第10話 Verweile doch, du bist so schoen !(フェアヴァイレ・ドホ・ドゥ・ビスト・ゾー・シェーン:時よ止まれ、きみは美しい) 後編

 結果として、ひょっとしたらなどと言うのは希望的観測過ぎた。

 全く間に合わないことが確定であった。

 疲れもあって元の道路にまで戻る時点で時間を大幅に消費しており、午後十時を回っていた。さすがにこれは諦めざるを得ない。

「あー、あはは。初めてのお泊まり」

「茶化すなよ」

 これから家に電話を掛ける。

 深夜帰宅を何とかお願いしていたのに、それすら守れないまま親に外泊の許可を取り付けなければいけない。

 案の定、こっぴどく叱られた。

 電話口からきつい言葉を投げかけられる。

 謝りつつもそれを聞いていたら、何だか段々と腹が立ってきた。

 高校生で外泊するのが何故いけない。無断でもないのに。

 とうとうこちらも言い返そうかと思って声が荒くなると、急にふわっと甘い香水の匂いが漂ってきた。振り向くと肩から覗き込むようにして伊香保が身を乗り出している。僕とほっぺたがひっ付きそうな位置だった。

 ファンデが付いちゃう、といらん心配をしていたら、彼女は両手のひらでメガホンの形を作り、僕の携帯に向けて大きな声でのたまったのだ。

「あははー、女の子とお泊まりですよーっ!」

「うぁっ!!」

 何言うんだっ、伊香保っ! 思わず反射的に通話ボタンを押して電話を切ってしまった。今頃切ってもしょうがないんだけど。

 伊香保は自分で自分のやったことにツボに入って、あは、あは、あーはーはーっと思いっ切り爆笑していた。

 いつもの作り笑いとは違って間違いなく面白がっている。おなかを押さえて『く』の字に曲がっていた。そんな面白かったか。

 くっそー、やられた。

 親にもう一回電話して弁解するべきか。

 でも、親のほうも呆れているのか、コールバックしてこない。

 どうせ許可を取ろうが取れまいが、どのみち帰れないんだし。帰ってから話をしよう。あとが面倒だなあ。

 道路から来た道を戻って国見荘へ向かった。

 出てきた女将さんに事情を話して泊めて貰おうとしたが、さすがにこの時間で未成年男女二人を急に泊めるのは困るようで、あからさまに渋い表情だった。

 どうやら客は他にいないらしく、今日はそのまま閉めるつもりだったようだ。

 最初は伊香保に説明を任せていたが、僕も途中から話に加わり、頭を下げ、素泊まりで十分です、親の許可も取ってあります(?)と何度もお願いした。

 ほかにも旅館やホテルはあるが、多分どこへ行っても同じような対応になると思われた。時間が過ぎればもっと難しくなる。

 最初のここで何とか泊らせて貰いたかった。

 すると女将さんは僕を見て、何だか同情するような表情を浮かべた。まるで、あなたも大変ね、と言わんばかりの顔だった。

 そして少し考え込んでから、一部屋だけなら、と応じてくれた。

 この女性は恐らく国見くんのお母さんじゃないだろうか。

 伊香保のことは前から知っていた可能性がある。だとすれば、あまり良い印象を持っていないのかも知れない。

 一方で今の僕と過去の息子の立場を、重ねて見ているのかも知れない。

 素泊まりのはずがご厚意で簡単な夕ご飯を作って頂き、お風呂も使っていいと言われた。

 ただ、部屋が本当に一部屋だったのには正直な話、ちょっと驚いた。

 まさか男女で同じ部屋に泊るのを見過ごすとは。

 無理に泊めてもらう分際でなんだが、良識に欠けてやしないだろうか。

 僕らが交渉中に国見くんが入ってきて、「つきあってるみたいだから別にいいんじゃない?」と無責任なことを言ってくれたのも理由になったと思う。さすがに布団が隣り合わせに寄せられている、といったお約束はなかった。

 伊香保が先に風呂に入れと強く薦めるので(客用の風呂は水を張ってないので、国見家の自宅の風呂である)、有り難くお先にお湯を頂戴した。

 風呂から上がり、部屋へ戻ると、伊香保がしきりに僕のスマホをいじっていた。

「何やってんの?」

「!! おつとーっ!」

 素で驚いているようだった。そこまで熱中して僕のスマホを見てたのか。『おつと』って何だ、『おつと』って。『おっと』ってこと?

