第23話・LIBERTY⑤
法師が仕上げた専用客車の図面を抱えて、仁科は大井工場へと入っていった。しかし、何やら様子がおかしい。工員が広場に集まり、渋い顔で腕組みをしていた。休憩時間にしては、緊張の糸が張り詰めている。まさかと思い、仁科は足音を立てぬように事務所へ向かった。
工場で背広は、よく目立つ。事務所のドアノブを掴む前に、集った工員に囲まれた。
「丸の内の職員だな? 労働組合だ」
大井工場に張り詰めていたのは蜘蛛の糸、仁科はうっかり絡め取られた羽虫の心境である。事務所に逃げても袋の鼠、いずれ捕らえられるのは同じだ。仁科は固唾を呑んで、組合員と対峙した。
「鉄道総局渉外室、鉄道官補の仁科だ」
「畑違いは承知の上で、話を聞いてもらいたい」
渉外であろうと鉄道官僚が現場に来た、この声を届けなければと、彼らは必死になって食い下がる。
「いや、時間がない。客車の図面を届けにきた」
「いいから聞け。その仕事をするには対価が要る、物価高騰に見合った対価だ」
「それは渉外室の担当では──」
扉がわずかに開かれて、仁科は事務所へ引き込まれた。そして強引な交渉を断ち切るように、事務所の扉は閉ざされた。
仁科の腕を引いたのは、大井工場長だった。
「仁科鉄道官補、ご苦労さまです」
「一体どうしたんですか、彼らは……」
悪い夢でも見た顔で仁科が図面を手渡すと、工場長はそれを開くと、溜め息のように返事をした。
「一時金を要求しておるのですよ。確かに食うだけで財布が寂しくなるんだから、気持ちはわかりますがねぇ」
その思いは、官僚である仁科も同じだった。何もかもが足りず高い、それは依然として変わらない。
同じ苦境に立たされながら、どうして噛みつかれなければならないのかと、理不尽に感じてしまう。
「しかし、槍玉に上げられたのがGHQではなく、我々鉄道総局なのでしょう。占領下では自由に動けません、それは彼らも作業を通じて理解しているのでは」
「そりゃあ、彼らからして見ればGHQは組合活動を許した自由の使者ですから。戦争に反対して投獄されていた共産主義者が、釈放されてから労働組合を後押ししているのも効いています」
MRSと折衝している仁科には、GHQが自由の使者とは言い切れなかった。この組合活動も、帝国思想を破壊するための策略ではないか、そう疑わずにはいられない。
そうだとしたら、扉の向こうの結束は、GHQの望み通りなのか。これを見聞きしたRTOは、何を思っているのだろう。
これが、貴方たちが望んだ自由なのか、と。
工場長は広げた図面を机に置いて、疲れた笑顔を覗かせた。
「安心なさい、仁科さん。GHQの仕事ですから、彼らはきっちり仕上げてくれますよ」
「……そうですか。渉外室としては、それで十二分です。私たちは、同じ鉄道従事員として彼らを尊敬し、信頼しています」
「それはありがたいお言葉ですな、彼らにも伝えてやりますよ。さぁ、お忙しいでしょうから、裏からお出になりなさい」
と、工場長の導きで裏道を行き、大井工場を後にした。振り返ると隙間から、ミルクチョコレート色に塗られた専用客車がちらりと覗く。
大井町駅まで歩く間、MPのジープが砂塵を巻き上げ過ぎ去っていく。それを垢まみれの子供たちが追いかけて、雛鳥のように声を張り上げていた。
『Give me chocolate!』
チョコレートなら、鉄道総局ももらったよ。ただその引き換えが、あまりに大きすぎるんだ。彼らがくれるチョコレートは、決して甘いばかりではないのだよ。
自嘲を隠すため視線を下げると、子供たちが取りこぼしたミルクチョコレートが目についた。仁科はそれを拾い上げ、力尽きて離脱した子供に手渡し、頭を撫でた。
蠢く感触が、手の平にあった。
シラミだ。ボロを着ているこの子たちは戦災孤児か、それに近い境遇だろう。
「たったこれだけで足りるのか? そら、みんなを追いかけな」
薄く小さな背中を押して、ジープを追う仲間たちへと帰していった。
次第に小さくなっていった子供たちは、そのうち捕まりDDTで真っ白に染め上げられた。
人も列車もミルクチョコレート色に塗りたくったGHQは、次には日本を真っ白にするのだろうか。
大日本帝国に染められた臣民は、彼らから何色に見えたのだろう。
灰色かな、と嘲笑った仁科は、子供たちの行く末に凍りついて青ざめた。
脇からトラックが飛び出した。「狩り込みだ!」と逃げる子供たちを捕まえて、幌をかけた荷台へと放り込んでいったのだ。
家も親も失って浮浪している戦災孤児は、施設に収容されると聞いた。児童保護を謳ったそれは場所によっては劣悪で、酷い目に遭っている子供もいると噂された。
それで子供たちは、これを「狩り込み」と呼んで逃げ回っている、というわけだ。
いくらかの取りこぼしには目をつむり、子供たちを乗せたトラックは、その場から走り去った。
子供たちだけで築いた自由は、大人たちに疎まれ奪われた。トラックが行き着いた先、児童保護収容施設で誰もが認めてくれる自由を、子供たちは得られるのだろうか。
どこまでも広がる大空を、自由に漂い覆い隠している雲を見上げて、仁科はぽつりと呟いた。
「まったく、自由っていうのも窮屈だな」
渡したはずのミルクチョコレートが落ちていた。蜘蛛の子を散らすように子供たちが去ったと知った仁科は、それを拾い上げて銀紙を剥き、甘さに包み隠された、ほろ苦さを味わった。
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