第12話 memento mori(メメント・モリ) 前編

 国見荘を出てすぐに神社跡地に向かい、そこから昨日通った道を再び巡る。

 一度通った場所でもあり、歩く足に淀みはない。


 ――出発する直前、おかしな電話を受けた。

 携帯が鳴ったときはまたリカルカさんからだと思ったが、液晶画面には記号混じりの奇妙な番号が表示されていた。

 そして相手の名前には『はっくん』とあった。

 誰だそれ。

 そんな名前は登録した記憶はない。伊香保はお手洗いに行っていた。まだ帰ってくる様子はない。この電話を取るべきかどうか躊躇したが、コール音に根負けするように通話ボタンを押してしまった。

「遅いっ。早く取れってまったく。でもまー、ちゃんと繋がって良かった良かった。きみは鳴子くんだったね。景気はどう?」

「どちらさんですか」

「俺? ああ、俺のことなら紫苑って呼んでくれ。ははっ、すげー名前だろ。これでも本名だぜ。一応、男だ。なんか少女漫画に出てきそうな感じだろ。そう思わねえか?」

「……はっくんって表示されてますけど」

「なにぃっ!? ああもう、あいつは何でまたそういうことするかな。はっくんはなしだ。あだ名なんだよ、それは。しかも相手が勝手に呼んでるだけだ」

 軽い口調。声からは少し年上のような感じがした。

「あ、えとな、時間ねえから用件だけ先に言うぞ。わざわざ一人のときを狙って電話したんだから。タチバナがどういうつもりなのか分かってるけどな、何も希望通りにしてやることねえからな。君は君だ。そうだろ? だから絶対に今日、あいつに付いていくなよ。取り返しが付かなくなる」

 タチバナ? 馴れ馴れしい呼び方だな。

 それに彼女に付いていくなって、ここまで来てそういうわけにはいくか。

 しかも伊香保は国見くんに、僕と二人で行きたいと言ってくれたんだ。

 大体あんた何者なんだよ。

「いいか? 俺は言ったからな」

「あんた、誰なんです? どこから電話してるんですか?」

 しかし相手は僕の質問を無視して、一方的にまくし立てたあと、

「それと嬉野のヤツには気をつけろ」と言って切られてしまった。

 紫苑さん。はっくん。はっくん? 一体何者だったんだろう。

 この人も意味深なことを言ったな。気になる。


 道程はさくさくと進み、午前九時頃には昨日お昼を食べた橋の上まで来た。このまま河に沿って登れば、おみや池にまで辿り着く。

「池、今日は水が引いてるかな」

「うん、きっとねー。ほら、河の水がほとんどないから」

 確かに、昨日はきちんと流れのある河だったのが、今日はちろちろとごく少量の水が流れるに留まっている。普段の流れで穿たれた窪みには水が溜まっており、どうやら魚はそこに避難している様子だった。

 ん、あれ。池の水が引くこと、僕はリカルカさんから聞いたはずだが、伊香保は?

「伊香保は、池の水のこと誰から教えて貰ったの?」

「もちろん高峰さんから。メールで池のこと質問したら教えてくれた。そう言えばキミ、昨日の電話は高峰さんだったんだってね。キミはそのとき知ったんでしょ? どうしてあたしに教えてくれなかったのかなあー?」

 ぎくり。

「あはは、あたしもキミも疲れてたし、それどころじゃなかったもんね、色々と」

 向こうから笑ってごまかしてくれた。ごめん。

「ね、ちょっと急ごう。歩くスピード早めるからね」

 そう言って彼女はすたすたと登って行ってしまう。なにか、気持ちが急いているように見えた。眼鏡の飾りが歩を進めるたびにぴょんぴょん跳ね回り、進むスピードがいかに速いかを如実に表している。

