第13話 memento mori(メメント・モリ) 後編
「い、伊香保。……あれ、オウム貝に似てる、よね?」
「うん。……でもオウム貝には、あんな蛸の様な触手はないよ。髭も生えてるし。それに、背中に付いてる貝殻も体の前のほうまで覆ってる。似てるのは全体の雰囲気だけで、オウム貝とは全然違う」
言われてみると、青黒い触手には吸盤が付いている。
大きな眼は左右非対称に五つあり、縦に細長い瞳孔が煌めいている。
その下には白く太い毛が無数に生えて、地面にまで伸びている。まさに髭だ。
そして後ろから全体をすっぽり包み込むようにして貝殻が貼り付いていた。
原色の縁取りがなされた、美しい貝殻。
その殻は波打つように婉曲を描き、固いはずなのに柔らかい印象を受ける。まるで毛布にくるまっているようだった。
「オウム貝なんて、とんでもない。この方は『機幸之大彦(ハタサチノオオヒコ)』様。外国ではクラーケンとかダゴンとか呼ばれているものと同種の、古代から生き続けている伝説的存在よ。卵を産む雄にして、命の父、サカキの王。私はこの山女魚群とは別の出身だけど、それでも敬意を払わざるを得ないわ」
「魔女リカ魔女ルカさん……高峰さんは、どうしてここにいるの? なんで場所を教えるだけじゃなく、あたしたちの跡を付けて、先回りして、待ち構えていたの?」
リカルカこと高峰さんは、聞いた伊香保に向き直る。
「本当は教えてはいけないことになってるんだけど、タチバナさんにはお礼がしたくてね。あなたがくれた種もみは、私にとってダイヤモンド以上の価値があるの。私はこう見えて恩は必ず同等にして返す主義なのよ。でもあなたの性格ではオオヒコ様を見つけたら何をするか心配だったから。サンプル採取とか言って体を切り取ったりなどね、などなど?」
うん、伊香保ならやりかねない。
「私はサカキの純血の雌として、雄を守る義務、もとい本能があるのよ。これは取引みたいなもの。この場所を教え、あなたが望んでいた物をあげるけど、その代わりあの方の体には指一本触れさせない。何かする気なら全力で阻止する。もちろん、帰ってからもこの事を黙っててもらうわ。これは取引、いいわね」
ちら、と伊香保は横目で僕を見た。持っている電灯に彼女の頬が照らされ、代わりに目元に影が出来る。不吉な予感がした。
「じゃあ、取引の内容を話すわよ。オオヒコ様は人間の言葉を話せないわけじゃないけど、声帯や舌の構造が違って不慣れだから、私があらかじめ交渉しておいたわ。ここにある卵、一つだけなら持って行っていいって」
卵? 伊香保は卵を欲しがっていたのか?
高峰さんは、今度は僕の方を向いた。
「鳴子くん、ここにどれだけ卵があるか分かる? ちょっとこの部屋、三百六十度全部、見渡してみてご覧」
え、まさか。
言われて電灯をぐるっと部屋中廻してみる。
驚くべきことに、おぞましいことに、さっき踏んだ球状の物体が、壁という壁、床という床、そして天井にも、一面にびっしりと埋まっていた。
戦慄する。これが、全部、卵? なのか。サカキの卵。これが全部孵ったらどれだけ生まれるんだろう。
「あー、うん。えっとね、ここにあるのは全部無精卵よ。いえ父系遺伝子は含まれているから正確には無卵卵かしら、いえいえ無卵精? まあ無精卵でいいわ。厳密には卵とは言わないかも。とにかく、これらは鉄なんかの無機物でできていて、実際に産卵されたのは数百年前なのに未だ腐らず孵化の可能性を残してる。すごいでしょ」
白骨先生が話していた、あれか。
体のほとんどが無機物でできているサカキ。それって、このオオヒコ様のことだったのか。やっぱりあの人はこの場所を知っていたんだ。
伊香保はじっとリカルカさんを見据えている。身じろぎ一つ、しない。
リカルカさんはさらに話を続けた。もう、僕と伊香保、どちらを向いているか分からない。
「この卵、孵化させるのはいたって簡単。表面の硬い殻を割れば、中身が近くの有機体と結合して情報を読み取る。この場合、情報はDNAね。驚くべきことは、結合する有機体が生殖細胞である必要がないのよ。筋肉でも内臓でも骨でもいい。生きた細胞さえあれば、そこから情報を抜き取る。転写酵素のような働きをする部品があるみたい。そうして無機物を核にして体構造を再構築する。無機生命体の誕生ね」
僕はごくっとつばを飲み込んだ。
「そうやって、オオヒコ様は多くの生命と卵との結合を行ってきたの。できた子供達は有機物の体を残していて、同種との交配も出来る。でもそこにはすでにオオヒコ様の遺伝子が組み込まれているのよね。ここら一帯の生物はサカキも表の樹形図の生き物も、ほとんどがオオヒコ様の子孫みたいなものなの。本来なら遺伝的に全く縁遠い生物に至るまで。信じられる? たった一種一体の生物が、広範囲に渡って付近一帯の生物の進化に影響を与えたなんて。この方が命の父、神とも称されるのも納得でしょ?」
何という話だろうか。
彼女の言っていることが本当なら、無茶苦茶にも程があるって。
いくらサカキの進化に法則性がないと言っても、あまりにデタラメで、規模が大きすぎる。
だけどリカルカさんの説明は、これまでに聞いたほかの人達の発言とも繋がり、全体的に強い信憑性を持って聞こえた。
「じゃ、じゃあ、人間がその卵と結合したら、どうなるんですか?」
「もちろん、無機生命体として生まれ変わる。面白いのは結合する対象に知性がある場合、DNA以外の情報も何らかの手段で抜き取るみたいなのよ。人間だったらそれまでの人生経験や人格も全部情報として残したまま転生できるってわけ。もっとも結合するときに脳細胞が含まれなければそういう情報は残らずに、体が同じだけの赤ん坊になっちゃうだろうけど」
「そんなうまくいくの? 失敗した人をあたしは知ってる」
伊香保が暗い声色で発言した。
「そう。実は残念ながら」
リカルカさんは足下の卵を見渡して言った。ポケットに手を入れる。
「無機物でできているとは言え、ここにある卵はさすがに時間の影響を受けて劣化している。オオヒコ様はご高齢で、もう産卵能力はない。ここにある数百の無精卵はかなり前に産まれたものばかりで、おそらく大半が目に見えないレベルで破損している。だから彼らは失敗してしまったのね。でも無機生命体には転生できたから、体は崩れたけど取り敢えず命の核だけは残せた。まだ死んではいない。条件が揃えば再び復活できる。無機をベースにして有機の肉を羽織ることが出来る」
ポケットから取り出したのは、例の、青い宝石だった。
青く光る、正八面体の宝石。
命の、結晶。
「伊香保さん。伊香保タチバナさん? これと同じ物、あなたも持ってるでしょ? そのためにここまで来たんだものね。そのために彼をここまで連れて来たんだものね?」
はっとして、振り返った。
伊香保はスーツの上着の内ポケットから、スマホを取り出す。続いてそれに繋がったUSBコードが引き出され、小さなプラスティック製の箱が引っ張られて出てきた。ぱかっとそれを開ける。
はたして、中には同様の青い正八面体の宝石があった。
「伊香保、それって!」
影に隠れて、顔は見えない。
「さ、伊香保さん。決断のときよね。どうするの。ここにある無精卵と、命の結晶、そして同年代・同種の生物、それを結合させれば蘇生出来るわよ。それはオオヒコ様も何度かやったことがあると仰っていたわ。それ自体は問題ない。うまくいくはず。問題は、卵が大丈夫かどうかよ。でもどれが壊れていない無精卵か確かめる方法はない。残念ながら外観からじゃ分からない。また失敗するかもしれないけど……それでも試す価値はあると思うわ。十分に、あると思うわ」
