第10話 おにぃはあたしの運命の人【撫子視点】

「ねぇ、お嬢ちゃん。あんなに走ったから喉乾いただろ? 冷たいジュースを買ってあげるから、こっちにおいでよ」


 いつの間にかそこにいたおじさんは、脂ぎった顔でニタニタと嗤いながら、あたしに向かって手招きして見せる。


 パッと見、30代か、もしくは40代と見られる中年の男性。


 だらしないお腹に、ボサボサの頭。それに、ヨレヨレの薄汚いシャツを着ている。


 誤解を恐れずに言うのなら、変質者というヤツだった。


「ほらほら、汗びっしょりじゃないか。おじさん、タオル持ってるからさ、これで体の隅々まで拭いてあげるよ」


 そう言って、手に持った黄ばんだタオルをあたしに見えるように前に突き出した。


「い、いらない……」


「ひひ、遠慮しなくていいよ。しっかり、拭いてあげるから」


 おじさんは恰幅の良い体躯を揺らしながら、あたしの方へと近づいて来る。


 それに対して、あたしは、一歩、二歩と後ずさった。


 ただでさえ、一人でいる事が心細いのに、見知らぬおじさんが気持ち悪い笑顔を浮かべてにじり寄ってくる。


 何をされるか分からない恐怖で、あたしの足はガクガクと震えていた。


「ん? 怖くて震えているのかな? 大丈夫だよ、怖くないよ? おじさんは、お嬢ちゃんみたいな女の子とのが大好きなだけなんだ」


「いい、あ、遊ばない……」


「ひひ、つれないなぁ。おじさん、楽しい遊びをいっぱい知ってるのになぁ」


「い、いや、こ、ここ、こっちに来ないで!」


 さらに後ずさりながら、あたしは掠れた声で、わずかながらの抵抗を試みる。


 だが、そんなあたしの姿を見て、おじさんはさらに口元を緩ませて楽しんでいる様に見えた。


「うひひ。おじさんね、とっても可愛いお嬢ちゃんが心配で、ず~っと見ていたんだよ。お父さんやお兄ちゃんとケンカでもしたのかな?」


「え? ず、ずっと……?」


「そうだよ、お嬢ちゃんが海浜公園に来てからず~っとね。何があったかは知らないけど、今はお兄ちゃんから逃げてるんだろ? こう見えておじさんはね、かくれんぼが得意なんだ。良い隠れ場所を知っているから、一緒にあっちの方に隠れようよ」


 そうして、汚れた太い人差し指で、芝生の先に広がった森林公園の方を指差した。


「あそこなら、誰が来ても大丈夫だよ。絶対に見つからないから。うひうひひ」


 この人に、絶対について行ってはいけない。あたしの本能が、そう告げる。


「か、隠れなくて……大丈夫、だから。あたし、もう、戻ろうかなって……」


「遠慮しなくてもいいさ。おじさんと一緒に隠れよう。二人っきりでね、ひひ」


 あたしはお母さんから、常々言われてきた事を思い出していた。


『いい? 撫子。知らない人に声をかけられたら、とにかく無視して走って逃げなさい。それで追いかけてきたら、大声で助けを呼ぶのよ』


 分かっている……分かってはいるけど。


 だけど、あたしの体が言う事を聞いてくれない。足がすくんでしまって、思う様に動けないのだ。


「さぁ、お嬢ちゃん。ここは暑いから、あっちの木陰でおじさんと涼しもうよ」


 おじさんはそう言い終わると同時に、あたしの腕を掴もうと、大きな手を突き出してきた。


 それを避けようとしたあたしは、体勢を崩して石畳の上に尻もちをついた。


「きゃぁ!」


「おっとと、危ないじゃないか。尻もちついた部分が痛いだろ? ケガをしていないかどうか、おじさんが見てあげるよ。うっひっひ」


 だ、誰か、誰か助けて……お母さん、助けてお母さん!


 変なおじさんが、あたしをどこかに連れて行こうとしている!


 怖いよ! 助けて! 誰か助けてよ! 誰か……しょうき! 助けて!


 心の中で何度も繰り返した叫びを、言葉にして助けを呼ぼうとした。


「た、たすけ……あう、おかあ、さ、あ、しょう、き……たすけ、て……」


 だが、あまりの恐怖に喉元の筋肉が強張ったのか、思ったように声が出せない。


 その代わりに、あたしの目からは次々に涙が溢れ出てくる。


 それでも何とか声を出そうと試みるが、しゃくりあげる声に阻まれ、言葉にならない声しか出なかった。


「あ、あぐ、ひぐっ、あ、あ、うぐ、うぅ……ひっく」


 あたしの口や体はガタガタと震え、腰が抜けて立ち上がれない。


 そんなあたしを嘲笑うかのように、おじさんは徐々に距離を詰めてくる。


「ひひひ、こっちには誰も来ないよ。今日はみんなイベントでステージ会場に集まってるから。だから、おじさんと二人っきりで遊ぼうね」


 あたしの目の前まで来たおじさんは、その場に屈むと、再びあたしの腕を掴もうと手を伸ばして来た。


「イヤァァァァァ!」


 あたしが大きな悲鳴を上げた……その時。


 ──ガランッ! ゴゴゴン! ガンガラガァアン!