「えっと、彼氏のスマホチェック? みたいな。あははぁ」

「パスコード、どうして分かったの」

「キミが使ってるのを見て覚えた」

 まじか、今度から見えないように操作しよう。

「勝手になか見ちゃダメだろ。まあいいけどさ、どうせ大したことないし」

「うん、女子がゼロ件とは思わなかった」

 ほっとけ。

 ちなみに伊香保は一般女子とは別枠に登録してある。母親は父親と一緒に家族枠。

 女子枠は一応作っただけ。

「はい、これ」

 伊香保は携帯と合わせてジュースの缶を渡してきた。

 礼を言うと、彼女も自分の分の蓋を開けて飲み始める。

 電車代といい、彼女にはお金を出して貰ってばっかりだな。また今度きちんとお返ししよう。

「ね、ね。お願いの続き、どうするの?」

「お願い? ああ、あれね。う~ん、今じゃなきゃ駄目かな」

「いつまでも待つ、っていうわけにもいかないし、出来れば早くがいいかな」

「いくつか候補は浮かんでるんだけどね」

「取り敢えず、今、何でもいいから言ってみてよ」

「帰ってからでいいよ」

「今がいい」

「……えぇ……」

「今」

「うぅん……」

「い、ま」

 分かった。ようし分かった。急かすなら。これでどうだ?

「なにか、『可愛いこと』、言って」

「えっ?」

 よーし。さすがに動揺が見られる。ざまあ見ろい。

「『可愛いこと』、言ってよ」

「……か、……」

「か……?」

「……か、解剖しちゃうぞ……」

 両手を軽く握り顎先まで持ってきて、ししっと笑った。

「……」

 勘弁してくれ。はっきり言って、恐い。

「さ、お願い、続けてどうぞ?」

「ええっ、まだやるのぉっ?」

「ささ、遠慮なく」

 どうしてくれようか。遠慮なくと言うなら、実は前々から聞きたいことがある。

 元彼達とはどうやって知り合ったのか、だ。

 さすがにそれははばかられる。けど正直なところ聞きたい。

「伊香保は、どこでサカキのことを知ったの? 良ければそれ教えて」

 この質問なら、あるいは元彼達との馴れ初めが聞けるかもしれない。

 彼女はジュースの缶を膝元に置き、居住まいを正して少し顔を横へ逸らした。

 まずい、察しが良い。

「別に、それはお願いとは関係なしでも教えてあげる」

 え?

 さっきまでの空気が、おどけた空気が、変わってしまった。

 僕は自分が少し踏み入ってしまったことをようやく自覚した。

 が、どうしようもない。

「あたしね、小学四年のときに学校へ行かなくなったの」

「そうなん、……だ」

 もう、聞くしかない。

「親は心療内科とか児童精神科とか連れてったけど、全然面白くなくて。ほとんど状況が変わらないまま五年生になったとき、親があたしを無理矢理あるイベントに参加させたの。自然に触れる、というお題目の。あたしみたいな子を全国から集めて、大自然の中で楽しんでもらうというやつ。ときどきテレビなんかでもやってるでしょ? ああいうの。昆虫や小動物を捕まえたり、魚獲りしたり、畑仕事したり、動物の世話したり、キャンプしたり」

「う、うんうん」

「そこに引率役としてボランティアで参加していた高校生が何人かいたんだけど、そのなかに嬉野……あの教育学部の大学生もいたの。講師の一人として白骨教授も来てた。あの人、小中学生向けのイベントに積極的に参加してるみたい。国見くんはあたしと同じ境遇で無理矢理参加させられたくちだった」

 ああ、なるほど……そういうつながりだったのか。

「白骨先生は昆虫や魚の生態を教えてたんだけど、あたしを含めた一部の参加者には生体解剖もさせてた。これは多分主催者や保護者には内緒でやってたんだと思う。あたし、よっぽど楽しそうにやってたのね。自分で言うのも何だけど最初から上手だったと思うし。先生に才能あるって褒められちゃった」

 あの老ジゴロ。自分たち研究者は道徳を守っているみたいなこと言っといて。

 たとえ麻酔下であったとしても普通、不登校の子供達に解剖を教えるかあ? やっぱりあの人の言うことはまともに聞くべきではないと再認識した。

「そのイベントが終わってからも白骨先生と連絡し合うようになって、ある日サカキのことを教えてもらったの。学会のことも」

 僕は黙ったまま聞く。伊香保は話し続ける。

「それで研修として、先生の助手をしてた人と一緒にサカキの採集に回ることになったわけ。その人がさっきも話したボランティアの高校生。知っての通り、あたしの最初の彼氏になる人よ」