なんだ、なんだそれ。
それ、それって、つまり? つまり……。
「さあ、どうするの。これは二択よ。鳴子くんを依り代にして、恋人を蘇らせるか、それとも恋人は諦めて、その新しい彼氏くんと新しい生活を送るか」
顔を覗き込む。
伊香保は、唇を内側へきゅっと吸い込み、その大きな口を顔に縫い付けた。
「さあ、どうするの。私はサカキの一人としてあなたの選択に興味がある。あなたの恋人、紫苑くんっていう名前だったわね。軽薄なしゃべり方するけど、裏腹に結構誠実でいい男だったじゃない。大切な人だったんでしょ?」
紫苑。はっくんのことだ。そうか、そういう事だったのか。
伊香保は、最初から本命がちゃんといて、僕はその人のために……。
「いいこと、教えてあげようか。ねえ。さっきは一個しか卵は渡せないって言ったけど、別にその気になれば何個でも使えるわよ。オオヒコ様はもう衰えていらっしゃるから、傍若無人に振る舞う者に対して無力よ。私はあの方の命を守れるならほかは別にいいし。ここにある卵、一つと言わず何個も『当たり』が出るまで試してみるのもいいわね。そのたびに人間が一人必要になるけど」
僕は、この空気、この雰囲気に当てられていた。場を離れようとも、発言をしようとも、ましてや戦うなんて全く考えられなかった。
「伊香保さん、さあ」
リカルカさんが急かす。
伊香保が決心しきれないと見て、誘導するように語りかける。
「その彼を、材料にして、紫苑くんを蘇生させる。それでいいわね?」
口ぶりに多少、焦りか憤りのようなものを感じる。
伊香保は、黙ったままだった。黙っていた。返事をしなかった。
ただただ、黙ったまま立ち尽くして、微動だにしなかった。ただ真正面をまっすぐに見据えていた。
僕はなんてバカだったんだろう。これは罰なんだ。バチが当たったんだ。彼女の気持ちをないがしろにしたんだから。
元彼たちのこと悪くなんて言えない。今まで何度も気持ちを知る機会はあったじゃないか。彼女も僕の気持ちを確かめようとしていたじゃないか。応えなかったのは僕だ。でも、好きかどうか、本当のことなんて言えない。嘘を付くこともできない。
伊香保はまだ何も言わない。
だけど伊香保が無言だからと言って、期待していいとも思えなかった。だって、彼女はリカルカさんの提案に対して「いい」とは言わないが……。
「ダメ」とも言わないのだ。
ややあって伊香保が口を開いた。
「……あの、その返事、また今度ってことには……?」
……あれ?
「ええっとぉ~、伊香保さん?」
深刻な雰囲気でいきなり間を外され、思わずがくっとなった。さすがにリカルカさんも苦笑している。目と口角が左右対称の苦笑いで、いかにもサカキらしい。
しかしこの女、相変わらずだ。ここに来て二択を迫られておきながら、『答えずに先延ばしにする』という第三の選択肢を勝手に作りやがった。
「伊香保さん、あなたねぇ……」
リカルカさんは結晶を左手に持ち直し、二本目の右手で鞄から金槌を取り出した。
「分かったわ。分かりました。優柔不断は却下ね。それじゃあタチバナさん、鳴子くんは私がもらうからね」
そして彼女は足下の卵を一つ、金槌で割った。そのまま割れた卵の中に、自分の持っていた青い結晶を投げ込む。
「今度は私の番。私は、彼との契約を果たすことにするわ」
一息、呼吸するかしないかの内に、リカルカさんは僕の目と鼻の先に立っていた。
手をつかまれる。
「鳴子くん、君やタチバナさんには好感を持っていたけど、本当にしょうがないわね。でも安心して? 材料にされても君の肉体や人格の情報は残るから。死ぬのと同義だけど、生き返る可能性が全く無いでもないわ」
「!」
はっと息を飲んで、伊香保が僕の腕を強く握った。
リカルカさんがそれを見る。伊香保の腕を振り払うようにして僕はたぐり寄せられ、体勢を崩したところに足を払われた。
倒れ込む眼前には、
――割れた卵の中身。
そこからは、あっという間の出来事だった。
転ぶ瞬間、横側から僕は思いっきり突き飛ばれた。
押したのは伊香保だと思ったが、倒れ込みながら見上げると背の低い人影が見えた。
それが、国見くんだと気づくのに一瞬、時間を取られた。
何故っ!? なんでここに彼がいる?
昼食の時に聞こえたかすかな水音が思い当たった。あれは、ひょっとして国見くんが僕らを追ってきて地底湖に落ちた音だったんじゃないか?
突然の乱入者に、伊香保もリカルカさんも驚いて動きが止まっていた。
国見くんは僕を押した勢いのまま、けつまづいて前のめりに倒れてしまった。倒れるとき、割れた卵の中に手を付いて体を支えた。
伊香保が「あっ」と小さく悲鳴を上げた。
リカルカさんが大きく一回息を吸った。
間髪入れず、卵から白い砂状の中身が国見くんの体に這い上がった。磁石に砂鉄が付くようにして。
そうして砂状のものが体全体を覆ったかと思うと、国見くんの体はぐにゃりと粘土みたいに軟体化し、衣類ごと飲み込んでひしゃげてつぶれ、盛り上がり、ぐねぐねと蠕動した。
軟体物は一瞬血のように赤く染まり、そのあとホログラムを思わせる鈍い虹色を発した。
そして唐突にすくっと、不定形のまま立位を取った。
呆気に取られている僕らの前で、瞬きを数回するほどの間に不定形の軟体が収束していき、一人の青年がそこに現れた。
金髪のロン毛。白い肌。背は高く、手足は長い。
「ああ、容量が足りねえよ。物理的に足りねえ。子供の体だもんなあ。よろけるじゃねえか。中身がらんどうにして、背丈、無理矢理もとの高さにしたけどよぉ。歩きにくいなあ」
「嬉野さん……」
「嬉野くんっ!!」
こいつ、この男が、嬉野ナツメ。
伊香保の最初の彼氏。サカキのことを教えた男。小学生の伊香保と二足飛びした鬼畜野郎。
「よ、伊香保。久し振り」
彼女に挨拶をしながら、その男はリカルカさんから服を受け取った。
ジーパンとTシャツ。下着もない、ただそれだけの簡単な服装。僕らの視線を気にも止めずに着始める。
服を着終わるや、目線だけを僕の方へ移し、髪を掻き上げて見つめてきた。
金色の髪が指の間からすだれの様に垂れ下がり、顔の全容はよく見えない。なのに視線だけははっきり見えた。
狙い定める猛禽の眼。
「そいつが、紫苑のために連れてこられた可哀相な奴か」
「嬉野さん、あかちゃんの体、返してっ」
嬉野ナツメは顎を上げて、へっと笑った。
「せっかく肉を取り戻せたのに、誰が返すか。ばーか。それより、紫苑の体の方はどうすんだよ。偶然ほかの奴が飛び込んできたから、まだ素材は生きてるじゃねえか。ラッキーじゃん。伊香保、今度こそ、それ使えよ」
僕がその言葉に恐怖するより早く、手が思いっきり上に引っ張られた。
伊香保が握っていた手をそのままに、後ろに駆け出したのだ。
「立って! 走るよっ」
倒れたままだった僕は悲鳴を上げる。
「痛いって、腕が捻れるっ」
「キミねぇっ、死にたくなかったら逃げるのっ!」
無理矢理立たせられ、メロドラマのように二人で手に手を取ってその場から疾走した。
後ろから「あ、待ちやがれ」とか聞こえてきたが、何故か追いかけてこない。
ある程度走ってから一度振り返ってみると、嬉野ナツメは転んだみたいで壁に体を預けながら立ち上がろうとしていた。
