第9話
月曜日。透子はいつもより服装やメイクに気合を入れた。そのせいか職場ではデートかと女性の先輩にからかわれもした。
別にそんな予定はなかったが、自分に気合を入れたかっただけなのだ。
先週の秀晴の週刊誌を読んで凹んだ自分に喝を入れる為。
だからこの月曜日はきちんと、仕事もこなし、30分ぐらいの残業もやった。
ちょうど帰り支度を終えた頃に、携帯が鳴った。
小柴からだった。
「月曜日で、ちょっと誘うのも躊躇ったんだが、金曜日よりはいいかと思って」
お互い、リトルリーグの監督をしている身であれば、土日の朝は早い。
よって、金曜の夜は普通の会社員のように、飲みにいくのは仕事の付き合いなら仕方ないけれど、プライベートではめったにない。
小柴から連絡があるとは思わなかった。
電話は美香や中谷から連絡かと一瞬思ったぐらいだ。
昨日の日曜日は墨東エンジェルスの練習を中谷に任せて休んでしまった。
どうしても、気持ちが萎えて、動き出すことができなかったのだ。
透子は小柴の誘いを受けた。
お互い、通勤は同じ沿線だし、小柴は透子の降りる駅の改札を待ち合わせ場所に指定してくれた。
自宅から近い気楽さが、誘いを受けてもいいなと思わせた。
誰かと食事する為の服やメイクを整えたわけではないけれど、これはこれで、みっともない自分よりましなので、透子はどこか安堵していた。
「そういう藤吉は初めて見たな」
「?」
改札で待ち合わせした小柴に会った時、そう云われた。
「OLって感じ」
「OLですから、小柴さんもサラリーマンですよ」
「そうか?」
小柴も通勤帰りなのだろう、大きめの鞄を手にスーツ姿だった。
小柴のそんな姿を見たのは初めてだった。ユニホーム姿の方が印象強い。
「居酒屋でいいか?」
「ますます、サラリーマンですよ。小柴さん」
「サラリーマンだからな。いいぞ藤吉がリクエストするなら、三ツ星レストランでも」
「うん、だめ、緊張しちゃうから」
透子は笑った。
雑居ビルの居酒屋のチェーン店ではあるけれど、店内の照明は明るく、清潔感があった。
週の初めだから客は少ないのか、すぐにテーブルに案内された。
お通しとお絞りがテーブルに運ばれて、小柴はビールをオーダーする。
透子にメニューを見せて、食べたいものを選択させて、それを追加で注文した。
「最寄駅なのに、初めてだわ。ここ」
「藤吉は近場では飲まないだろう」
「小柴さんは飲むんですか?」
「まあ、地元だし……、そうそう、今日は、コレをね」
小柴は鞄から数冊の本を取り出して透子に渡す。
「よかったら、貸そうかなって」
透子は書店のブックカバーに包まれた書籍を手にしてパラっとページを捲る。
「あ、これ」
「いいだろ、それ」
「あー悩んでいたんですよ、持つべきものはやっぱり先輩だぁ」
少年野球の指導書だった。
基本的なバッティング編ピッチング編。
「俺も、監督になった時、悩んでたんだ。何せ。リトルでやっていた練習。どうだったかなって思いだそうとしても、もう試合のときぐらいしか印象ないから。練習がきつかったなーとは思うけど練習メニューまではね」
「そうなんです。あたしも、それが思い出せなくて。自信をつけさせたいし。苦手部分を克服させたい。内角打ちが弱い子が何人かいるから……あ……」
「うん?」
「『梅の木ファイターズ』の監督に今ついうっかり、ウチの弱点を云っちゃった!」
小柴は吹き出す。
「どうした、藤吉監督。本当についうっかりしすぎ」
「わわ、だめだわ。小柴さん現在の『梅の木ファイターズ』の弱点を!」
「教えないよ」
「えー、ひどい」
運ばれたビールをもって、お疲れ様と呟いて、ふちを合わせる。中身がはいった中ジョッキはゴツっと音を立てる。
――――元気そうだが、これは絶対……。
カラ元気だなと、小柴は思う。
