第16話・OCTAGONIAN⑧

 十月六日、朝七時前の上野駅。高架ホームで蓮城はオクタゴニアンの帰京を待っていた。

 仙台、青森と回ったのちに急遽、秋田も視察すると命令が下されて、現場はダイヤ変更に追われた。そののちも最後の視察地、新潟を回ったあとに高田にも寄ると指示された。気まぐれにも感じる指令に答えた現場職員に、足を向けて寝られない。

 その間に、日本はすっかり塗り替えられた。


 二日。接収された第一生命館に連合国軍最高司令官総司令部、GHQが設置され占領が本格化した。

 四日。GHQから『自由の指令』が発令されて、政治犯や思想犯が釈放された。思想の自由を奪っていた治安維持法や宗教団体法などが廃止され、特別高等警察が解体された。

 敗戦処理という難局を、皇族の威光で乗り切ろうと組閣された東久邇宮内閣は、共産主義をも認める自由を不服とし、翌日の五日に総辞職の意向を表明している。


 この内閣が残したものは、日本の貞操を守るために設立されたRAA、特殊慰安施設協会くらいではないだろうか。

『生きて虜囚の辱めを受けず』と言っていた大日本帝国が、困窮の海に溺れる寡婦たちを愛国心で釣り上げて、仕事の中身を偽ってまでGHQに抱かせるなんて、最後の最後まで罪なことをする。これでは大陸や南方の最前線で何をしたのか、わかったものではない。

 それを喜んで利用している連合軍の兵士たちも、肉体の壁がなければ何をしたのか、想像するだけで身の毛がよだつ。


 外地に残された人々は、果たして無事だろうか。

 九月二十六日、南方からの復員船が別府港に帰港した。連合軍専用列車の運転延期の始末に追われていた私でも、足りない中で列車を仕立てなければと騒ぎになったのは記憶している。

 ポツダム宣言により武装解除と植民地、占領地の放棄を命ぜられたので、これからも復員兵が日本に帰還するだろう。しかし軍人の任を解かれた彼らの受け皿は、一体どこが担うというのか。


 そして、外地の邦人は現地に留まらせるのが政府の方針ではあるが、土地や資源を取り返した現地人が黙っているとは思えない。日本領ではなくなった土地に留まるよりは、軍人とともに生まれた土地に帰りたいと願うのが人情であろう。それが証拠に、政府が止めるも聞かず、用を失った軍艦に乗り、港に引揚者が押し寄せている。

 連合軍を優先する中、列車を仕立てなければならないので、運用担当の苦労は絶えない。


 またアメリカが進軍を制したが、満州に隣接するソビエトの挙動も信用ならず、不安である。

 日本は検疫を課題としているようだが、その日本を統べるGHQは人道的見地から、一刻も早い引き揚げを指示している。

 日本政府と連合軍の狭間で揺れる外地の人々は、どうなってしまうのだろうか。


 そのとき、上野台地の影から黒煙が立ち昇った。銀の鉄路に高圧蒸気が吐き出され、巡る思索を掻き消した。

 磨き上げられた黒光り、整然としたシリンダーの排気音、他とは違う汽車であるからオクタゴニアンだとひと目でわかる。連なる客車も傷ひとつなく、朝日を受けて輝きを放つ。灰色の高架下との対比が異様に映るほどである。

 長い旅を終えようとする機関士を、コックを労いたいところであったが、渉外室鉄道官としての勤めがある蓮城は、白帯を朝日の色に染める展望車へと向かっていった。


 蓮城が狙いを定めた辺りに展望車が停止すると、アイケルバーガーは返礼のためデッキに出る。朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んでから、迎えの蓮城に握手を求めた。

「素晴らしい旅だった。突然の行程変更にも、よく対処をしてくれた。鉄道総局に感謝する」

 自分だけの力ではない、と躊躇っていた蓮城は、今は鉄道総局を代表しているのだと、アイケルバーガーの手を握った。初老に差し掛かった白い手は、心からの熱を帯びていた。

「マッカーサーに困ったときは、私に頼ってくれ」


 鉄道総局は、勝利した。それが蓮城の胸中に痛いくらいに沁みてきて、喉から涙が込み上げてきた。身体の内から湧き上がる震えを握った手から、アイケルバーガーに伝播させた。

 展望デッキの扉を開いて様子を覗うベッスンが、蓮城に向けて片目をつぶり、握り拳を縦にして親指だけを上に立てる。そして、声なく蓮城に告げた。


 Good job、と。


 堪らず蓮城ははにかんでから、アイケルバーガーに問いかけた。

「中将は、列車の旅がお好きですか」

「ああ。こんなにいい旅は、アメリカでも叶わないだろう。整備された美しい客車、機関士の真面目な運転、贅を尽くした料理の数々、そしてそれらを影で支える鉄道従事員の努力に、感服させられた」

 それを聞いて歓喜に浸る蓮城であったが、続けられた言葉を耳にして、一瞬で凍りついたのだ。


「四日後、オクタゴニアンを走らせてもらいたい」

「四日後?……ですか?」

 蓮城は呆気にとられ、オウム返しもままならず、それから先の言葉を失った。

 しかし、発車のときがきた。蒸気機関車が黒煙を吹き上げ、耳をつんざく汽笛を鳴らした。アイケルバーガーが車内に戻ると、迎えたベッスンがデッキの扉を閉めた。蓮城が後ずさると、二百メートル先からの熱い吐息が轟いて、オクタゴニアンは東横浜駅へと加速をはじめた。


 勝利は得たが、勝ち得たものは、何ひとつない。

 いいや、立ち尽くしている暇などない、まだ勝負はこれからだ、と蓮城は自らの頬を叩いて鉄道総局へと向かっていった。

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