だが、妙にふらふらしている。どうやらバランスが上手く取れないらしい。さっきそんな事言っていたなと思い出す。
彼の横にはリカルカさんが立っていて何か話しかけているようだった。遠目で分かりにくかったが、何だか怒鳴っているかのような雰囲気だった。
「あれなら追いつかれない?」
「あ、本当。無理に前と同じ体格にするから」
そのまま走りに走った。普段水に浸かっている洞穴は慌てて走るとつるつる滑って危ない。何度か僕も転びそうになったがその度に手を引っ張り上げられ、そして一気に地底湖のあるところまで来た。後ろからはまだ何の気配もない。
そのまま湖に飛び込む勢いの伊香保を制して、一旦呼吸を整える。
このまま伊香保と地上に戻るわけにはいかない。
僕は質問をしてみることにした。
「伊香保、紫苑さんって誰?」
「五人目」
さらっと言われた。
「本当に好きな人って、その五人目の紫苑さん、……はっくんのことなの」
返事は、帰ってこなかった。
水が音を吸い込むのか、お互い黙るとやけに静かだ。
湖に向かって立つ彼女の、背中が少し震えた気がした。
うなじの向こうには眼鏡の裏側があり、そこに彼女の瞳が映り込んでいる。その瞳の輪郭がじわっと滲んだように見えた。
「これ」
後ろ向きのまま、ポケットから先ほど見た青い宝石を取り出した。
正八面体の、ほのかに光る青い石。
「これがね、はっくん……紫苑さんの成れの果て。あたしに何も言わずにこの場所、サカキの発祥地へ出掛けて、あたしに何の相談もなしに自分で勝手に決めて、無機の命に生まれ変わろうとした馬鹿な人……」
彼女はそれを小物入れくらいの小さな箱に入れた。プラスチック製のその小箱からはUSBケーブルが伸びていて、その先にはスマホが繋がっている。
「二、三日連絡が取れなくなったかと思ったら、ある日突然、息も絶え絶えであたしの前にやって来て、ぼろぼろ崩れて白い砂になっていったの。あんなの一生忘れられない。必死で砂をかき集めたらこの青い石だけが残ってたの。崩れる間際にはっくんは言ってた。『サカキの雄から聞いた、俺は失敗だって。でも核だけ残ってまだ生きてはいられるって。だから捨てずに残しておいてくれよな。頼む』って」
背中を向けて振り向かず、話し続ける。
「無機生命体って凄いよね。こんなになっても生きてるなんてね。でもこれじゃあ、あんまりじゃない? だって石じゃ話も出来ないし、手も握れない。残されたあたしの気持ちはどうなるのって、一人で怒ってた」
まさかお礼参り、紫苑さんにもするつもりだったのだろうか。体を取り戻してから言いたいこと言って、そのあとでガツンと。
色々と遍歴のある伊香保だけど、男運はないようだ。
見る目がないとも言う。
結局、誰もが彼女の気持ちをないがしろにしていた。自分ばかりを優先していた。彼女自身にも問題はあるのだろうけど。
僕だって、例外じゃない。
追加のお礼参り六人目になることだってあり得るんだ(生きていればだけど)。
伊香保の話が途切れると同時に、僕のスマホからコール音が鳴った。
『はっくん』と表示されている。ここにきて気づいた。ああ、そうか。昨日の晩、伊香保のやつ、僕のスマホをいじってたな。そのときに『はっくん』、つまり紫苑さんの名前と番号を入れたんだ。
あれ? 石は話せないし動けないはずだ。さっき彼女自身が言ってたじゃないか。どうやって電話を掛けてるんだ。
ぴっ。
通話ボタンを押す。
「鳴子くんよー、悪かったなあ。タチバナのやつに生き返る可能性を聞かれて、俺がぽろっと言っちまったんだよ。黙ってたら良かった。まさかほかの男子だまくらかして連れてくるとは思わなくてよ。あ、ひょっとしてしょげてるのかな? そう落ち込むなよ。タチバナにうまいことやられてたからって気にすんな。結局は生きてたわけだしさ」
「別に落ち込んだりなんか……」
いや色々ブルーだ。ぼこぼこのへこみまくりだ。
でも、彼女の本命には強がりたいじゃないか。
「紫苑さんは、どういった方なんですか。よろしければ説明して頂けませんか」
「あん? 大学生だよ。嬉野と同じだ。学部は違うけどな。あの野郎とは高校からのつきあいなんだよ。当時から妙に絡んでくるヤツだったな。タチバナと会ったのは、嬉野とつきあってるときに紹介されたのが最初だ。まさかそのあとに、俺の親父とつきあうとは思わなかったがなぁ。親父とも切れてからしばらく経って、偶然再会したのがつきあうきっかけっちゃあ、けっかけだったかな」
聞いてないことまで喋ってくれた。
親父……? ああ、『はっくん』ってそういうことか。
「つきあい始めたこと、嬉野にばれたときは正気を疑うって言われたぜ。ダチはともかく親父の元愛人とつきあうって、どうかしてるとか何とかな、別に気にしちゃいなかったがね」
伊香保は黙って聞いている。
しかしこの人、フルネームは白骨紫苑(はっこつしおん)か。すごい名前だ。
「ところで紫苑さん、どうやって電話してきてるんですか? あなたは今、ただの石のはずなのに」
その疑問には伊香保が答えた。
「この石がパソコンに直接アクセス出来るようになったの。始めはこの石をどう扱っていいか分からなくて、ただなんとなく家に置いておいたんだけど。そのうち無性に腹が立ってきて、むき出しのコードを搦めて通電してやったの。いい気味とか思ったんだけど」
うわぁい。やることがホント過激だ。元彼を殴るとか言い出すのも納得の性格だ。
でも話の内容の苛烈さとは裏腹に、声色は段々湿ってきた。
まだ背は僕に向けたまま。
泣いて……いるのか。
「やったあと冷静になって、石が壊れてないかよく見てみたの。幸い頑丈みたいで傷は付いてなかったけど、なんか細かい根っこのようなのが石からコードに伸びてた。メタリックで銀色の、とっても細い根っこ。まさかと思っていろんなケーブルをいくつも搦めたらね、手を繋ぐように根がいっぱい伸びていったの。……それでね、パソコンに接続して……、反応を待ったらね……」
伊香保の声は途切れ途切れになってきた。涙を、飲みこんでいるんだ。
「始めは何も起こらなかったんだけど、二週間くらい経ってからかな? パソコンを使っているときに入り込んできたのよ。ハッキングみたいに。最初は目を疑ったけど、話し方は間違いなく、はっくんだった」
話す合間合間に、すんっと鼻をすする。
「最初の頃はメモ帳で筆談してたんだけど、まだるっこしくて。パソコン用の色んなソフトを試してようやく声を使って会話が出来るようになったの。USBを通じてスマホに介入出来るようにもなった。無機生命体はデジタル情報とは相性いいみたい」
その言葉を受けて紫苑さんが答えた。
「そんな簡単に説明してるけどよー、慣れるまでこっちは大変だったんだぜ。例えるなら赤ん坊が歩行器なしでいきなり歩こうとする、みたいな。こっちも何とかして外界とコミュニケーション取りたかったから必死だったんだよ。電気ケーブルに介入できたのは無機生命さまさまだな。おかげでパソコンを通してネットの中も見れるようになったし、簡単なアプリなら自分で作れるようになった。すげーだろ。今じゃ様々なデバイスを通じて自由にネットや電話回線に入れるんだぜ」
すごい話だ。現代では無機生命体はある意味最強かもしれない。
不老不死よりも遥かにメリットが大きいように感じる。