 そのあとの話は、ちょっと聞きづらいものだった。伊香保にしてみればもっと話しづらいはずだ。

 その高校生に恋心を抱いた伊香保は、小五の終わりのときに告白。

 相手は受け入れてくれて少しの間は幸せだったそうだ。学校にもまた行き始めた。

 しかし結局、相手は伊香保のことを本気に考えてはおらず、小六の冬に別の女性と鉢合わせし口論、破局する。

 前後に白骨先生に相談に行ったのがまた良くなかった。

 あの男の本性を知らず、見事に手練手管に嵌められ、伊香保はまたもや女性としての全てを許した。

 だがほどなく一人目と同じような結果となる。

 ただ、別れると決心してからも彼の対女性対処術により、別れをだらだらと引き延ばされ大分悩んだようだ。伊香保が再び学校へ行かなくなったのはこの頃からだ。

 家で半ば引きこもり、ネットでアバター同士の交流に夢中になった。特に親密になった男性とは電脳世界で仮想結婚までした。

 その相手に対して本物の恋心も芽生え、一念発起して本人と会ってみたら……実は相手は男ではなく女だった。この辺の話は以前にも聞いた。そのときのショックは計り知れない。

「国見くんはね、実はイベントで会ったときから懐かれてて、たまにメールのやり取りをしてたの。リアルで失恋して、ネットで失恋して、誰にも泣き言言えなかったとき、彼にだけは言えたのよ。そしたらね」

 国見くんから一通のメールが届いたそうだ。

『ぼくが彼氏になるよっ、絶対に伊香保さんに悲しい思いさせないからっ!』

「とってもうれしかったー。あの子が一番、あたしに誠実だった。でも思うところあって微妙に距離を取ってつきあってたら、かえって傷つけたみたい。最後は結局、自分では力不足だった、ごめんなさい、そう言ってさよならされちゃった。あたしとしては、年が下過ぎるし、滅多に会えないし、お互いのことを考えて一線を引いてたんだけどね」

 言い終えた伊香保は、悲しい顔をしてるかと思ったが、妙にいい笑顔だった。

 口を開けて笑うのではなく、微笑をたたえて、憑き物がが落ちたかのような、すっきりした表情だった。

「狙って聞いといてなんだけど、そんな話させてごめん」

「そんなこと、ないよ。だってキミ、あたしの今彼さんだし」

 彼女はいそいそと立ち上がり、風呂に行く準備をした。着替えを持ってきている辺り、こういう事態も想定していたのだろうか。計算だったらちょっと怖い。

「ね、ね、お礼参り一回につきお願い一つだから、今回のを入れてお願いあと二つ、何か考えといてね」

「うん、分かった。エロいの、考えとく」

「あははー、期待してる」


 戻ってくるまでの間、小一時間、僕はこれまでの経緯を考えていた。

 伊香保は何が目的なんだ。

 サカキの発祥地を探して、そこで何を求める?

 以前リカルカさんは、『雄』と『生命を産む存在』について言及していた。白骨先生もそれを探していると。

 白骨先生は無機生命体を研究目的としていたが、その『雄』が重要なのか?

 リカルカさんが言う面白いもの、まさか、ここにその『雄』がいるのか?

 だとして、伊香保はそれを見つけてどうするのだ。まさか普通に今まで通り、飼ったり解剖したりするのか。

 それは生物学者として当然の反応だろう。彼女なら気色満面でやるだろう。

 だが一方で否定の考えが生じる。それはちょっと考えづらいのではないか。

 彼女はもっと、もっともっと人間くさいことを考えてるような気がしてならなかった。

 あと、気になるのはやっぱりリカルカこと高峰くららの動向だ。

 サカキの発祥地の一つとして山女魚群を教えてくれたが、先の推測が合っていれば『雄』の居場所を教えてくれたも同然だ。

 でもたしかリカルカさんは雄を守るとか言っていたはずだ。

 なんでわざわざ教えてくれた? プレゼント交換の代わりにしては重要過ぎる情報に思える。むしろ彼女には不利な情報なのでは?

 それと、僕がいろんな人達からたびたび死ぬ死ぬ言われるのも、気にならないわけがない。


 畳の上で寝っ転がりながら考え込んでいると、伊香保が風呂から戻ってきた。

 まだ何か大事なことを忘れている気がするが、一旦中止。それどころじゃない。

 風呂上がりの、女子が、眼の前にいるんだ。

 ほかごとなんか考えられるか?

