとも人としてなのか、本人にさえわからない。ただ無心で、横たわっている線路に祈りを捧げた。

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