でもやっぱり体がない状態は不便なんだろう。ネットに入ることが出来ても、自分の力で行きたい場所に移動することは出来ないんだから。食べたいものを食べることは出来ないんだから。好きなひとの手を握ったりも、出来ないんだから。
「俺はよ、もうこんな体だし、それも自業自得だから、別にいいんだよ。今さら人間の体を取り戻したいとか思わないぜ。もちろんタチバナのことも諦めるつもりだ。仕方ないさ。だって俺じゃあいつを幸せには出来ないもんよー」
伊香保はいつの間にかこっちに振り返っていた。
顔を見ると睫毛がしとどに濡れている。白目は赤く充血していた。
僕は、僕は言わずにはおれなかった。
「伊香保、ごめん、君の気も知らずに。僕は、嬉しかっただけなんだ。伊香保の気持ちをないがしろにするつもりなんて」
「なんでキミが謝るの? 怒らないの? だってあたし、」
「僕が間抜けなんだ。女子の気持ちなんて全然分かってなかった。だからだ。伊香保、君にとって命は平等じゃない。自分にとって大切な人は、その他の誰かよりずっと大事。それを知っていたはずなのに、それなのに、だらだらとつきあってきたから。今の状況は僕自身が招いたことなんだ」
「おいおい、鳴子くん。自分を責めすぎだ。でも君、気づいてるか? それってな、自分自身の気持ちの裏返しだと思うぜ。タチバナ、もう俺のことは忘れろ、諦めろ。そっちの彼のがよっぽどいいぜ。俺なんて結局、自分勝手の極みだったんだからな」
リカルカさんの言っていた、紫苑さんの印象が思い出された。
紫苑さんは、軽薄な印象だが、実は誠実だ、と。
「それより、先に進んだ方がいいぜ。もうそろそろ追いつかれるぞ」
ぱしゃん、と遠くで足音が聞こえた。浅い水を踏む音だ。
「まずい、言ってるそばから」
だが遅かった。
足音はぱしゃんぱしゃんと間隔をどんどん狭めていき、音はどんどん強くなっていった。
そして一回大きく音が響いたかと思うと、急に何も聞こえなくなった。
次に足音がした時、もう目の前にいた。
まるで瞬間移動でもしてきたかのように、目の前に嬉野ナツメが現れた。
まさかジャンプしたのか?
音が聞こえない時間はかなりあったぞ。滞空時間長すぎないか。
「ようやく慣れてきた、慣れてきた。重心を安定させるように中身を詰めれば良かったんだ。臍だよ、臍。そうなると体重が軽いのは逆にメリットになるな。オルガネラ(細胞内小器官)がまだうまく機能してないってのに、既に人間のときより筋力は強いみたいだし。ほんと速い速い。こんな速く走れたのは今までで初めてだ」
嬉野は伊香保の持っているスマホとケーブル、そして紫苑さんの石に目を向けた。
「ほー、紫苑と電話で話してんのか。なんだ、考えることは同じだな。俺とくららもそんな感じでやりとりするんだよ。って、おい、待て話を聞け、逃げんな。話し合おう、な、な?」
伊香保はまた僕の手をつかんだ。
振り返ってみると、すぐにでも湖に飛び込める体勢だ。
だけどさっきの運動能力を見るとこれはもう逃げられないのかもしれない。油断していた。話なんかせず彼女に付いてさっさと逃げるべきだった。
「俺の目的、教えてやんよ」
こいつは見た目通り、話し方通り、軽薄そうだ。だけど空恐ろしい。
「俺はな、英雄になりたいんだよ」
その言葉を聞いてぐるっと伊香保が振り向いた。口は固く結ばれているけど、驚きが目に出ていた。
僕は英雄と聞いて、白骨先生の言葉を思い出す。
――サカキはときとして英雄と呼ばれた。
「別にすぐなれるとは思っちゃいねえよ? せっかくの不老不死だもんよ、何回も人生やり直す感じでさー、学校とか行きまくるんだ。まずは医師免許目指して、次は司法試験だ。建築士とかもいいなあ。絵も本格的に勉強したいし、ピアノとかの楽器に、料理の修行、そうそうスポーツもやんなきゃ。メジャーよりもマイナースポーツのほうが好きだな。でもやるならどれも本気で取り組んでものにする。何回も人生あると考えたらいくらでも身につくだろ? しかも無機生命体は一度覚えたことを忘れない。デジタルは飽きることも疲れることもない」
伊香保がこらえきれずに聞いた。
「それで、どうやって英雄になるつもり?」
「三百年くらいそうやったら、政治家になる」
う、え?
「政治家こそ現代の英雄たりえるだろ。軍人や文化人じゃあ駄目だ。さすがの俺でも百年以上生きたら処世術や対人スキルは上がるだろうしな。カリスマも自分で出し入れ出来るようになるかも。くくっ。で、一国のリーダーを目指す。無理なら俺の国を創る。みんなが望む世界を、俺が聞いて俺が助けて俺が手を汚して創り上げる。世界のベクトルを変えた偉大な英雄として歴史に名を残すんだよ。そしたらもう満足だ。自分で命を絶つ」
一旦言葉を切って、声色を低くした。
「でもな、」
嬉野ナツメは僕の方へ眼を向けて、瞳孔をすぼめた。眼前に垂れた金髪の間からぶしつけな視線が飛んでくる。
目線を外したくなるところを僕は必死で見返した。
「自分一人で出来るとは思っちゃいない。必要なのは最高の友人とライバルだ。この二者は同一人物であれば尚良いな。だから紫苑には体を取り戻して、俺と同じ立場になってもらわなくちゃいけない。俺と競い合うには一番の人間だ。俺よりほんの少しだけ優秀で、俺とは分かり合えても相容れない。あいつじゃなきゃいけないんだよ」
嬉野は僕らのほうへ一歩踏み込み、気持ち悪く微笑んだ。
「というわけでそこの少年、悪いが紫苑の体になってくれよ。別に犬猫でもいいんだけどよ、なんせ無機生命体は外見を自由に出来るからな。でもいざ自分がなってみたらどうも自由自在とはいかなくてなあ、だからやっぱ同じ種族で近い年齢の、それも同じ性別のほうがな? 伊香保の体使うってのも考えたが、紫苑の気持ち考えるとちょっとねー」
そのとき、突然に僕のスマホから大声が響いた。
「鳴子くんっ! タチバナの手から俺の本体を取り上げろっ! そのまま湖に投げ捨てるんだっ!」
途端に伊香保が僕から手を離し、少し距離を取った。
だが、思案するように目を強く瞑ったのも刹那のこと、腕を横に勢いよく振って、手にした青い石を地底湖の水面に投げつけた。
「ああっ、てめえっ伊香保正気かあっ!? 自分の男だろうがあっ!」
水切りの要領で投げられ、水面をぱしっぱしっぱしっと続けざまに跳ねて遠ざかっていく。
「あたしの彼氏は、この人だよっ」
その言葉を合図にするかのように、二人して湖に飛び込んだ。
目指すは伊香保が降りるときに吊るして、そのままにしておいたロープ。
紫苑さんの青い石は、湖の水が澄んでいるのと赤く発光する水中花のおかげで、沈んでいる場所が遠くからでも見えた。
ありがとう、すいません、紫苑さん。
あの人は嬉野ナツメの目的が自分だと分かるや、自身を餌にして僕らを逃がす時間を稼いでくれたんだ。
ざぶざぶと水を掻き分けて進む後ろで「ちくしょう沈まねえ」と聞こえた。
ロープをつかんだあたりで振り返ると、嬉野ナツメは水の上でもがきながら必死で沈んだ石を拾おうとしていた。
罵声からすると、うまくいかない様子だ。
国見くんの体を奪ったとき、容量が足りない分、内部を空洞にしたとか言っていた。そのせいで水に浮いてしまうんだろう。今の内だ。できるだけ距離を取ろう。
視界の端に洞穴の奥から誰かが出てくるのが見えた。リカルカさんだ。急いでいたからよく見なかったが、何か手に抱えていたようだった。あれは、あの卵か?
