第7話・MANILA①

 アメリカ軍の輸送船が、横浜の山ノ内埠頭に接岸した。長い船旅に耐えられたのだから当然だろうが、負傷の程度は誰もが軽微で、下船から病客車の乗車まで自力で行えていた。

 鉄道総局の蓮城、仁科両名と打ち合わせをして、わずか三日。このわずかな間に連合軍の傷病兵輸送を叶えたのだと、改めて感服させられるベッスンであった。


 ひとりのアメリカ兵が白墨を取り、茶色い車体の中央になぐり書きをしているのが、目に止まった。何を書いているのか寄ってみると、彼は興奮気味にその字を見せつけた。

「MANILA……?」

「俺たちがマニラから来たっていう証を残すんだ」

 すると周りの傷病兵士が「馬鹿だな」と彼を嘲笑って、白墨を掴んで同じようになぐり書きをした。

「どうせなら田舎を書けよ。俺たちはここから日本に来て、今からここに帰るんだってな」


 SEATTLE──。

 NORFALK──。

 NEW ORLEANS──。


 アメリカの地名が日本の客車を彩っていく。それがこれから先の日本を予見するようで、雁首を引っ込めた機関士は、小さな前面窓にしかめっ面を映し出した。

 と、そこへ文字などではなく、高らかな声で地名が上がる。

「Pennsylvania!」

 再び首を突き出すと、ひとりの中尉が車端で膝を折り台車をまじまじと見つめているのが、機関士の目に飛び込んだ。まだ傷病兵の乗車は済んでいないからと、年配の機関士は運転台を降りて中尉のもとへ歩み寄った。


 機関士は通訳にチラリと目をやってから、子供のように破顔する中尉に話しかけた。

「これはTR23形台車、ペンシルベニア形とも言われている」

「これを考案したペンシルベニア鉄道は、アメリカ最大の鉄道会社だ。等間隔に並んだ窓も、よく似ている。本国とよく似た客車を、日本で目にするとは思わなかった」

 このレイ中尉はアメリカのサザン・パシフィック鉄道出身で、連合軍随一の鉄道通だ。機関士として手を抜くつもりは毛頭なかったが、彼の前では一切の妥協が許されない。


 乗車が完了したとレイ中尉が告げたので、機関士がブレーキを緩解かんかいさせる。汽車も客車も一斉に吐息を漏らし、ブレーキシリンダ圧がゼロとなる。正面窓下のハンドルを前進側に傾けて、頭上から下がるハンドルを手前に寄せた。

 前端のシリンダに蒸気が吹き込み、ピストンが力強く押し込められる。ピストンから繋がる主連棒が突き動かされて、大車輪が火花が散るほどの空転をしてから、二条のレールに食らいついた。

 連合軍を乗せるからと、ない中で捻出した良質炭を機関助士がボイラーにべる。悔しいが、絶好調だ。石炭だけではない、この汽車も造りがよく整備が行き届いている。こんな機関車を運転するのは、何年ぶりだろうか。


 鶴見駅で列車は折り返す。ここから茅ヶ崎までは電化区間、かつては特急列車を牽いた電気機関車が殿しんがりを務める。ここまでの機関士と、ここからの機関士が、すれ違いざま言葉の代わりに鋭い視線を一瞬だけ交わした。

 停車した場所は、線路と信号機だけが並んでいる貨物線。牽いた汽車を切り離してから、前端デッキの機関助士から合図をもらい、逆側に電気機関車を衝動のないよう連結する。連結手からブレーキ管を接続したとの報を受け、圧縮空気を列車全体に沁み渡らせて、反対側の運転台へと乗り移る。


 正面の四角い窓、物々しい手すりが生えたデッキの先に、緑の光がぼんやり灯った。それを機関士が真っ直ぐ指差す。

「出発進行」

 第二走者の機関士が左手でブレーキを緩め、右手で力行りっこうハンドルを握って一段投入。電動機が唸りを上げて、二条の鉄路を踏みしめる。また一段、また一段と力行ハンドルを投入し、灰色の街を焦げ茶の列車が駆け抜けていく。

 ここから一路、茅ヶ崎まで……というわけには、いかなかった。MRSの指示により、横浜駅で一時間二十分も停車をするのだ。横浜港から厚木駅まで直線距離では近いのに、電気の節約と大回りのため三時間ほどかかってしまう。そこへ更に停車時間を設けられ、所要四時間以上という特急牽引機に相応しくない鈍足ぶりだ。


 たとえ理解出来なくとも、ダイヤどおり走るのが機関士の務め。信号機の指示速度、停止位置を遥か手前から予見して、遠め長めのブレーキをかける。十分に速度を落として横浜駅に滑り込むと、連合軍の兵士たちがプラットホームに並んでいた。

 これは傷病兵専用列車、壮健な彼らは乗車しないはずだと過ぎゆく景色に疑問を抱きつつ、停止位置目標めがけてブレーキシリンダに圧縮空気を込め、少しずつ吐き出させていく。

 衝動のない加速をするため連結器の遊びをわずかに作って停止させると、運転台の隣には蓮城の姿があった。機関助士が側窓がわまどを開けて挨拶すると、結露したヤカンを差し出してきた。


「鉄道総局渉外室、鉄道官の蓮城です。素晴らしい制動でした。茅ヶ崎も、同じようにお願いします」

 機関士、機関助士の順に、ヤカンに満たされた水を飲み、返すついでにプラットホームを覗き見た。

「ご馳走様です。これは、何の停車ですか?」

「本国に帰る傷病兵を見送りたいと、願い出たそうです。彼らは当分、帰れませんからね」

「それじゃあ、奴らは結構な長居をするんですね」

「占領兵士は、戦場に行っていないそうです。軍人としてはじめての仕事が、日本の占領です」

 戦争を知らない連合軍の兵士たちは、それを知らない日本人から、戦場の恨みを買うのだろう。

 そう思うと傷病兵から新米兵士へ、両国の恨みを継いでいるように映ってしまう。機関士は内に秘めたる憤りの行き場を失い、憮然として運転席に腰を下ろした。

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