 その後、池に着くまでは無言だった。

 昨日もそうだったが、本気で山道を登ると会話なんて不可能なくらい息が切れる。

 呼吸を整えるのに精一杯で、とても話せる状況じゃなかった(僕が)。

 伊香保はあちこちの山や河に採集に行ってるだけあって、華奢な体格に比して結構持久力があるようだ。昨日は僕に合わせてくれていたのか。

 程なくして当座の目的地、おみや池に到着した。

 時間は午前十一時半。

 予想通り、期待通り、池の水は引いていて靴の裏が濡れる程度にまで水位が下がっている。

 水は少しだけ湧き出していて、幾筋もの平面のような浅い流れを作っていた。

 普段は池の中で咲いている水中花は、底にしなだれかかるように伏しており、魚を始めとする水の生き物たちは先ほどの河と同様、端のほうの水溜まりに身を寄せ合っていた。

 そして、池の一番奥に、せり出した岸に覆われるようにして、僅かな隙間が暗い口を開けていた。誘うように。

「あそこにね、入れるらしいの」

「えっ」

 それもリカルカさんに聞いたのだろうか。僕には教えてくれなかったが。

 伊香保は池の底に飛び降り、そのまま躊躇なく、そこに向かっていった。

 上の地面から垂れている蔓草をのれんをくぐるようにしてよけて、かがみながら中へ入り、片手だけ出してひらひらと手招きしてくる。

 一緒に来い、という意味。

「早く行って帰らないと。また水が湧いてきたら溺れちゃうよ」

 それはまずい。

 急いで僕もその穴へ向かう。入り口の高さは僕の胸くらいまでしかなかったので、やはり彼女と同じようにかがんで入った。

「伊香保、僕が先に行くよ」

「いいけど、どうして?」

「だって危ないじゃない。足下もつるつるするし。光が射さなくて暗いし。一応、ここは男が先に行って安全を確かめる、ということで」

「あらー。ありがとんです」

 その妙なお礼の言い方はよして。

 色々な道具を入れてあるリュックは、伊香保が自分で持つと言った。

 長い時間、水に浸かっていたせいか、踏みしめる場所はどこもぬるぬるのつるっつるで、時折滑りながら壁に手をつき、体を支えて何とか体勢を取り直した。

 転ばずに進むのは、ことのほか大変だった。一方、伊香保はブーツの機能のおかげか普通にすたすた歩いている。僕の気配りは余計なお世話だったかも知れない。

 恐る恐る懐中電灯の明かりだけを頼りにして進むにつれ、次第に上下の間隔が狭まり、仕方なく這うような姿勢になってしまう。

 しかも上へ上へと這い上がらなければならなくなった。

 ときに角度は急峻になり、またときに大きな段差があり、もはやおみや池の満水面よりかなり高い場所に来ているような気がした。

 そのうちまた天井は高くなり、前屈みでもなんとか立って歩けるくらいにはなった。

 そのまま十五分ほども歩いた頃だろうか、僕は急に力がすとんっと抜けるような感覚を覚えた。

 あ、落ちた? と思ったときにはもう遅かった。

 悲鳴を出す間もなく、あっさり下に落ちて大きな水しぶきを上げるはめになった。

 洞窟のなかに池? 湖? 僕は水場に落ちたのか。

 落ち着け。溺れたらアウトだ。

 不思議なことに淡い明かりがあった。視界がないわけではない。安心する。水面から顔を出して、ゆっくり息をしてみる。

 沈まないように、ゆったりと両手で水を掻いた。うん、いける。長袖の服が水を吸って重いが、夏場で薄着だったのが幸いした。

 危なかったが、固い地面でなくてまだ良かったとむしろ安心するべきだろう。

「ねえーっ、だいじょうぶーっ?」

「大丈夫っ! 水に落ちたから怪我もないよーっ!」

 浮いて顔だけ出しながら、周囲の状況を知ろうと首の動く限り見回してみた。

 明かりがある理由はすぐに分かった。

 そこにも水中花が咲き乱れていたのだ。

 昨日の夕方に池で見たように、赤みがかかった淡い光に包まれている。

 どうやら花びらが自ら発光しているようだ。水はその光に照らし出されてバラ色に染まって見える。

 その明かりは暗い街灯程度しかなかったが、それでも水は底まで見えてとても澄み切っているのが分かった。

 底のほうにはおみや池と同じく玉砂利がいくつか散見された。

 水面が不規則に波打つので何かと思えば、僕の体と同じくらいほどもある大きな魚型のサカキが何匹も悠然と泳いで辺りを周回していた。