ロープを登るのには苦労した。手は痛いし、なかなか上へ進まないし、気持ちは焦るし、水に濡れた服がまた重い。
伊香保には先に登ってもらった。彼女は野外活動に慣れているうえ、服は特別製で濡れていないからだ。いつぞやのように先に行ってしまうかもと不安になったが、顔を出して「早く早く」と応援してくれた。
なんだかんだで僕らは関係が進んでいるのか。何とか上まで辿り着いたその時点で伊香保はロープを切り落とした。これでさらに時間は稼げるはずだ。
走っておみや池の出入り口へ向かう途中、伊香保が不安を口にした。
「さっき地底湖のそばで話している最中、洞穴から流れてくる水が増えてこなかった?」
そう言えば。僕らが洞穴を通るときは地面はただ濡れている程度だったが、嬉野ナツメが追いかけてくるとき水が跳ねる音が聞こえた。
国見くんは昨日の晩、おみや池は急激に水量が変わるから危険だ、鉄砲水みたいになる、そう話していた。
「水に巻き込まれたら、そっちのほうも危険だよ」
それはたしかにまずい。とにかくおみや池まで出なければ。
ぬめりと勾配のせいで決して歩きやすくはない通路を、両手両足で体を支えて獣のように駆ける。
「あ、ちょっと、やだ」
「ごめんごめん」
急ぎすぎて時々、先を進む伊香保のお尻に僕の頭がぶつかる。
四つん這いだから仕方ないだろ。
ずるっと低い落差を落ちると、出入り口の光が目に入った。幅の広い藻が暖簾のように垂れ下がり、隙間から外の光が差し込んでいる。
一回大きく息を吐いて、安堵する。体はあちこち痛い。ここまでに何回転んだか分からない。行きは気を付けていたけど、藻とか水垢みたいのとかでぬるぬるつるつるしていた。
僕らは藻の暖簾をかき分け、外に出た。
ここで僕は伊香保の指摘が正しかったことを知った。
出口に向かうにつれて足下の水は増えていったが、おみや池に戻った今、すでに膝ほどまで水が溜まっていた。
しかもそこかしこの水底から、水面が盛り上がるほどの勢いで湧き水が出ている。いや、これはもう噴出、と表現した方が合っている。
時間は夕方近い。日も暮れ始めていた。
さっさと舗装された道に戻らないと本当に危険だ。陽が落ちて、鉄砲水に巻き込まれたらひとたまりもない。
池の高い縁をよじ登り、そのままの勢いで林の中を駆けていく。
と、突然伊香保が立ち止まった。
僕は止まれず彼女のスーツの背中に鼻をぶつけてしまう。
「どうしたの、なんで止まるの」
伊香保は険しい表情だった。
いつもは見せない決意を秘めたような目つき、真一文字に食いしばった口元、そこからわずかに見える八重歯。
派手な顔立ちと化粧のせいで恐しげな美しさをたたえていた。
夕暮れの薄暗がりもそれにまた拍車をかける。状況が状況なのに僕はそれに見入ってしまった。
「ここで逃げ切っても、嬉野さんは追ってくる。あたしの家も知ってる。調べればキミのこともすぐ分かっちゃう」
リュックから登山用のナイフを取り出した。邪魔な枝とか雑草とか薙ぐやつ。
それ、どうする……の?
「殺し……、ちゃおう? それしかないよ。無機生命体だって本当の不死身というわけじゃないし、それに今ならまだフルに機能を使えないはず」
え……、いまなんて? 今、何て言った?
「駄目だ、伊香保、何とんでもないこと言ってるんだよっ」
「キミ、分かってないの? あの人、キミの体ではっくんを蘇生させようとしてるんだよ? あかちゃんが……国見くんがどうなったのか目の前で見たでしょ? 同じ目に遭いたいの!?」
「駄目だ、駄目だ伊香保! あれでも人間じゃないか。人殺しだ。そんなことやっちゃいけないっ!」
「どうせ一回死んでるんだからいいのよ。あたし達がここに来なければ、あの人は下宿先で消息絶って行方不明扱いになってたんだから」
「そういう問題じゃないっ、人を殺すっていう発想が駄目だって言ってるんだっ!」
「分からず屋ぁっ!!」
怒った! 伊香保が怒った! 怒るの初めて見た。
いつも作ってばっかりの表情だけど、これで喜怒哀楽コンプリートだ。て、そんなこと考えてる場合じゃないっ。
「キミって、いっつもそう! どうしてあんな人の命までほかの人と同列に扱おうとするの? あたしにとっては、キミのほうが断然大事なのっ。さっき、あたしの気持ちは分かってたって言ったじゃない! 自分にとって大切な人は、その他の誰かよりずっと大事なんだって! あたしは、やるからね。邪魔しないでっ!」
踵を返して走り出すのを止めようとして微妙に間に合わず、前へつんのめって彼女の腰にしがみつく形になってしまった。
「ばか、離してっ、どこ触ってんのっ!」
昨晩のアレが良くて、なんでこれがダメなんだ。よく分からん。
「落ち着け伊香保っ。一旦止まれって!」
足下にはゆるやかに、だけど確実に強く水が流れ落ちてきていた。水の勢いは加速度的に増してきている。
「もういいっ、分かった! じゃあキミとはもうお別れ!」
「えっ」
ナイフを持ったまま伊香保が見返った。
赤い髪が一束、濡れてうなじに貼り付いている。江戸時代の猟奇なあぶな絵みたいに。
「あたしはあたしの好きにするっ、ついてこないで!」
ちょっ、どうしてそうなるんだっ。
つきあったのが話の流れなら、別れるのも流れ、ということか?
はっくんの石取り返さなきゃ、とぼそっと呟くのが聞こえた。
伊香保は動揺した僕を振り切って、水を踏み鳴らし草木を掻き分け、あっという間に僕の視界からいなくなってしまった。
我に返り慌てて追いかけるが、茂みを一つ二つ抜けるともうその姿はなかった。
仕方なく池の近くまで戻って木陰に隠れた。
ここはサカキの山林。周囲の樹は枝が多く、蔓草が何本も垂れ下がっている。そのうえ下生えは葉を無秩序に茂らせている。
これなら十分、隠れ蓑になってくれるはずだ。サカキ様々だ。
池から湧き出す水は道筋どおりには流れず、至る所に漏れ出ている。水量は少ないながらも勢いは強い。水飛沫が葉に乱反射して顔に飛んでくる。少し痛い。
さてどうしよう。伊香保にはああ言ったけど、ほかにいい案があるのか……。
落ち着いて考えようとしたそのとき、妙な音が聞こえた。
きゅっ、きゅっと。
それはあちこちから。遠くの方から、近くの地面から、流れてくる水から、そして僕の背負ったリュックの中から。
本格的に河になり始めた水の流れが、山の土を削って下を剥き出しにする。そこには見たことのある紫の小石。場違いな毒々しさを感じる紫。
あの、玉砂利の紫。忘れていた。
水の流れか、それともほかの石に当たってか、玉砂利は周囲のあちらこちらから共振して音を立てていた。
昨日拾った同じものを、リュックから取り出す。
手に取ったそれは、共振してきゅっきゅっと鳴っている。
今頃になって閃いた。そうだ、これをソナーのように使えば地下の参道へ行く方法も簡単に分かったんじゃないか?
