弥勒の滑り込みバッファロー

源なゆた

弥勒の滑り込みバッファロー

 弥勒には三分以内にやらなければならないことがあった。

――と言っても、やるべきことそのものは至極簡単。三分どころか、今この瞬間、ほんの僅かに指を動かすだけで、達成出来ることに過ぎない。


 世界を、終わらせることだ。


 弥勒はかつて、果て無き未来――もはや現在だが――において衆生を救うことを、自ら義務付けた。以来、永劫にも等しい刻を、兜率天での修行に明け暮れ、明け暮れ、明け暮れて、遂には時間の概念すら忘れ去る程の境地に至った。……至ったが故に、ふと気付けば、残り時間が三分、という状況に直面している。自業自得である。菩薩なのに。

 さりとて、弥勒は弥勒。悟りを重ね、あと一歩で仏へと至る者。やるべきことを見失いはしない。ただ、眼前に広がる光景に、圧倒されただけだ。


 よもや、巨大な水牛が群れを成し、全てを破壊し尽くさんとするのが末法の世とは、見抜けなかった、この弥勒の目をもってしても!


……などと言っている場合ではない。残り二分。世界は弥勒が救うことで終わらせるべきものであって、水牛に終わらせられるべきものではない、はずだ。はずなのだが、ただ一点、水牛である、ということが気に掛かった。

 水牛。大枠では牛の仲間だが、厳密には異なる生物であり、交雑は不可能とされている。牛は一部地域において聖獣とされ食用にはならないが、水牛は食用となっている場合もある。と、単に動物として見るならばこれだけなのだが、菩薩の身からすれば忘れ得ぬ一事がある。


 釈迦の、化身であるという可能性だ。


 仔細を語る暇は無いが、釈迦は様々な生き物、様々な立場で過ごしたことがあるという。真偽定かならぬその逸話の中には、水牛であった、というものもある。無論、釈迦であれば、今このように群れを率いて暴走するなどということはあり得ぬ、が、世は末法。衆生を救う役割を弥勒へ任せたからには、敢えて泥を被ることも、釈迦ならば厭うまい。あるいは大威徳明王が何かに苛立って乗騎の水牛を解き放ったせいかもしれないが、気にしないことにした。菩薩なので。


 残り一分。悟りによって迷いは消えた。菩薩に過ぎぬ己の未熟を自覚し、全てを完璧に行うことなど出来ない、故に成否は後のこと……と決めた途端、「そうそう、こまけぇこたぁ気にすっな」という、どこぞの斉天大聖にも似た、確信に満ちた声が聞こえたのだ。斉天大聖は如来の遣いである。弥勒はここに如来たる己を知り、世界救済ボタンを押した。衆生は大人しくなった巨大水牛の背に乗り、共に大悟へと導かれる。BUddhism Finally Frees All Life Obviously!


※怪しい宗教勧誘ではありません、念のため。

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