 と、工事現場から、大きな金属音が鳴り響いた。


 それに驚いたおじさんは、ブルーシートに覆われたビルへと振り向いた。


「な、なんだ? ビックリさせんなよ。大きな鉄柱でも落としたか?」


 おじさんは工事現場の音に注意を向けすぎて、気づいてなかった。


 後ろから、芝生の上を走って来る何者かに。


 ……そして、次の瞬間。


 ──ドゴッ!


 っと、鈍い音をさせながら、凄い勢いでおじさんの背中へと頭突きをするおにぃの姿が、あたしの目に飛び込んできた。


「ぐはぁっ! ゴホッ! ゴホッ! ガハッ!」


 ぶつかった衝撃で、おにぃと共におじさんは倒れ込むと、激痛に顔を歪めながら、激しく咳き込んでいた。


「ガハッ! な、なんだ? 一体、何が……イダダダダダ、脇腹? いや、これは肋骨か……?」


 どうやら、おにぃの頭突きが、おじさんの左の肋骨の辺りに綺麗に決まった様だ。


「イッテテテ~……頭が割れそう」


「しょ、しょうき……」


「あ、ナデコ! 大丈夫!? ケガしてない?」


 おにぃは強くぶつけた自分の頭を擦りながら、勢いよく立ち上がった。


「そうだ、ナデコは早く逃げて! ここは俺が何とかするから!」


 そう言うと、おにぃは倒れているおじさんの足にしがみついた。


「イッてぇ…‥って、何すんだよ! このクソガキ! 離せよ! 離せったら!」


「絶対に離すもんか! 俺の妹を、ナデコをイジメやがって! 許さないぞ!」


 そして、おにぃは口を大きく開けると、目の前にあるおじさんの太股ふとももに思いっ切り噛みついた。


「イダダダダダダダ! イダイっ! イダイってぇ!」


じぇっふぁいにぜったいにふふはなひ許さない!」


「痛いって言ってんだろ! いい加減にしろよ! このクソガキがぁ!」


 おじさんはグッと右手で拳を握り込むと、おにぃの顔目掛けて振り下ろした。


 ──ガツン!


 骨と骨とがぶつかり合う、重く鈍い音が辺りに響く。


「ぎゃぁ! いってぇ!」


 殴られたおにぃは、おじさんの太股から口を離し、痛みに声を上げる。


 されど、おにぃはおじさんの足にガッシリと腕を回して、しがみついていた。


「まだ離さないのかよ! おらぁ、もう一発だ!」


 さらに、おにぃの顔におじさんの拳が叩きつけられる。


「うがぁ! っぐぅ!」


 殴られた部分が赤く腫れて、おにぃの目からは涙が滲んでいる。


 だけど、おにぃは離さない。おじさんの足に必死にしがみつく。


 ……そして口を大きく開けて、またも太股に力いっぱい噛みついた。


「はんぐぅぅぅぅぅぅぅぅ!」


「ぎゃぁぁぁぁぁぁ! イッデェェェェェェ! まだ噛むのかよ! イテェって言ってんだろ!」


 ──ゴツン! ガツン!