昨日、リカルカさんが電話で言っていたもう一つの使い道は多分これだ。
地図からはずれて不安になっても、地道に共振音を探し続ければ良かったんだ。
そうすればおみや池から入るのとは別のルートも見つかったかもしれない。
だいたいあの地底湖経由は正規ルートには思えない。下手すりゃ大ケガするか、溺れてしまう。あまりに危険すぎる。
そもそもリカルカさんはどうやってオオヒコ様の所まで入ったのか?
あの人は僕らより先にいたはずなのに湖にロープは吊り下がってなかった。帰りはどうするつもりだったんだ?
地下の参道に続く別の出入り口があると考えれば矛盾はない。
伊香保がスマホに入れていた地図には載ってなかったが、別ルートはまず間違いなくある。
ひょっとすると嬉野ナツメとリカルカさんはそこを通ってもう外に出ているかもしれない。
何か、何かアクションを起こさないと。
逃げるなり、戦うなり、何かしないと危ない。
手のなかできゅっきゅっと鳴る紫の玉砂利を眺めていると、まるで着信音みたいだなと思った。
どこからか飛んでくる音を受けて鳴る着信音。
それを見ながら考えを巡らせていると、ひとつアイデアを思いついた。
そうだ。電話をする、というのはどうだろうか。
リカルカさんに。
もしくは……紫苑さんに。
何の捻りもないごく普通のアイデアだったが、安全なところからコンタクトを取ることが一番だと考えた。
逃げても家まで来られたら意味ないし、無機生命体と戦って勝てる気はしない。
なんとか話し合いで解決するしかない。
そのためにはどうやって嬉野ナツメとコンタクトを取るのかが問題だけど。
僕には確信があった。
嬉野ナツメは紫苑さんに強烈に執着していた。
命の結晶であるあの青い石を湖底から拾ったら、きっと話をしようとするはずだ。
嬉野とリカルカさんは、さっきの話を聞いた限り、どうも伊香保と同じ方法でコミュニケーションを取っていたようだ。
つまりパソコンや電話といったデジタルツールだ。
嬉野は紫苑さんの石を拾ったら即座にスマホに繋げるはず。
繋げて、話をしようとするはず。
この推測が当たっていれば、電話はかかる。嬉野のスマホに。
もし、あいつがもう上に登ってきて僕らの近くにいるなら、着信音が聞こえるかも知れない。
身を隠しながら話し合うには、相手の居場所が分かったほうがいい。
戦いに行った伊香保のアシストにもなるだろう。
着信音が聞こえないほど遠く離れていたら、それはそれで安心だ。
そのときは紫苑さんを間に挟んで嬉野ナツメと交渉する。
襲わないように約束してもらう。
可能なら国見くんの体も返してもらう。
交渉の材料は、サカキ研究の手伝いをする、つまり助手に志願する。何とかその方向で話をしてみよう。
僕はスマホの履歴から電話をかけることにした。
紫苑さんからの履歴だ。変な記号混じりの番号だがうまくいくだろうか。
確信があるとは言うものの、嬉野ナツメが紫苑さんの石を電話に繋いでいるかどうかは完全に賭けだし、繋がっていても本当に電話がかかるかどうか分からない。そもそもマナーモードに設定されていたら着信音もしない。
いちかばちかだ。駄目だったらもう一度伊香保を探そう。
背中で水を遮って、スマホが濡れないようにしながらボタンを押す。
そして、
振るえる指で発信ボタンを押したそのとき、
僕の背中側から、着信音が聞こえた。
後ろにいた!?
振り向こうとしたら腕を後ろ手に取られた。肘と肩が激しく痛む。そのまま頭を近くの樹に押しつけられた。ごん、と重い音が頭蓋に響く。
しまった……捕まってしまった。
けど、この触られる感触はなんとなく覚えがあるぞ。
「電話をかけて居場所を探ろうとするなんて結構頭回るじゃない。でも紫石を持ったままなのはまずかったわねー。さっきから共鳴してるでしょ? それじゃ自分の隠れてるところを教えてるようなものよ。あ、タチバナさん、動かないでね」
リカルカさんだったのか……!
何てこった、嬉野ナツメは紫苑さんの石をリカルカさんに渡していたのか。そこまでは考えなかった。
首をまわして横目で視界の端を探すと、伊香保の姿があった。いつの間にか僕は彼女を追い越していたようだ。いや違う。あの女は僕をやり過ごして逆に跡を付けていたんだ。
伊香保の後ろの茂みが揺れて、人影が現れた。
嬉野ナツメだ。
嬉野は伊香保の持っているナイフを取り上げて、その流れで胸をどんと押して近くの樹に突き飛ばした。衝撃で彼女はうずくまってむせた。
「彼氏とか言っといてよー、囮に使うたあ、ほんとこの女、変わってねえ」
そうなの。まあね。
しかし万事休す。
「伊香保と紫苑のやつには一杯喰わされたけど、あまり意味なかったな。俺らショートカット知ってるし、そもそもの運動能力がダンチだし。そんじゃま、水の勢いも凄くなってきたからな、さっさと終わらそか」
僕の目の前にゴトッと大きな球状の物体が放られる。
オオヒコ様の無精卵。リカルカさんが持ってきたのだろう。こんな重そうな物、よくもまあ運んだもんだ。
地面に置かれたあと、金槌で殻が割られた。中から白とも灰ともつかない微妙な色合いの砂が覗いている。
これに、これから僕は、混ぜられてしまうのか? 死んでしまうのか、
こんな非現実的に。SF的に。オカルト的に。
そんな、そんなの御免だ。
「嬉野さん、体の調子はどうなの? また失敗で崩れてくれると助かるんだけど」
「残念だったな伊香保、今回は多分当たりだぜ。前と違って気分が大分いい。前んときは再構築された瞬間から体中寒気みたいな感覚がしてたからな」
「ねえ、あたしたち二人を下っ端として雇う気はない? はっくんの体は別に今すぐ必要じゃないでしょ」
伊香保は僕と同じことを考えていたみたいだ。
本当はここで紫苑さんに取り持ってもらいたかったけど。紫苑さんの声は聞こえてこない。もう石はコードから外されてしまったのか。
果たして、伊香保の申し出に相手はどう出るのか。
「二人もいらねーよ。お前一人ならいいけどな。そこの少年の処遇はもう俺ん中では決定済みなんだよ」
やっぱりダメか。
「鳴子くんは結構見所あると思うんだけどなー」
「ふうん……」
ちらっと伺う視線が、押さえつけられた頭の後ろに感じられた。
不意に、嬉野の顔が視界に飛び込んでくる。
金髪。それに隠れた目。緩い口元。僕を上から下からじろじろと見る。
「でもやっぱり俺は同レベルの奴が欲しいな。それより、こいつ本当にお前の今彼なのかよ。こんな冴えないガキの何がいいんだ?」
「あたしとしては、あなたの何が良かったのか今じゃ全然分かんないけどねー」
その言葉を聞いて怒りのせいか、急に嬉野ナツメの頬が紅潮した。
無機とは言え肉を羽織っているというのは本当のようだ。でなければ顔色が変わるはずない。
「てめえ、手を出さないでいてやるのは紫苑がいるおかげだぞ。勘違いすんな。でなけりゃ肉を吸い取って俺の体の容量を補う材料にしてるところだ」
長くなりかけた会話に、リカルカさんが割って入る。
「ねえ、嬉野くん、お喋りはもういい? 伊香保さんも。紫苑くんが鳴子くんの体を元にして蘇生したら、それは鳴子くんの生まれ変わりでもあると言えるわよね。だからもう、納得して?」
押さえつけられていた樹から離されて、百八十度反転、
伊香保と嬉野のいる方向へ向けられた。
僕は逃げようとさっきから力を込めているけど、これが全然動かない。完全にリカルカさんに腕を極められている。
「ちょ、ちょっと待って、嬉野さん」
伊香保の声には焦りが感じられた。
「ああん? なんだよ」
「はっくんとは、何か話したの? 体欲しいって言ってた?」
「ああ、あいつ、肉体はいらない、人の体を使って蘇るのは嫌なんだってよ。そうはいかねえ。競い合って磨き合って、いずれは一緒に働きたいと思ってるんだ。その為には体がなきゃ始まらないだろ。まったく、お前ら面倒くせえよ。こうすりゃもう是も否もねえだろ」
そう言うなり、伊香保から取り上げた登山用ナイフを持って僕に近づき、そして腹に押し当てて、刺した。
そのまま横薙ぎにされ、血飛沫が下の土と周囲の木々に飛んだ。
刺された……!
