第15話・OCTAGONIAN⑦
金谷ホテルで小休憩したのちに東照宮や中禅寺、華厳滝を巡ったマッカーサー夫人は、夕刻になって帰京した。
連合国軍最高司令官夫人といえど、ひとりが帰るためだけに列車をもう一本は仕立てられない。オクタゴニアンの寝台車を一両だけ切り離し、一般列車に連結して宇都宮へ。そこから上野行き列車に寝台車を付け替える、と接収された客車を回送したときの手法を用いる。
往路で限界運転を強いたのも、傷病兵輸送のように余裕があれば時間が掛かろうとも構わないのも、土地勘がなく所要時間がわからない連合軍ならではと言えた。
ただ、わからないからと言って遠慮はない。発車時刻は決まっているが、アイケルバーガーの都合で時間が前後するかも知れず、機関士機関助士ともに気の抜けない時間を過ごしていた。
そして宇都宮行き最終列車の発車直前、専用列車発車予定時刻の三十分前。第八軍が慌ただしく乗り込んで、車掌を勤める最後のひとりが機関士に通告をした。
「直ちに発車しろ」
機関士も機関助士も、日光駅信号掛も飛び起きるように発車の準備に勤しみ、最終列車の後を追って宇都宮駅へと駆け出した。
展望車では、アイケルバーガーがベッスンに労いの言葉をかけていた。
「ベッスン、よく気づいたな。宇都宮にいる警備や見送りを待たせるところだった」
「宇都宮から日光まで登り坂、あれだけ飛ばしても四十分はかかっていました。鉄道にとって、勾配は大敵なのです」
「ならば、下り坂も険しいと」
礼には及ばぬと謙遜するベッスンは、勾配までは考慮していなかった、と組み立てた行程を悔やんでいた。峠越えはアメリカにもあるが、日本の線路は想像していた以上に険しい。MRSだけでは列車を走らせられない、よくぞ鉄道を守ってくれたと心の中で感謝を捧げた。
次の今市駅にて最終列車を追い抜いたので、ベッスンは鉄道総局から預かっていたダイヤを広げた。
「ここは単線区間です。最終の前を走れば、途中駅でのすれ違いが発生せず、宇都宮に早く着けます。日本人は、我々によく尽くしてくれています」
跳ねるような言葉を耳にし、アイケルバーガーは怪訝に眉を歪めていた。
「ベッスン、わかっている。占領は侵略ではない、この列車もこの土地も接収した建物や基地も、借り物だ。いずれ返さなければならない。だがな……」
アイケルバーガーが広げたダイヤに肘をつくと、ベッスンは背筋を硬直させて固唾を呑んだ。
「ベッスン、日本に肩入れしすぎではないか?」
突き刺さるほどの眼光が、ベッスンの狭まる瞳孔を覗いた。広がった虹彩を盾にして、信念を歪めぬようにと言葉を選ぶ。
「オクタゴニアンは機関士もコックも日本人です。日本人の協力を得られなければ、占領のはずが侵略に変わってしまいます」
するとアイケルバーガーは、口角を上げて目尻に深いしわを刻んだ。
「ベッスン、若いな。感受性が豊かで、何でも吸収しようとし、感化されやすい。しかし、その思考は柔軟だ。私などとは違ってな」
アイケルバーガーの貼りついた笑みに、ベッスンは戦慄していた。連合軍は厳しい態度を取りながらも、日本に対する敵愾心は持っていない。占領政策を実施する上で、人間性を問うたからだ。もちろんアイケルバーガーも、そのうちのひとりである。
だが、そのもうひとりであるベッスンは、鉄道を通して日本に感銘を受けてしまった。
我々連合軍は、友好な国家関係を結びにきたわけではない。そもそも占領下にある日本は、国家の
「出過ぎた真似をしてしまい、申し訳ありません」
謝り方まで、まるで日本人ではないか。アイケルバーガーはそう思い、苦笑せざるを得なかった。
「ベッスン、謝ることはない。様々な意見があってこその、自由と民主主義ではないのか?」
そう、アメリカが掲げる自由と民主主義を広めるために、連合軍は日本を占領している。明後日には『自由の指令』を発令し、政治犯として収監された宗教家や共産主義者を釈放する予定である。
そこまで考えたベッスンは、これから向かう東北に思いを馳せた。すると霧のような不安が胸に込み上げ口を突き、当たり前としている共通認識をこぼさずにはいられなくなった。
「枢軸国打倒を目標に手を結びましたが、その目的が果たされた今となっては、ソビエトが不穏です。分割統治となっていれば、北海道から南進していたはず」
「そのとおりだ、ベッスン。各司令部の視察に東北を選んだのは、いずれ訪れる未来のためだ」
しかし、と言いかけたベッスンを、アイケルバーガーは案ずることはないのだと手の平で制した。
「裏返しの国を見れば、人は自由を感じるはずだ。そして民主主義は、選択の自由も保証する。民衆が選ばないのも、それは自由だ」
自由のもとに活動をする共産主義を、国民が選択しなければいい。そして共産主義を危険視するプロパガンダは、言論の自由のもとに広められる。扇動されても、それが国民の意思であれば民主主義には違いない。アイケルバーガーは、そう考えているのだろう。
これでは、まるで……。
思考を断ち切ってしまおうと、ベッスンは時計に視線を落とす。次の瞬間、微かな抵抗が身体を揺らした。
「間もなく宇都宮です」
「接待は終わった。これからが我々の本領だ」
列車が宇都宮駅に進入すると、アイケルバーガーは見送りの将校やMPへの返礼のため立ち上がる。列車の停止直前に、ベッスンは展望デッキへの扉を開いた。
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