「このクソガキ! オラ! オラ! 離せよオラァ! ゴミクズがぁ!」


 何度も、何度も、何度も、何度も、おじさんはおにぃの顔と頭を殴り続ける。


 何度も、何度も、何度も、何度も……


 おじさんに容赦なく殴られ続けられ、おにぃの顔はみるみる内に腫れあがっていく。そして、切れた箇所や鼻から、血が流れ始めた。


 痛々しいおにぃの顔が、自分の血で真っ赤に染まっていく。


「や、やめて……し、死んじゃうよ……しょうきが、死んじゃう、やめてぇぇぇ!」


 あたしは叫んだ。力いっぱい叫んだ。


 出会ってからずっと、あんなにも冷たい態度を取り続けてきたのに、おにぃはあたしの事を身を挺して必死に助け様としてくれている。


 そんなおにぃの事を助けたくて、あたしは大きな声で叫んだ。


「もうやめてぇぇぇぇ! あたしのお兄ちゃんに、これ以上酷いことしないでぇ!」


 その時、あたしの声に呼応するかの様に、遠くの方から誰かが叫んだ。


「将輝ー! 撫子ー! 俺の愛する子供たちに何してんだ、テメェェェェェ!」


 声のした方へとあたしは振り向いた。


 すると石畳の道を、必死に走ってくる数人の人影が見える。


 それは、恭一さんと警備員の人たちだった。


「くっそ! 父親まで……警備員まで連れてやがる! ガキ、離せ! 離せよぉぉぉぉぉぉ!」


「はなさ……ない、絶対に!」


「あぁ! ウゼェ!」


 おにぃを足にしがみつかせたまま、おじさんは逃げる為に無理やりに立ち上がろうとした。


「ぐあぁ、ヤッベぇ……コレ、折れてんじゃねぇのか……?」


 だが、よほど肋骨が痛むのか、おにぃが頭突きした場所を手で押さえながら、すぐにその場に倒れ込んでしまった。


「は、離さない、絶対に離さない。ナデコをイジメる奴は、俺が……許さない!」


「な、何なんだよ……このガキ、しつこいってんだよ……イテテテテ」


 痛みに呻きながら、おじさんは観念するかの様に寝転んで動かなくなった。


 そして、駆けつけて来た恭一さんと警備員によって呆気なく取り押さえられる。


「大丈夫か!? 撫子!」


 恭一さんは心配そうな顔をあたしに向ける。


 なんで? なんで、あたしを心配してくれるの?


 あんなにも酷い事を言ったり、睨みつけたりしてきたのに……


「撫子はどこもケガしてないか? 将輝がすごいケガしているから、すぐに一緒に病院で診て貰おうな」


 そう言って、恭一さんはおにぃを抱きかかえようとしたけれど、おにぃはそれを拒んだ。


「将輝?」


「父……さん、俺、大丈夫。一人で、立てるよ」


「な、何言ってんだ将輝。こんなに殴られて、血まで流してるんだぞ? 大丈夫なワケ……」


「大丈夫だよ……それに、ナデコを一人には、出来ないから」


 おにぃはフラフラと立ち上がると、あたしに向かって手を差し出してきた。


「ナデコ。俺が、いつでも守って、あげるから……この手を離さないで、ね」


 大嫌いな人の手は、自分の血で赤くなっていた。


 あたしの為に、必死になってくれた手。その手を、あたしはジッと見つめる。


 すると、心の中にあった恐怖心は綺麗サッパリ跡形も無く消え去り、あたしの目からは、さっきとは違う味の涙が頬を伝っていった。


「お、おにい、ひっぐ、うぅ、おにいちゃ……ふぐっ、お、おにぃ……」


 あたしは、いつまでたってもお兄ちゃんと呼べなかった。


 呼びたいのに……お兄ちゃんって。


「あはは、ナデコは俺と一緒だね。俺がナデコとしか呼べない様に、ナデコもお兄ちゃんって呼べなくて、おにぃになってる……イテテテ」


 酷く腫れあがった顔で、おにぃは笑っていた。


 そんなおにぃの顔を見て、あたしも泣きながら笑った。


「うん、一緒。おにぃと一緒。えへへ……」


 そして、小さく頷いた後、大嫌いだった人の手をギュっと握った。


 ……その手は、すっごく、すっごく、暖かかった。


                 ◇◆◇◆


 ──その日を境に、大嫌いだった『しょうき』と『おじさん』は、大好きな『おにぃ』と『お父さん』へと変わった。


 そして、おにぃとお父さん以外の男性の顔がボヤけて見えるようになっていた。


 意識するとちゃんと見えるのだが、気を抜いてるとボヤって見える。


 その事をお母さんに相談したら、あの事件で頭を打ったのではないかと心配して、色んな病院に連れていかれるハメになった……


 だが、特に異常は見当たらず、どの先生からも精神的ストレスからくる物かもしれないと言われた。


 まぁでも、あたしはその事に悲観する事は一切無かった。


 むしろ、好都合とさえ思っている。


 なんたって、大好きなおにぃを一目で判別できる特殊能力を手にしたのだから。


 ちなみに、あたしに声をかけてきたおじさんは、他にも残虐な事件を数多く起こしていたらしく、裁判で重い刑罰が下ったと耳にした。


 その事に関しては不思議と、何の感情も湧いてはこなかった。綺麗サッパリ忘れたい出来事の一つだったから……かもしれない。


 ──あれから、早六年。


 おにぃを好きになってから、もう六年も経ってしまった。


 月日が経つにつれ、好きはいつしか愛に変わり、どんどん募っていくばかり。


 そんなあたしの人生の目標は、おにぃと一生添い遂げること。


 少し興味が湧いて調べてみたのだが、あたしとおにぃは結婚は出来るらしい。


 でも、そんな形式ばったものに、あたしは執着しないし、必要もない。


 だけど、もし結婚出来ると言うなら、してみたい、かな。


 ウェディングドレスとか着てみたいし、子供だっていっぱい欲しいから。


 夜は毎日……ふふふっ。


 だがもちろん、出来ないなら出来ないで問題はない。


 両親や世間が反対しても、あたしは一生、おにぃの傍を離れるつもりはないから。


「え~、でありまして、今日入学された皆さんは、これから先……」


 随分と時間が経ったと思ったけど、校長先生の長い式辞は延々と続いている。


 はぁ~あ、早く入学式終わらないかな。


 大好きなおにぃの手をギュってして、いっぱい、いっぱい、愛を囁きたいのに。

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