 その大きさとのっぺらぼうのように白い体に驚いたが、ジンベエザメみたいな穏やかな雰囲気を感じる。襲ってくる気配は今のところない。油断はできないがひとまず安心。

「伊香保、降りてきても多分危険はないよ」

「あたし、ロープを下ろしてから降りる。こっちは気にせず先に水から上がっててー。そこ、かなり冷たいでしょー」

 確かにその通りだった。

 山間部で涼しいとは言え季節は夏だ。それなりに暑いはずのに、ここの水は随分と冷たく感じる。井戸水が冷たいのと同じ理由だろうか。

 見回したときに分かったが、僕の落ちた水場は地底湖とでも言えるほど広く大きく、岸まで水を掻いて行くのはかなり骨が折れそうだった。

 水深は深かったが、なんとかつま先立ちができたのが救いだった。これならなんとか岸まで溺れずにすむ。

 岸に向かって泳いでいる途中、手が魚型のサカキに触れてびびった。妙に人懐っこい。僕に興味を持って近づいて来て、僕の手に触られるとぐるりと方向転換して去って行き、また近づいて来る。左右のヒレの数が違う上、形も非対称なのにどうやって泳いでいるのだろう。

 水で重くなった服に動きを取られ、力を取られ、あげく魚サカキに絡まれてへとへとになりつつも、ようよう端まで辿り着いた。

 だが水から上がろうとすれど、これまた岸の岩場がつるつる滑ってとっかかりも何もない。

 こ、これでは上がれないっ。

 指に力をこめてなんとか岩にしがみつき、滑り落ちる前に根性で上がろうとしたところ、急に誰かに手を引っ張られた。

 そのおかげで水から脱出できたものの、引っ張った相手を見た瞬間、思わず驚いて叫びそうになった。

 手を引っ張ったのは、リカルカさん――高峰くらら、だった。


「大きな声出したりしないでね。ちょっと話を聞いて欲しいのよ」

 リカルカさんは人差し指を口元に当てて、しーっというジャスチャーを見せた。その所作は、いかにも人間の真似っぽい感じだった。

「あの、どうしてここにいるんですか」

 梅雨時のカフェの一件以来、直に会うのは初めてだ。

 今日は白骨先生の研究室で会ったときの変形ボブカット。メイクは抑えめ。

 服装はさすがに白衣でもドレス姿でもなく、一般的ないわゆる山ガールの格好だった。ちなみに左眼三つと右手二本は、今回隠していない。

 昨日の電話では普通に話せていたはずなのに、こうやって会うとまた体が震えてくる。

 単純に、怖い。

 水に濡れて寒いから震えが出るのか、それともやっぱり恐怖のためか。

 歯がかちかち鳴りそう。ぐっと噛んでこらえた。

 リカルカさんは僕の袖を引っ張って岩場の死角に連れ込んだ。伊香保が気になって振り向くと、水場の上からちょうどロープを垂らしているところだった。

「どうしてもなにも、あなた達がまた来るみたいだったからね。先回り」

「あ、そう……ですか」

「ねえねえ、鳴子さん。どうして来ちゃったの? 遠回しに来ない方が身の為だよ、って何度か伝えたと思うんだけどね。覚悟はあるの?」

「サカキの雄に興味あります、から」

 惚ける。

「それは、本当かしらねえ」

 四つの瞳でジト目をしてくる。

「伊香保さんの恋人だから、でしょ?」

「さあ、どうでしょうか」 

 嘯く。

 その辺はもう自分でもよく分からなくなった。

 ただ、家に帰ったら気持ちの整理が必要だと考えている。

「昨日の夜、彼女と何かいいことあった?」

「プライベートなことなので、内緒です」

「思い出になるようなこと、してもらったんじゃなあい?」

 あれが思い出か? まあ、そうかも。

「最後にせめていい思いをさせてあげよう、という僅かばかりの慈悲心ね」

「ん。え? 今、なんて」

 でもリカルカさんは僕から顔を背けてしまい、返事はしなかった。

 そう言えば、どうして伊香保は昨日の夜、あれほど強引に『お願い』をするよう迫ったのだろうか。

 なんであんな無茶苦茶なエロイベントを発生させたんだろうか。

「これからあなた達が先へ進むに当たって、君には私の目的を知っておいて欲しいの。私はサカキのルーツを知りたい。自分達がどこから来てどこへ行くのか、哲学的な意味じゃなくて、生物学的に知りたいのよ。でも個人で調べるのにはお金も情報も仲間も足りない。だから私はたくさんの人と約束、と言うか契約を交わしてる。白骨教授はその内の一人」

