第8話・MANILA②

 傷病兵輸送列車は、茅ヶ崎駅でも向きを変える。

 ここから再び非電化区間。牽引してきた機関車を切り離し、後端に汽車を連結する。最後を担う機関車は頼りないほど小さくて、それを目にした傷病兵は嘲笑に湧いた。

「見ろよ、入換機Switcherだぜ?」

「俺たちを操車場yardに連れていくのか?」

「窓もベッドもあるとは、こいつは上等な貨車だ」

 相模川に沿って厚木へと北上する相模線は、厚木と横浜を結んでいる東急神中じんちゅう線の前身である、神中鉄道という私鉄の一路線だった。沿線に海軍工廠があったのと、空襲の備えとしてバイパス路線が必要と判断されて、国家総動員法に基づいて戦時公債で買収、国有化していた。軍需輸送も担っていたから線路は強化したものの、豆汽車から小型機に背伸びをした程度、入換機並みの軽い汽車でなければ走れなかった。


 連結のわずかな衝動と、引き通されたブレーキの排気音が、傷病兵を不安が混じった嘲笑の渦へ巻き込んでいく。

 しかし、それに反して機関車は軽快に加速して、相模川が連れた風を客車内へと導いていく。

 傷病兵が、どよめいた。あんなに小さな機関車の走りとは思えない、と。

 東西に横たわる茅ヶ崎駅からカーブして、相模線が北上する。機関助士は振り向いて、湾曲する列車の窓から汽車を見つめる傷病兵に、したり顔を見せつけた。

 この汽車は支線区の客貨両用万能機のほか、東京オリンピック開催時には、都市部における快速運転にも用いられるよう設計された。日中戦争勃発と、軍部の反対により五輪が中止されたため、この俊足は日の目を見ることが出来なかった。それを、ようやく発揮出来たのだ。


 が、単線で細いレールでは高速運転も叶わない。制限速度目一杯で加速をやめて惰行する。この列車のために分岐器を開通させているから、速度制限をくぐり抜けては制限一杯まで加速する。そのたびに機関助士は運転台から身を乗り出して、これまでの区間の通行票タブレットをプラットホームの受器に差し、これから先の通行票を立ち合っている駅長から奪い去るように受け取った。

 ひたすら広がる田畑の中を、切り裂くように駆け抜ける。寒川神社を避けてカーブし、相模川を横目に見て、再び北の田園へと黒く丸い鼻先を向ける。


 遥か遠くにポツリと灯る橙黄色の場内注意、制限40。左手のブレーキハンドルを水平に七時の方向、常用に回してブレーキシューで車輪を締め上げる。頃合いだ、六時の方向、重なり位置、ブレーキシリンダ空気圧を一定に保つ。

 速度の低下に従って、制動力が効いてくる。ハンドル位置を五時の緩め、ブレーキシリンダ圧を低下させ六時の重なり。指示より低い速度を保ち、場内信号機の内方へと進入し、分岐器の制限35を物ともせずにくぐり抜ける。

 機関士が捉えた、赤く灯る出発停止。その手前に植えられた停止位置目標めがけて最後の緩め、微かにブレーキシリンダ圧力を残して、六時の重なり。列車は所定の位置に、滑り込むように停車した。


 後方のプラットホームでは、迎えの連合軍兵士がバタバタと扉を開いて車内に入り、寝そべっている傷病兵を労った。身体を支え、ときには肩を貸し、駅前に乗りつけられたトラックへと導いていく。

 その物音に機関士は、ブレーキを九時の非常位置まで回してから、側窓がわまどを開けて首を出す。

 と、ひとりの連合軍将校が右手を開いて突き出してきた。

「Good job」

 機関士の技術は万国共通、しかも戦争がはじまるまでならった鉄道大国、アメリカ。そこから遥々来た人に褒められては、悪い気がしない。機関士は手袋を外して身を乗り出して、微笑む将校と握手を交わした。


 手が離れるのを見計らい、機関助士が聞えよがしに呟いた。聞かせているのは機関士と、通票を受け取りに来た駅長である。

「ここから神中じんちゅう線に乗り入れればいいのに。連合軍向けの燃料輸送だって、やっているんだから」

 機関助士が言ったように、もとは同じ会社だった相模線と神中線は、厚木駅で線路が繋がっている。

 駅長は通票と引き換えに、答えを渡した。

「人と違って燃料は、おいそれと載せ替えられないからな。それにあれを見ろ、連合軍が用意したトラックだ」

 傷病兵を乗せたトラックは、敗戦により用をなさなくなった帝国陸軍のものだった。運転手も連合軍兵士なので、接収したのだと一目でわかる。

「皇軍は今や、アメリカのものだ。俺たち鉄道総局も、そうならないといいな」


 鉄道総局が、連合軍に接収される──。


 機関士は煤でまみれた顔を右手で拭い、走る虫唾を真っ黒に染めた。機関助士はそれを見かねて、腰から下げた手拭いを大理石色の顔に差し出した。

「ちょっと休みましょう。全員が降りてから回しです」

「そうしろ、国を背負った運転は疲れただろうよ。解放するから、ブレーキハンドルを抜き取りな」

 機関士が指示どおりにしたのを確かめて、駅長は機関車後方へと回って空気ブレーキ管を切り、連結器の解放てこを引き上げた。

 あとは駅構内の上下線と、両端でひとつに束ねる分岐器を使い、機関車の連結位置を逆側に変えて、この列車を茅ヶ崎へ帰す。

 しかし手拭いで露わになった顔の白さに、駅長は当分かかりそうだと思い、茅ヶ崎寄り客車の連結器を開いて、煙草の先を赤く灯した。

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