刃物で、腹の右側を。
痛みは強いがそれは皮膚だけで、中はそれほど痛くない。
けれど、傷口から鮮紅色のなめらかな臓器が浮き出て見える。臓器は大きく横に割られて、綺麗な色の血が流れ出していた。
刺されるとき、僕をつかむリカルカさんの手が一瞬緩んだ気がした。今もその手が震えているように感じる。動揺らしきものが、後ろから伝わってくる。
伊香保は、肩をぶるぶるっと震わせて、一回大きく息を吸って止め、そのまま吐き出すことを忘れたかのように僕を見続けた。
「これでこの少年は出血多量でまず死ぬね。死ぬ前に紫苑に使っとけって。でないと無駄死にになるぜ」
背中から無言で指がとんとんっと突いてきた。
背中に文字をなぞり始める。ゆっくりと。
リカルカさん、三本目の腕でやってるのか?
これは一体どういうことだろう。
伊香保と嬉野は睨み合っている。こっちには意識が向いていないようだ。
しかし傷は痛むし、血は出るしであまり集中できない。何度も同じ言葉を繰り返しなぞられて、おおよそは察しが付いた。
『た・す・け・る』『い・し・か・え・す』『て・は・な・す』
勘違い……ではなさそうだ。
僕の腕をつかむリカルカさんの手には、すでに力が入っていない。
これは、選択の余地はない。
どうして急に考えが変わったか分からないが信じて乗ろう。乗るしかない。あとは成るように成れだ。
それにしても漫画みたいに口からは血ぃ出ないんだな。
その代わり腹の傷からはどんどん出ていた。
出血が多くなってきたせいか、目眩がしてくる。気持ちも悪くなってきた。
「くらら、紫苑の石を卵に入れてくれ。そんでそいつを卵の中身に突っ込んでやれ」
「ええ」
そしてリカルカさんは、紫苑さんの石を無精卵の中へ放り込むと見せかけて、それを伊香保の方へ放り投げた。
あ、なんだ? という顔でそれを見る嬉野ナツメ。
思わず石を受け取る伊香保。
途端、僕の腕が自由になった。
出血のせいか足に力が入らず、目眩のせいでふらついたが気力で踏ん張った。
傷口はもう見ない。
そして紫苑さんの石に気を取られ、伊香保の方を向いていた嬉野を羽交い締めにした。
僕を刺すために近づいていたのが幸いした。もう少し離れていたら僕は倒れ込んでいたかも知れない。
「あ、てめっ離せえっ! て言うか、くららぁっ、裏切る気かおまえっ!」
「ごめんなさいね。あなたとその二人……じゃなくて三人を見て、ちょっと考えを訂正することにしたの」
伊香保が、落ちついて嬉野から登山用ナイフを取り返す。
「さっき、私が抗議したこと、理解してくれたのかしら」
「ああんっ?」
「伊香保さんたちを追いかけるとき、話したじゃない。人間の幼体、子供を殺すのは感心しないって」
「あんなん、偶然だろ。おまえも見てただろうが。あのガキが勝手に割り込んできたのが悪ぃんだよ」
「そう、偶然。だから子供の体は返すように言ったわよね。できたはずでしょ? なのにそのまま走って行っちゃって。しかも目的のためとは言え、鳴子くんに酷い傷まで負わせた」
「せっかくの当たりを棒に振るつもりはねえよ。一体おまえ、さっきから何言ってんだ? 子供がどうとか、傷がどうとか」
リカルカさんは短く溜息をついて、処置なしといったふうに首を振った。
「嬉野くん、あなたとの契約は一旦解除させてもらわ。だって、あなたは子供の体を貰ってもなんとも思っていないみたいだし。英雄だなんて言って自己顕示欲が強いだけに見えるし。平気で同種同族を傷付けるし。あたしの意見に聞く耳持たないし。それよりも伊香保さん達の方がよっぽど話が通じそう。私は契約する相手を間違えたみたいね。大体紫苑くんの蘇生に協力するのは、伊香保さん自身が望んでいたというのも理由の一つなのよ。事情が違ってきたならもうそんなこと手伝えないわね」
リカルカさんの言動は僕には支離滅裂に思えた。
これまでの彼女の一連の行動はまるで一貫していない。
でも、そもそも種が違うのに、それもサカキなのに、その思考回路が僕に理解出来るだろうか。言うなれば、半分理解できて、半分不可解だ。そもそも分かろうとするのが間違いなんだろう。
ただ、独自の優しさや道徳観などはあるのだ。
彼女は僕らに向き直り、後ろに下がりながら言葉を続けた。
「あとはまかすわ。返り討ちもあり得るけど、そしたらそれでも私は別に構わない。けど、叶うなら切り抜けてね。これ以上は私も手を出さないから、二人で頑張って」
さらに下がる。
「じゃあね。またね」
僕と伊香保を見て、また言った。
「またね。またね。またね?」
「くらら、おまえ覚えとけよ。くそっ、てめえ、離しやがれっ」
リカルカさんは、辺りの水流が激しくなりつつあるのも意に介さず、藪のなかへと消えていった。
「おい、どっちみち死ぬ奴がそんなことしてどうするつもりだっ」
嬉野は僕を引き剥がそうとして、体を左右にひねり、もがく。
気を抜くと力が抜けそうだ。
僕は羽交い締めのまま両手の指をからめ、力を込めて組んだ。これならしばらく振りほどけないだろう。
「よくも」
女の声がした。
総毛立つような怨念じみた声。
女にしては低い声。何かの感情を抑えた声。
前にはナイフを握りしめた伊香保。
濡れた赤い髪が数本、頬や首筋に貼り付いて、それが一層凄惨な印象を与える。
さすがに嬉野ナツメもその声を聞き、その姿を見て、もがくのを一瞬止めた。
動きを縫い止めるような恐ろしい殺気だった。
その有様に戦慄する。
やばい。あいつ、本当にやるぞ。
すでに手を伸せば届く位置に立っている。
「いかほ、やめろ」
痛いのと歯を食いしばっているのとで、声が出しづらかった。ついでに本格的に吐き気と目眩がしてきた。舌だけで言葉を作って訴えかける。
「やめろ、ころすな」
嬉野はすぐにまた力を込めて拘束を解こうとしてきた。表面上動きは少なく見えても、これは僕とこの男との命懸けの我慢比べ。
伊香保は、訴えかける僕の方を見て、つり上がっていた瞳の輪郭を緩ませた。
その瞳はまるで「ばかね」とでも言っているかのよう。
哀れむような、愛おしむような、そんな感情が伝わってくる。
それから小さく、長く、息を吐いた。まるでさっき吸ったまま止めていた息を、今、全部吐いているかのように。
そして、
思いっ切り腕を振りかぶって、ナイフを嬉野の首に向けて横に振った。
やってしまった!
