トンボ

あかり

第1話

僕は昔、首都にある会社への通勤のために毎朝電車を使っていた。混んでいたから結構圧迫感があってね。それに、他人の人生に過剰に関わってしまう気もして、苦しく感じていたんだ。だから人々の気配から逃れるためにいつもドアの前に立って、窓から見える景色をじっくり眺めるようにしていた。景色は、何が正しいとか、正しくないとか判断する必要がなくて、昔から持ち続けていた感覚に素直に従うことができる。それが少しだけ楽だった。空や海がよく見える湾岸部は心が平和になる気がしたし、工場地帯が出現したら人類の勤勉さと環境への介入に思いを馳せた。でも、これらの光景は判断の対象ではなくて、ただ受け入れるべきものとして僕の前に広がっていた。電車から外を眺めることは、僕にとって人々との距離を意識することなく、人や世界とつながることのできる限られた方法のうちの一つだった。


ある曇りがちな朝、会社までの途中ほどにある駅に停車した時、そのホームの隅にある青いプラスチック製の椅子に、1匹のトンボが静かに休んでいるのを見た。それは普通のトンボとは違って、翅に細かい模様が描かれていて、朝日を浴びて、まるで虹みたいに生き生きと輝いていた。

僕は「これは扉なんじゃないか」と心の中で囁いた。発見者として有名になろうとか、売ってお金に変えようとか、そういうことじゃない。もっと端的な、今とか、未来とか、そういうものからの出ることができる扉だと思ったんだ。その美しさをよく確かめたくて、会社に遅れてしまうことなんて考えずに、僕はトンボを追いかけるために電車を降りた。そして、小さなペットボトルを使って、慎重にそのトンボを捕まえ、人目を避けるために静かな場所へと移動した。

そのトンボをじっくり観察するうちに、翅の模様が時間と共に変化していることに気がついた。文字のようにも見える。僕はそれを解読しようと試みた。最初はぼんやりと文字のように見える程度のものだったが、徐々に、その文字がはっきりとしてきた。驚くことに、そこには「自由をください」と書かれていた。

僕ははっとして、そのトンボをすぐに外に放った。トンボが翅を震わせ飛び立ったその瞬間、体がスッと軽くなって、僕は宙に浮いた。なんの抵抗もできず、まるで重力から解放されたかのように、足が地面から離れていく。僕は空を飛べるようになっていた。

僕は、これは夢なのだろうかと自問した。だが、そうとも思えない、確かなリアルさを感じていた。僕の体は徐々に透明になっていき、やがて、どんな物質も自由に通り抜けられるようになった。さらに確かめてみてわかったことだが、僕の透明な体は他の人間からは見えなくなっていたようだ。だって、国会議事堂の地下にある広大な花畑も警備員に見つかることなく見学できたし、地球の真ん中にあるシャボン玉みたいな生物が暮らしているマグマが湧き上がる空洞にも許可証もガードマンもなしで訪れることができた。その代わり、家族や友人に話しかけても、誰も反応しなかった。まるで幽霊のように、僕は人間社会で生きることができなくなった。


やがて僕はその代償を受け入れ、新たな人生を始めることにした。あの日、翅に書かれていた「自由をください」という文字。あのトンボが僕に何を与えてくれたのか、今でも考えているんだよ。

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トンボ あかり @WHfsb

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