 高峰さんは話しながら二本目の右腕をポケットに入れ、そこから縦に細長い正八面体の物体を取り出した。

 手のひらよりも一回り小さい大きさで、澄んだ青色をしている。

「これ、何だか分かる?」

「何かの結晶、に見えますけど」

「当たり。これはね、命の結晶」

 命の? 結晶? そう聞いたとき、なぜか白骨教授の顔が脳裏をよぎった。

「これはね、無謀にも無機生命体へ転生しようとして失敗した青年の、命の核なのよ。ねえ、君と伊香保さんに初めて会った、あの学生用アパート。そこで私が砂を掃いていたこと、覚えてる?」

 確かにエントランスの砂を掃いてチリトリに集めていたような。

「ええ、覚えてます」

「部屋の中にもあったでしょ。砂の塊。あなた達が訪ねていった部屋の中にも」

「あ……」

 まさか。

「彼はね、私のもう一人の契約者。今からずっと前に山女魚群のこの洞窟にやって来て、春先に『あるもの』を無断で持ち去ったのよ。そして自分の部屋に戻り、それを使って重大な決意を実行した。そして残念なことに……失敗した」

 核心に迫る話。そしてやっぱり高峰さんたち三人は繋がっていた。

「無機の存在に成ることはできたから死にはしなかったけど、肉体が砂状に変性してしまってこの核だけが残ったの。彼とは綿密に情報交換してたんだけど、二週間以上彼からの連絡が途絶えて、心配になって訪ねてみたら部屋の鍵が開いてたのね。それで中に入ってみたら、衣服に紛れて白い砂の塊が大量に落ちてたのよ。部屋から出て確認してみると、玄関ドアの付近や階段の踊り場にも砂がぼろぼろ落ちていて、それが一番下の防火扉の手前まで散らかっていて……。そこに、この結晶が落ちていたってわけ」

 リカルカさんは手に持った結晶を指先でぴんっと軽く弾いた。

「私は慌てて回収したわ。想像するに、なんとか助けを求めようとして、おそらくは崩れていく体のまま這いずって、途中で力尽きちゃったのね。彼ってば相当、恐慌状態に陥ってたんでしょうねえ。外に出ても事情が分かる人がいるはずないのに。発見したのが私だったのは彼にとってラッキーだったわ。ラッキーと言えば、アパートの管理会社がルーズだったのもラッキーだったわね。でなければとっくに掃除されて、ごみに出されていたはずだから」

 そうだったのか、じゃあ、あの大学生は死んでいるわけではない? 今、目の前にある結晶が彼の現在の姿?

 ん、今の話のくだりで何かちょっと引っかかったな。

 何だっけ……、あのとき伊香保が言ってたこと。

「この結晶だけど、こう見えて生命だからね。意識だってあるし、一応意思疎通もできる。もう一度肉体を手に入れることだって」

「あなたは、それをどうするつもりなんですか」

「彼も私の契約者の一人だから、彼に肉体を取り戻させてあげる。その代わり私は彼の集めたサカキの情報をもらう。彼は若いけど優秀よ。海外のサカキまで調査してる。警戒心が強い彼は、秘密の場所に膨大な研究データを隠している。私はそれが欲しいの」

 そしてリカルカさんは結晶をポケットにしまい、左手で岩場の彼方にある洞穴の入り口を指差した。

「この先、もう少し行った所に、あなた達が探している存在があるわ。私がこの前メールで書いた面白いもの、っていうのはそれのこと。私も先に行ってそこで待ってるから。そして、そのときに重要な質問をするつもり。ただしあなたじゃなく、伊香保タチバナさんにね」

 もう一度振り返ると、伊香保はすでにロープを伝って水に降りていた。

「鳴子くん。君には何だか好感が持てたから、酷い目に遭わないよう助言してあげたけど、こうなったらもうしょうがないわね。私には私の目的があって、それが一番の優先事項。あなた達にとって私は敵ではないけど、味方でもないのよ。場合によっては……前にも言ってあったわよね」

