第27話・SWITCH①
ベッスン准将が日本を去った、昭和二十一年三月のこと。東京〜博多駅間に
蓮城や仁科より少し歳上の四十代半ば、円縁眼鏡に下がり眉が目立つ男は、礼を尽くそうとする渉外室に「そのまま、そのままでいい」と、浮かせた腰を椅子につかせた。
いかにも人の良さそうな彼は、鉄道総局でも名の知れた男だった。
心の底から鉄道が好きで、司法官だった父につき転校を繰り返していた子供の頃には、その町の主要駅の時刻表を暗記して、人気を集めていたそうだ。高校時代には野球部でピッチャーを務めていたが、鉄道好きには変わりなく、稚内から鹿児島まで駅を暗唱して見せた。
これらの話は、帝大工学部の同級生だった工作局の椎名から聞かされていた。ふたりは親友を越えて盟友と言える関係で、昭和十一年から翌年にかけてヨーロッパや南アフリカ、南北アメリカの鉄道視察をともにしている。
名古屋鉄道局長を務めていたが、この春から東京鉄道局長に就任した。東京は連合軍専用列車の拠点であるから、渉外室に来たのだろうか。こちらから出向かなければならなかった、と気まずい雰囲気が漂っていたが、当の男は申し訳なさそうに下がり眉を下げていた。
「忙しいところ、邪魔をしてすまなかったね。渉外室は、GHQと対等に渡り合っていると聞いたもので。これから世話になるだろうから」
「いいえ、ご足労頂きまして……」
平謝りをする蓮城と仁科の肩を、男は掴んで引き寄せた。GHQに都合が悪い話をするのだと察したふたりは、廊下に物音がないかと耳を澄ませた。
「MRSの新司令官について、知っているか?」
ベッスンの後任だ。確か聞いた話では、と名前を囁く。
「ライオン大佐と伺っております」
すると男は眉間に深くしわを刻み、渋い顔をして見せた。間違っていたのかと、狼狽えながら蓮城と仁科が視線を交わして、男に問うた。
「違うのですか?」
「いいや、合っている。だが、本命ではない」
事情が飲み込めていないふたりは、ますます靄に包まれていく。それを払い除けるように、男が真相を語りだした。
「ライオン大佐が就任してすぐ、シャグノン中佐に交代する」
ライオン大佐は中継ぎか、とふたりは意外そうな顔をした。GHQの人事はわからないが、遠い極東にまで出張るのだから、そういうこともあるだろうと納得するしかない。
そこへ男が身を屈め、話の核心に迫っていった。
「ライオン大佐は細かいらしいが、シャグノン中佐は評判が
たったこれだけの情報では、不穏な空気が流れるだけである。ただ、日本に理解を示したベッスンのようにはいかないと、それだけはわかった。
「どのような人物ですか? シャグノン中佐というのは」
「アメリカの鉄道会社で課長を勤めていたそうだ。鉄道通なのは、間違いない」
蓮城と仁科は、同じく鉄道会社出身のレイ中尉を思い浮かべた。ただ彼は現場寄りの人間だが、管理職だったシャグノン中佐は鉄道総局本体に色々注文をつけるだろう、と予想された。
「あまり喧嘩腰にならないほうがいいよ、蓮城君」
男が笑みを浮かべてした忠告に、蓮城は顔を引きつらせていた。彼は知っているのだ、軍用炭を融通してもらうためにベッスンを脅し、新聞記事にまでしたことを。
「肝に銘じます」
「ベッスン准将は日本に理解がありすぎた。それが総司令部には疎ましかったのだろう」
それではまるで更迭だ、と蓮城は引きつっていた顔に影を差した。そしてGHQの本心は、ベッスンの意とは違うところにあったと知って、三人は鉄道の行く末を案じて口を噤んでしまった。
これに耐えきれなくなった仁科が、種を飛ばす鞘のように声を張った。
「司令官が誰になろうと、我々は自分の仕事をするまでです。それにまずは、ライオン大佐がMRSの司令官に就任します。細かい鉄道通の人物ならば、レイ中尉で慣れているではないですか」
次第に明るく弾んでいく声に、蓮城は思わず吹き出した。レイ中尉が三人に増えるのだ、そう思うと何も怖くなくなってしまった。
「そうだな。レイ中尉は鉄道通というか、鉄道好きだがな」
「誰だね、レイ中尉とは。そんなに鉄道が好きなのかい?」
「隠していますが、生粋の鉄道好きです。だから、現場によく足を運ぶのでしょう」
「そうかい。三高時代に『鉄道』とあだ名された、私とどちらが上だろうか」
途端に弾んだ三人の会話に、子供のような笑い声が混じっていく。彼が東京鉄道局長ならば安心だ、蓮城と仁科がいればGHQとの交渉も安泰だろう、と連帯感が生まれていった。
その話も聞いたはずだ、と思い出した仁科が彼を
「椎名さんのところへは、行かれましたか?」
「君たちには申し訳ないが、はじめに挨拶したよ。他に周るべきところは、あるかな?」
「でしたら、建設課の伊藤課長のもとへ向かわれては如何でしょうか。東京駅の修復を担当されております」
「ありがとう、東京駅は日本の玄関だからな。邪魔をしてすまなかったね、これで失礼するよ」
ちらりと窓に目を向けてから、彼は渉外室を立ち去った。ふたりは、現場を思う人柄の良さの余韻に浸った。
「帝大とはいえ、工学部出身で東京鉄道局長とは、異例の出世ですね」
「しかし、話してみると合点がいくな。鉄道総局に必要な人だ、下山さんは」
そう、これが下山定則という男であった。
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