第12話・OCTAGONIAN④

 東條英機の自決未遂から一週間後。

 大井工場。赤煉瓦車庫の前には蓮城と、期待に胸を躍らせているアイケルバーガーら、第八軍一行の姿があった。

 蓮城が扉を開くなり、我先にと足を踏み入れて、磨き上げられた漆塗りの客車の数々に目を奪われてから、アイケルバーガーが問いかける。

「今の天皇の客車は、どれだ」

 しかし蓮城は、腹でも割くように毅然と答えた。

「ここには、ありません。やはり一号御料車を差し出すわけには参りません」

 立場がわかっているのかと、アイケルバーガーが怒りを露わにする、それより前に蓮城は一両の客車を開いた手の平で指し示した。


「今日は、こちらの客車をご覧頂きに参りました」

 その客車は、ほかと同じように金細工があしらわれた暗紅色の漆塗り。古めかしい二重屋根に、重々しい三軸台車を履いている。

 が、ひと目でわかる異様な姿に、鉄道には詳しくないアイケルバーガーも怪訝に眉をひそめていた。

「この中央の大きな扉は何だ。ずいぶん華美だが、貨車なのか?」

「いいえ、これは賢所乗御車かしこどころじょうぎょしゃ。神が御乗用になる客車です」


 前代未聞の存在に、アイケルバーガーらの理解は超越した。そのような客車は世界中を探しても、他にはないだろう。

「神だって!? 乗れるのか!? どこに乗るんだ!」

「この大扉の向こうが神の御座所、奉安室となっております。大正天皇御即位の折、神器である八咫鏡やたのかがみを京都御所にお迎えするにあたり、この客車を製造しました。今上天皇御即位の折にも、使用しております」


 さも当然と説明をする蓮城に、アイケルバーガーは怒りさえ覚えるほどだった。

「鏡のための客車だと!? 鏡が神だというのか!」

「八咫鏡は皇祖神、天照大御神と同体とされる神器です。天皇陛下であろうとも同乗はもちろん、目に触れることさえ憚られます」

「これには、天皇でさえ乗れないのか」

「同乗できるのは宮中祭司を担う宮内庁掌典職のみです。専用客車を仕立てなければ、移御いぎょは叶いません」


 蓮城は、狼狽えているアイケルバーガーの瞳を、真っ直ぐに睨みつけた。

 そうだ、この目だ。生命に代えても誇りを守る、これが日本人の恐ろしさだと、アイケルバーガーは固い生唾を飲み込んだ。

「連合軍は、神も接収なさいますか?」

 客車のために自決されては、敵わない。しかし今の蓮城ならば、やりかねないと思わせた。アイケルバーガーは両手を上げて、降参だとかぶりを振った。

「我々は神を接収しない。蓮城、日本がわからなくなったよ。ただ、天皇の客車に触れないほうがよさそうだ、それだけはわかった」


 一号御料車は守られた。蓮城は安堵の吐息をつくと、アイケルバーガーらを車庫の外へと導いた。

「代わりと言っては何ですが、第八軍専用に客車を整備しております。我々鉄道総局が死守した展望車です、きっと気に入って頂けるかと思います」

 それを聞くと、アイケルバーガーは満足そうに頬をわずかに吊り上げた。蓮城もまた、上手くいったと同じような笑みを浮かべた。

「展望車とは、まるで大統領にでもなった気分だ」

「マッカーサー元帥が乗らないのが、惜しいくらいです」

 修繕庫に足を踏み入れるなり、アイケルバーガーは10号展望車に感嘆し、それから言葉を失った。


 *  *  *


 しかしオクタゴニアンの運転直前。けたたましいほどの衝撃が鉄道総局渉外室に轟いた。

「運転延期ですか!? そんな、唐突な……」

 旅程に合わせて奔走し、準備していた列車も食材もが水泡に帰したような気がして、仁科はその場に立ち尽くしていた。

「当日の都合が悪くなったと聞いている。その詳細は不明だ」

「都合……ですか。何でしょうね?」


 東條自決未遂のような大事件かと、不穏な懸念が漂った。蓮城はそれを振り払い、仁科を現実に引き戻す。

「準備の時間が増えた、そう思うしかないだろう。今は手配した先に、連絡するのが先決だ。私は金谷ホテルに連絡をするから、仁科君はニューグランドへ延期の旨を伝えてくれ。手分けして、一刻も早く伝えよう」

 ふたりはすぐさま受話器を掴み、ほうぼうに断りを入れ、連合軍に代わって頭を下げ続けていた。


 そして、九月二十九日。

 仁科は新聞を握りしめ、赤煉瓦駅舎から鉄道総局渉外室へと飛び込むと、絶望の果てに達観した蓮城が、同じ新聞を広げていた。

 その紙面には、姿勢を正して震えを押さえる天皇陛下と、腰に手を当てるマッカーサー元帥が並んだ写真が掲載されていた。


 堀を挟んで皇居を睨む連合軍が天高くまで遠のくようで、皇居が我々のすぐそばに堕ちていくような気がしてならなかった。

 蓮城は、広げた新聞ごと机に手をつき、力を失いうなだれた。そんな彼を支えようにも、茫然自失の仁科には立っているのがやっとであった。

 蓮城の脳裏に、アイケルバーガーが言い放つ。


『我々は神を接収しない』


「マッカーサーめ……神に手を出せないとあれば、天皇陛下を人間に貶めるのか」

 ふつふつと沸いた怒りに、蓮城の呟きが震えた。そして、自身の言動が裏目に出たのでは、と激しい後悔に苛まれ、割くほどの痛みが腹に走った。

 そこへ一本の電話が入った。希薄な意識で受話器を取った蓮城に、それが二度目の衝撃を走らせた。

「オクタゴニアンに、ジーン・マッカーサー夫人が乗車する……?」

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