 リカルカさんは身をかがめつつ、僕と一緒にいた岩場を少しづつ離れて、先ほど自分が指差した方へ向かってじりじりとずって行く。

「そう……容赦はしない」

 そうしてすうっと奥の暗闇に溶けるようにして消えた。

 またしてもあの人の言動は僕を困惑させる。色々教えてくれたり、忠告してくれたり、かと思えば突き放したり、脅したり。


 リカルカさんが消えた方向を眺めながら、僕は自分の記憶を絞り出していた。

 確か伊香保は、あのときこう言っていたはずだ。

『これは死体。前に見たことがあるから知っている』

 前に見たって、いつの事だ? 無機生命体に変わろうとして、失敗して砂になった人がほかにもいるっていうのか。


 不意に電話が鳴る。なんだ、次から次へと。

 こんな場所でも電波が通っているのかと驚くより感心したが、液晶画面には例の奇妙な番号と、『はっくん』という名前が表示されていた。

 ああ、今朝電話してきた人か。

 ちら、と伊香保の姿を探した。まだ伊香保は地底湖の中ほどにいた。スーツでも悠々と泳いでいる。岸まで来るにはもう少しかかりそうだ。

 紫苑さんがどういう人物か分からないが、僕はどうしてもこの電話は取らなきゃいけない気がした。何人ものひと達から警告じみたことを言われていたせいで、不安になっていたからかも知れない。

「鳴子くん、よく電話受けてくれたね。だけどなあ、俺の意見を無視してくれちゃって、まったく」

「紫苑さん、あんたほんと誰なんですか。どこから電話してるんですか?」

「時間ねえよ。言ったろ、一人のときを狙って掛けてるって」

 まるでどこからか僕を見ているかのような物言い。

「俺のほうから君と話せるよう、タチバナに頼んだんだけどよ。でも本心ではあいつ、俺と君が話をして欲しかったんだと思うぜ。そうでなきゃ、頼まれたって番号教えたりするもんか。その揺れる乙女心ってぇのを汲んでやってくれよ。けどな、残念ながらもう引き返せないからな。びっくりするかもしれんが、気をしっかり持てよな。じゃな」

 またしても一方的に電話は切れた。

 僕の不安は余計に強まっただけだった。


 電話が切れたのと同時に、背中側でざぱぁっと水音がした。

 やっと伊香保が追いついたようだ。

 岸に駆け寄り、手を貸して上まで引き上げてやる。

 髪や顔は少し濡れていたが、しっかり水に浸かったのに服のほうは濡れていない。さすがサカキ製品だ。僕も欲しい。僕は濡れねずみで大分体が冷えていた。

「今、電話してた?」

「え? ああ、うん。ちょっと、親に」

 話し声は聞こえていたようだ。伊香保は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、そう、じゃあ先進もっか、と言って再び歩き出した。


 リカルカさんが消えた方には、明らかな人工物があった。

 それは一見、神社仏閣の入り口に似ていて、屋根付きの門の名残が残っていた。

 その奥には敷石が敷かれた参道らしき道が続いている。敷石はあの紫色の小石ではなく、普通の楕円形の丸石だった。

 門とか敷石、いつの時代のものだろうか。誰が造ったんだろうか。

 どこからか水が湧いて流れて来ているのか、歩くたび靴を濡らしてぴちゃんぴちゃんと音を立てる。水量自体は多くない。数本の紐状の流れを作っているだけだ。

 道の傍らに水中花が点々と生えており、ここもまた時により水が溢れんばかりになるのがうかがえた。花は水の浮力を失ってくたっと倒れているが、その花弁から発する淡い赤い光が足下をやんわりと照らしてくれていた。

 懐中電灯の明かりも一緒に使えば、全く日の光りが射さないこの洞穴でも歩く分には何も問題ない。

 洞穴内の参道にはどこからか風が入り込んでいるようで、うーうーと遠くで唸るような音を立てている。

「あ、見て。石像」

 伊香保が指差す先に、壊れかけた石像があった。顔の長いイヌ科っぽい動物だ。目が左だけに一つ、前足が三本ある。下からの赤い光のせいでちょっと不気味だ。

「昨日見せた地図、覚えてる? この道、その通りになってるみたい」

 地図ではその参道はかなり長く続いている。

 途中途中で動物の絵が描かれており(もちろんと言うかなんと言うか、左右非対称で手足の数が多い)、歩いて行くうちにそれが動物を象った石像の場所を示すのだと分かった。

 狛犬みたいなものだろうか。通っている道のいい目印になる。

「ねえ、実は旅館の人におにぎり作ってもらったの。もうお昼だし、食べよ?」

 おあつらえ向きに人が二人座れそうな壁の出っ張りがあった。

「はい。四つあるから二つずつね。中身はお楽しみ。タッパーに入れてビニール袋で覆ってたから濡れてはいないみたい」

「ありがと」

 冷えて疲れた体に、食べ物はとても美味しく感じられた。

 口に入れて飲み込んだだけでまだ栄養になっているはずはないのに、早くも少し元気が出てきた。体も温かくなったような気がする。それにしても、ちょっと変わった具だった。野沢菜みたいだけど。……まあ、アレだろう。もう驚かん。

「うん、当たりだよ。それサカキ野菜だから」

「ああ、やっぱり。でもなんで国見荘の人がこれを?」

「だってこの地元の名産品だよ。お土産屋でも奥のほうに売ってたじゃない」

 そ、そうだっけ?