と思ったのだが、そうではなかった。
当たったのは顎、当てたのはナイフの柄。
刃のほうは自らへ向けたまま。
そのまま伊香保はやたらめったらナイフの柄で嬉野の顔や頭を殴った。
そのたびごとに嬉野の頭部が短く揺れた。
逃げるために体を左右へひねるが、僕が羽交い締めにしてしっかり抑えている。
その捻る動きに合わせて僕の腹からびちゃにちゃと粘っこい音がした。血はまだ出続けているが、始めに出た血は一部固まって餅みたいになって服にへばり着いていた。それらが混ざって妙な音を立てている。
嬉野は何度か足で反撃しようとしたが、僕に背中から半ば引き倒されているので体重の入らない蹴りにしかならない。多少喰らっても、ものともせず伊香保の攻撃は続いた。
ひとしきり殴り終わり、伊香保が乱れた息を整えようとしていると、嬉野が口を開いた。
「もういい、分かった。分かったよ。おまえがこれほど怒るなんてな」
彼の顔には傷一つ付いていなかった。
「まったく俺も英雄になるとか、まだ全然だな。人の気持ちがまるで分かっちゃいないぜ」
苦々しげな表情をしていた。痛みは、あるのかも知れない。だけど無機生命体は外見をほぼ自由に出来る。その上もはや肉体に急所は存在しない。実質ダメージはないはずだが。
彼は続けて自嘲気味に呟いた。
「こんなんじゃあ、英雄になるつもりで独裁者になっちまうかもな。革命起こされて民衆に殺されるのは御免だ」
伊香保を見る。さっきまでの形相が崩れていた。
「もう一度結晶に戻ることにしてやるよ。この体の材料になった子供の肉も戻す。それでいいだろ?」
「……本気? 何企んでるの」
「何も企んでねえよ。おまえの怒った顔に免じてこの場は引いてやるって言ってんだよ。人を本気で怒らせるのは危険なことだからな」
「あんたなんかに人の感情についてどうこう言う資格あると思う?」
「言うねえ。じゃあ、どうすんだ? これ以上おまえに何ができんだよ。無機の俺を殺せるってのか? 無理だろ。ま、こっちもいい勉強になったさ。感情のお勉強な。だから、これで手打ちにしとけって」
「……うそ……物分かりが良過ぎる。あんたらしくない。せっかく蘇ったのに潔過ぎる。当たりをフイにしたくないんでしょ? もう当たりの石はないかも知れないよ」
「くくっ」と忍び笑いが聞こえた。見上げると彼の顔が見える。
嬉野ナツメの表情は、奇妙に晴れやかだった。
「かまいやしない。おまえの顔みたらそんな気になったよ。卵がないなら別の方法を探すさ。同種族のサカキの雄だって多分どっかにいるだろ。それに紫苑の奴、人型になる気は今のところないみたいだしなぁ。俺一人じゃ張り合いがない。まあ、急ぐ必要はないんだよ、どうせ俺たちには時間はほぼ無限にあるんだからな」
伊香保はそれでも訝しげに睨んでいる。
嬉野はニヤリといやらしく笑った。
「じゃ、ガキの体を返すぞ。多少俺と記憶が共有されるだろうが、完全に分離すれば元の有機体に戻れるはずだ。俺の結晶はそのままにしといてくれ。水に飲まれようが土に埋まろうがどうとでもなる。それと後ろの少年は、……そうだな、結局選択肢はないかも知れん。そればっかりはしょうがねえなぁ」
言い終わるや、ずるっ、と嬉野の体が服だけ残して僕の腕から抜け落ちた。
その体が消えた代わりに泥のような塊が下に落ちて溜まり、見る間に表面から砂になってさらさらと崩れていく。その中から国見くんの姿が裸で現れた。
と、同時にぽとんと命の結晶が地面に落ちた。
上から流れてくる水でくるくると向きを変えて回る。
それを伊香保はさも当然の様に蹴り飛ばした。
転がり行く先は、もはや奔流と化した大量の湧き水。立派な河になっていた。
結晶がそこへ落ちる一歩手前で、茂みから長い腕がにゅっと伸びてナイスキャッチし、再び消えた。
リカルカさんだ。さっき立ち去る振りをして近くで成り行きを伺っていたのか。抜け目ないなあ。
僕は傷の痛みは強いけど、気持ち悪さと目眩は軽くなり、代わりに奇妙にも頭が冴えてきていた。
もちろん出血が止まったのではなく、これは逆に危険な兆候だと自分でも分かった。
きっとデッドラインを越えて、ほんの一時晴れやかな気分になっているだけだ。このあとどうなるかは予想が付く。
事実、クリアな頭とは対照的に体の力は抜けて、いつの間にか仰向けに倒れて大の字になっていた。量を増して流れてくる水が横っ腹に当たり、体を乗り越えて流れる水は血を含んで僅かに赤い。
伊香保はそっと近づいてきて座り、僕の上半身を抱えて自分の膝に乗せた。僕の頭は彼女のお腹に触れている。
見下ろす彼女の顔は無表情。目は半分閉じていた。
「国見くん、助かったんだ」
「うん」
「お礼、言わなきゃね。突き飛ばしてくれなかったら、僕が嬉野ナツメの材料にされてた」
「あたしは来ちゃだめって言っておいたのにねー」
傷口からはだらだらと出血が続いている。都市部ならあるいは助かったかも知れない。でもこんな田舎で、しかも山の深くにいては救助も間に合わないだろう。僕は観念した。
手に、温もりを感じる。伊香保が掌を合わせてきた。
水に濡れているはずなのに、とても暖かい。それとも、僕の手や指がもう冷たくなっているのだろうか。ぎゅっと握られた。
心配してくれるのだろうか。悲しんでくれるのだろうか。
でも知っている。分かっている。彼女にとって重要なことには順番がある。
僕のことを大切に思ってくれてはいても、決して一番ではない。
「キミに謝らなくちゃ」
「なに……?」
「昨日ね、雨が降ったあと、いなくなったでしょ? お手洗いって言ったけど、あれ嘘」
「うん」
「キミが帰れなくなるように、わざと隠れて時間稼ぎした」
「そう」
「あとね、夜にスマホいじって、勝手にはっくんの番号入れた」
「うん、知ってる」
ああ、なんだ、心地良い感触。
「傷、やっぱり痛い?」
「そりゃあね」
「……ねえ、キミ」
「うん?」
「キミは、あたしの良識代わりね。好き勝手にやるあたしの、ブレーキ。理性のストッパー」
「そんな、いいもんじゃないよ。伊香保には、ひどいことして欲しくないだけ」
そろそろクリアな感じも失われてきた。眠たい、という感覚に近い。
意識を失う前に、言っておきたいことがある。もう、偽れない。
「伊香保」
「なあに?」
伊香保はこちらに視線を向けたが、その瞳は硬くこわばっていた。
なんだよ、まるで最後の言葉を聞くみたいに。
僕は伊香保のこと、どう思っているのだろう。
自分のことなのに分からない。
好きじゃないわけではなくなった。だけど、好きかどうかはやっぱり分からない。
ただ、関係が途切れるのは嫌だ。
まだもう少しだけ、彼女と関わっていたい。
「伊香保、あの、あらためてだけど」
「な……あに、……」
「僕と、つきあって、ください」
断られても、構わない。言葉にするのが重要なんだ。
たとえ本命がいるのを知ってはいても、口に出して言わずにはいられなかった。
返事を待った。
彼女なら、きっぱり言ってくれる。それで満足だ。
なのに、この女子は、平然とした様子で、
「うん、キミがいいならそれで」
続けて、
「じゃあ、あたしとキミは、あは、今から彼氏彼女ね……」
――そう、言ったんだ。
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