 ボディーソープかシャンプーか、とにかく体中からいい匂いが立ちこめている。湯気にのって僕の鼻をくすぐる。

 頬は上気して桃色。うなじはまだしっとりと濡れている。髪はタオルでくるんと巻いて頭ごと覆っていた。

 眼鏡はかけていない。眼鏡なしの彼女の瞳を見るのは初めてだった。

「ん? なあに」

「うん」

 綺麗だなあ。化粧も落ちているけど、すっぴんだって美人じゃないか。なんで化粧するんだろ。『大人になりたい病』だからかな。

 旅館の浴衣もよく似合う。そう、伊香保は和服とか似合うんじゃないか? 首が長くてうなじが色っぽいから、見返り美人になりそう。私服は花柄が多いから、きっと派手な着物も嫌いじゃないと思うんだけど。

 ああ、誰だよ、美人は三日で飽きるって言ったの。

「さて、夜中に健康な若い男女が二人、どうするー?」

 せっかく感心してたのに。

 伊香保のあほが何か言い出した。

「消灯。じゃあ、おやすみ」

「待ってっ! なんでそうなるかなぁー」

 忘れてるんだろうか。

 僕らは聞き間違いの勘違いで彼氏彼女になったはずだ。たしかに今は関係性が変化しつつあるのは認めよう。でも、さすがに何かする気はまだ起きない。この際、相手が美人だということは関係ない。

 本当のところを言うと、そんな勇気、僕にはないんだ。

 電灯の紐スイッチを引っ張った。マジで消灯。

 けどそれはかえって逆効果となってしまった。

 小さなオレンジ色の豆電球だけが点灯し、暗がりの中で少しだけ周囲がぼんやりと浮かんで見える。その危うい視界がムードをより高めてしまった。

 もう一回紐を引っ張れば、その豆電球も消えるんだけどね。それはしなかった。

 淡い光の中に映る彼女に、見蕩れてたから。

「ねえ、例のお願いのことなんだけど、あたしの方から提案があるの」

「?」

「さっき、エロいこと考えておくって言って、あれは嘘なの? 今日は何もしないつもり?」

 え~っ、……と。

「そんなこと、ないよ。僕だって、正直胸やお尻を触りたいとか、そういうのはあるけど、また今度でいいから。今日は疲れたし、ね」

「胸」

「へ?」

「触りたいんだ」

 しまった。

「胸。おっぱい触りたいんだ。触りたい?」

 しぃーっまったぁあーっ。言質を取られたっ。

「いいよ」

「え?」

「あたしから提案。胸を触るってのはどう? 触りたいなら遠慮なく、どうぞ」

 なんなんだ。経験はそっちがあるからって。これはいたぶってるのと一緒だぞ。

 大体、虚数カップのくせになんで胸なんだよ。どっちかと言ったらまだお尻のほうがましだろ。

 いやいやいやっ、そうじゃないっ! 

「ほんと、いいって。そんなことまだ早いよ」

 我ながらへたれだなあ。ひどいへたれだ。

「早いかな? だって今日、手ぇー繋いだでしょ? だったらもう触るくらいなんでもないじゃない?」

 なにそれ。手を繋いだから、もう恋人同士としては進んだことになって、だから胸を触るのもOKだ、って。どういう三段論法だ。

「い、いや、そんな一足飛びみたいなこと、いきなりできないよ」

「あたしの初めては、二足飛びでした」

 ……、この場合一足飛びって言うのは、つまりAを飛ばしてBという意味で、つまり二足飛びと言うことはどういう事かと言うと……。

 思考、強制停止。

 元彼達(主に始めの一人)に殺意を覚えた。

「ささ、どうぞどうぞ。もちろん服の上からじゃなく、直にだよ。下着もめくってね」

 そう言って伊香保は胸をくんっと前へ反らした。

 反らすと皮膚が引っ張られて、なけなしの膨らみが完全にゼロになるかと思いきや。意外や、むしろほんのりとわずかに浴衣を通して盛り上がりが見られた。

 途端に、リビドーがむくりと鎌首をもたげる。

 いかん。これはいかん。

 俯いて深呼吸。

 どうする?

 どうするのか?

 どうしたらいいの?

 もう僕の右手はちょっとだけ体から離れ、宙をつかむような状態になっている。

 そのまま無言で静止してしまった。時計の秒針の音だけが暗闇の中で聞こえる。

 伊香保はすっと姿勢を戻した。じんわりと滲むオレンジ色の明かりに照らされて、ちょっと考え込むような雰囲気が感じられた。

「分かった。じゃあ、こうしよ?」

 ん? 分かった? 何が。

「触るだけじゃなく、舐めても」

「ストッーーップ! 何を言ってるんだあっ!」

 僕の躊躇を別方向へ解釈してるっ! 触るだけじゃ不満だと思われてるっ!

 いやっ!? からかわれてるのかっ!?