「この辺りでは一般的に栽培されてきたものだよ。だから大丈夫だって」

 サカキの野菜、栽培、と聞いて、思いつくものがあった。

「ひょっとして、以前、リカルカさん……高峰さんに僕づてで渡した種もみって、食物の種だったの?」

「あ、プレゼントの中身、知ってたの? うん、そう。ネットで会話してるときに、持ってるって言ったら欲しいって言われて。サカキって体の構造が『表の生物』とは違うから、必須栄養素が色々違うんじゃないかって思うの。それを美味しく摂取できる野菜や穀物は、やっぱりサカキのものじゃなきゃ駄目なのよ、きっと」

 白骨先生も言っていた。食べることしか楽しみがないって。あの人が言うと嘘くさいけど、でも食べること自体は楽しいし嬉しい。その意見には賛成する。

 事実、今の僕の体も食事したことで喜んでいるのが分かる。口に入れて、噛んで、味わって、飲み込んで。

 食べて体の中に流し込むのは、とても気持ちのいいこと。

「だからリカルカさんは、種もみのお礼にこんな重要な情報を教えてくれたのか」

 お礼に対して釣り合わないように思えたけど、あの人にしてみれば僕らが考えている以上に重大なことだったのだろう。

「結構たくさんの種類、入れといたし。喜んでくれたならあたしも嬉しいけどねー」

 ふうん、伊香保はリカルカさんのこと嫌いじゃない、のか。

 僕には殴れとか命令しといて。もう許してるのかな。

「ん……?」

 話してる途中、僕らが来た方角から何か音が聞こえた。

 伊香保と二人で顔を見合わせる。なんだろう。

 水が激しく跳ねる音、のような気がする。洞穴のなかでは音は反射し、くぐもってよく分からない。

 気のせいかな。


「……ねえ、それよりちょっとこの洞穴、雰囲気良くない?」

 ここは外からの光はなく、水中花の放つ赤い光だけが点在している。

 それに照らし出されて伊香保の横顔が妖しく映っていた。

 赤い光、というのは、色気を増す効果でもあるのか。彼女の染めすぎて赤くなってしまった髪も、一層赤みが映えてきらきらと輝くようだった。

 洞穴内に吹く風はゆるやかで、地下だというのに閉塞感を感じさせない。足下を僅かに流れる地下水も、しゃらしゃらと品の良い音を奏でていた。

 確かに雰囲気は良い。

 水筒の水を飲んでいると、左の肩に少しの重みを感じた。そして甘い香り。

 伊香保が体ごと頭を預けていた。

 見ると目が半分閉じられ、長い睫毛が僕とは別の方向を向いている。

 気持ちは僕に、視線は別に。そんなふうだった。

 そのまま、無言でしばらく過ごした。

 伊香保の体は、僕の手を伸ばせば抱えられるくらいの距離にあった。

 肩を、抱くべきか? そうしたほうがいいのか? どうなのか。

 結局できない。

「お願い、まだ残ってるけど」

「へ? 今じゃなきゃ駄目かな」

 くいっと細い顎を向けてこっちを見上げてきた。伊香保の鼻先が僕の頬をかすめる。三日月のような切れ長の瞳と、眼鏡越しに視線が合う。

 僕は意を決して目を逸らさなかった。いつもは恥ずかしくて、すぐ目を横へ動かして逃げるのに。

 つるに架かった飾りが、赤い光をきらりきらりと明滅して跳ね返している。

「じゃあ、……そうだなあ、その眼鏡、僕に少し貸して」

 面食らっていた。

「え、」「い、いいけど。お願いって、それなの?」「もっと、ほらさぁ」

 うん。分かってる。言いたいことは。

 雰囲気良いね、って。寄りかかってきて。顔を近づけてきて。

 僕だって、そんな朴念仁じゃあないつもりだ。でも。

「いいじゃん。ちょっとだけ。伊香保の眼鏡、掛けさせて」

 彼女が承諾する前に、こっちから眼鏡を外した。

 そのまま反転させて自分の顔に掛けてみる。

 ほのかに化粧と香水の匂いも一緒に飛んできた。女性用のせいか少しサイズが小さく、つるが耳の後ろを圧迫してちょっと痛い。

 うん? これって。

「あの、伊香保。この眼鏡」