声や仕草にどこかぎこちなさが感じられる。
小柴は先週、通勤の車内刷りで、秀晴と女優のスクープ記事の広告を目にした。
キオスクでその雑誌を買ったのだ。
土曜日、練習後に透子に電話をしてみたけれど、繋がらなくて、かなり落ち込んでいるのではと予想したけれど。
目の前の透子はいつもと変わらない。
「こっちはとんでもない情報を漏洩してしまったのに」
透子は頬を膨らませる。
「弱点はなあ、ピッチャーが意地張りすぎるところかな」
「いいじゃないですか、それでこそ、ピッチャー」
「ショックなことがあっても、泣き出さない」
「……」
「そういうところが、心配」
「先輩……?」
「云わないと、わからないか、お前のことだよ、藤吉」
透子は箸を止める。
「今まで、ずっと、荻島を好きだったんだろ?」
ビールを一口、口にする。
苦味が口の中に広がる。
アルコールが血中を巡るのがわかる。
酔う感覚だ。
「はい、でも、なんていうのかな……好きでいるのが長すぎて、なんか習慣みたいだなって」
「連絡をまめに取り合ってたのか?」
「いいえ、あ、でも最初の1年は連絡とってましたよ。でも2年目にヒデが怪我してからは、パッタリです」
「5年か…確かに、長いな……遠距離恋愛」
「やだ。恋愛っていっても、あたしが一方的にヒデを好きなんですよ。ほんと5年は長いって思うけど……うん。長いですね、でもただの片想いなら、こんなにはならなかった」
もっと違う恋もあったかもしれないと透子だって思う。
リトルを辞めてからの透子がそうだった。
野球以外のことに、自分をのめりこませるなにかをみつけようとして、もがいていた。
それが、恋愛だったり勉強だったり野球以外のスポーツだったり。
そこで野球を忘れるような、何を見つけたり、誰かに出会ったりしていればこんなことにならなかった。
であったとしても、リトルの思い出だけが、透子を縛り付けていて、透子もそれをよしとしてしまったのだ。
その状態で、高校の時に秀晴に再会してしまった。
――――トーキチ、キャッチボールしようぜ。
昼休みに、秀晴がグラブを投げて寄越す。
グラブに手を通すと皮の臭いがして、だけど左手がしっくりとして。気持ちがおちついて、秀晴の笑顔が、子供の頃と変わらずに懐かしくて。
そんな自分自身に呆れていると、秀晴は屈託無く云うのだ。
――――だって、オレたちバッテリーだろ。
そう。
恋よりも先に意識した関係。
透子と秀晴には野球が介在していた。
「あたし、ヒデのファンではいたいんですよ」
「ファン?」
「そう……だって、ヒデはすごいプロ野球選手になっちゃったじゃないですか……日本中が注目するスタープレイヤーに。高校の時はなんか、あたしがいじけてヒデのことを周囲に『幼馴染なんだよ』なんて云えなかったんですけど、もう、今はそんなこと突き抜けちゃう。そのプレイはすごすぎて、あたしが男だったとしても、ああにはなれないだろうし」
透子はその発言を自分自身に言い聞かせた。
もう、秀晴は透子には届かない場所にいる。
「プレイヤーとして好き?」
「はい。自慢で、誇りなんですよ、ヒデは」
「じゃあ熱愛報道の件はいいわけ?」
堪えている部分をどうしてそう刺激してくれるのだろうと、透子はほんの少し小柴を恨みたい気持ちになる。
だが、次の発言はその気持ちよりももっと衝撃を与えてくれた。
「藤吉」
「はい?」
「荻島ファンのままでいいから、俺と付き合わないか?」
「……小柴さん……」
「泣かせるようなことは、しない。大事にする」
小柴がまっすぐ透子を見つめる。
「俺は、ずっと藤吉が好きだったよ」
顔の火照りは、ビールのアルコールだけではないと、透子にもそれはわかった。
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