「うん、度は入ってないよ」

「伊達だったの!?」

 ひどいっ。理系女子のトレードマークがっ。大事な要素だぞ。

「目は別に悪くなかったんだ」

 なんか、今までのどれよりもがっかりした。

「ううん。あたしねー、コンタクトなの」

 は? え?

「視力は本当に悪いの。矯正はコンタクトのほうでしてる」

「つまり、その、えっと。伊香保は、コンタクトして、そのうえで眼鏡もしてるってこと?」

 こくん、と頷いた。

「あは、なんだそれ、あはははっ」

「あれ、面白かった? あはー」

「あはははっははっ、あは」「あは。あーはーっ」

 あは、あはは、あーはーはーっ。いつもの笑い声。だけど今回だけはデュエットになった。

「ねえ、キミ」

「ん?」

 ひとしきり大笑いした後、いきなり質問してきた。

「あたしのこと、好き?」

「え」

 どう、だろう……。

 最初から恋愛感情なんてないままだった、はずだ。

 それはお互い分かってると思ってた。でも、今は好きかどうかなんて、もう分からない。

 好きじゃないかどうかなんて分からない。

 答えずにいた。伊香保は追求しなかった。

 そのまま、気の済むまで身を寄せ合って、黙っていた。


 どちらからということもなく立ち上がり、僕らは再び歩行を再開した。

 途中、伊香保は何事もなかったかのようによく喋った。僕はそれに対して生返事を繰り返すしかなかった。

 地底湖からはかなり歩いただろうか。時計はすでに午後二時近くを指している。

 敷石はまだ道に敷いてある。地図で確認すると参道はしばらく続くようだ。

 途中から水中花の赤い光が少なくなり、道は闇が濃くなってきた。あらためてここが地中だと認識されてゾッとする。

 参道も心なしか狭くなってきた気がする。上下左右から潰されるような圧迫感がある。

 最後の目印となる石像を見つけたとき、赤く光る水中花はなくなっていた。真の闇だ。懐中電灯の明かりだけが頼りとなる。足下を照らして、慎重に歩を進める。

 はー、はー、と自分の呼吸が聞こえる。空気が流れているから酸素がないわけではないが、精神的に息苦しい。

 伊香保とは手をつないで絶対に離れないようにしていた。昨日みたいに離されては嫌だ。こんなときでも伊香保は喋りかけてくる。たいしたタマだ。

 そして、そんな窮屈な道行きも終わりがきた。

 参道の敷石がなくなり、下が岩場に変わったかと思うと、急に場の空気が軽やかになった。

 広い空間に出たのだと分かった。

 狭い通路から解放され、思わず深呼吸した。

 が、同時に何かの気配を前方に感じた。伊香保も同じく感じるものがあったのだろうか、すでに口を噤んでいる。

 一歩、二歩、と恐る恐る足を進めると、何か丸くてごつごつした感触が靴の裏を通して伝わってくる。

 懐中電灯から出る光の帯の中に、球状の膨らみがいくつも浮かんで見えた。一体何だろう。

「やっと来た。随分、時間が掛ったわね。途中で遊んでたのかなあ?」

 声のした方へ明かりを向けると、予想通りの人物がそこに立っていた。

「伊香保さん、きちんとお会いするのは数年振りね。ここがあなたの探していた場所。紫苑さんだっけ? その人が探し出した場所。そしてサカキの雄、王たる雄、神とも言われるお方が住まわれる場所よ。目の前にいらっしゃるから、まずはご挨拶したら?」

 紫苑? あの人がなんで出てくる。

 伊香保を見る。表情が強ばっている。

 彼女はゆっくりと電灯を上げ、前方に円を描くようにしてそこに存在するものを把握しようとした。僕も合わせて同じようにする。

 それを見つけて、僕は、現実を見てるとは思えない、RPGの世界にでも迷い込んだのではないかという錯覚を覚えた。

 向かいの壁全体にめり込むようにして、一体の巨大な殻を持った軟体生物が鎮座していた。

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