「ねえ、知ってる? テレビでね、格好いい俳優さんがこんな事言ってたの」

 なんだろう。伊香保テレビ見るのか、意外だな。でもなんでイキナリそんな話を?

「おっぱいは、形じゃない。大きさじゃない。大事なのは、味、と」

「……」

「……」

「触るだけでいいです……」

 なし崩し的に触ることになった。僕らの関係性って、いっつもこんなばっかだ。

 神妙に浴衣の前を開き、下着をめくった。

 まな板レーズン。

 この女、なんでこんなに自信満々なんだ。

 手を胸に当てて、まるでほうきで掃くようにしてササーっと上下させた。

 うう、あばらが当たるぅ……。

 一瞬凝視した後は、僕はもう下を向きっぱなしで、伊香保がどんな顔してるのか全然分からなかった。

 ただ、手に感じる肌の温度は熱かった。僕の顔も血が上って内側から熱を発していた。眼の奥や耳まで熱くなっていた。

 その後はありがと、とかなんとか言って、布団に潜り込んだ。伊香保もおやすみ、と言って布団に入った。


 だが眠れない!

 あちらはすぐに寝息が聞こえてきた。本当、すごい胆力だ。

 こちらは女子の胸を初めて触り、不本意ながら興奮がじわじわと生じてきて、全然眠気を覚えない。どんどん目が冴えてくる。

 仕方がないのでお手洗いに行きがてら、自販機で何か飲み物でも買って飲んで落ち着こうと考えた。

 そーっと部屋を出て廊下の自販機で麦茶を買い、旅館のロビーに向かう。そこのソファーでゆったり座って一息ついてると、誰かがやって来る足音がした。

「鳴子さん、どうしたんですか。黄昏れてしまって」

「あ、こんばんは。いや、なんか眠れないんだよ」

 国見くんだった。

「せっかく伊香保さんと同じ部屋なのに、一人で出てきちゃっていいんですか」

「いいんだ。僕は根性なしの甲斐性なしだし」

 国見くんはとなりのソファーに座った。

「あの、ちょっと聞いてもいいですか。鳴子さんたちって今日どこまで行ってきたんです?」

「どこまでって、えっとね、君と別行動になってから、河を遡って水源まで行ったよ。結構深い池だった。水中花がたくさん咲いてて、とてもきれいな景色だったよ」

「ああ、おみや池」

「おみや?」

「こっちの方言で『恥ずかしがり』って意味。出たり消えたりするから。でもあそこ、大人でも近寄らない危ない場所なんですよ。急に水が大量に湧き出てきて鉄砲水みたいになるから」

「そうなんだ」

「なんでまた、そんなとこに行ったんですか。ここの大人達、迷惑がりますよ」

 そう言われてもなあ。

「ま、探しものって感じ?」

 もっとも全然見つからなかったけど。

 そうだ、国見くんもサカキのことを知っている。さっき悩んだ疑問を投げかけてみよう。

 伊香保やリカルカさんよりも聞きやすい。知らないなら知らないでかまわない。

「あの、国見くん、ここって、ひょっとしてサカキの雄がいたりするのかな」

 刹那、聞かれて国見くんは明らかに怯んだ。

 どうやら核心を突く質問だったようだ。

「たしかにそういう伝説はあります。もともと七機神社はサカキの神を奉っていたんだそうです。巨大な岩のような神様で、男性神なのに子宝が授かるって。今でも山の奥には命の父と言われる太古のサカキがまだ生きているって言われてます。ほとんど都市伝説ですけど。あ、でもここじゃあ田舎伝説ですね」

 普通に言い伝えとか伝承とか昔話とかでいいと思う。とかとか。

「ここに住んでいる人達は調べたりしないの?」

「とんでもない、危険すぎます。ただでさえサカキに襲われて毎年何人か死者が出てるって言うのに。それにここは人間とサカキの狭間だから。無理にその境界を越えようとする人は少なくともこの群にはいないです。調べようとするのは、外から来る人だけ、です」

 おっと。非難されているような気がしないでもない。

「この群の大人達は触らぬ神になんとやらって感じで、できれば隠れ里みたいにしたいようです」

「それはどうも……なんかごめん、申し訳ない」

 思わず謝った僕に、国見くんはニカっとはにかんで答えた。

「鳴子さんが謝ることないですよ。だって今どきスマホもネットもあって隠し通せるはずないですし、調べる人も増える一方だし。僕から見るといい加減無理なんですよね。どうせ時間の問題です」

 リカルカこと高峰くららは、ここを教えた。どういうつもりで? サカキである彼女がどうして教えたのか。種もみと引き換えの情報としては、やっぱり釣り合わないと思う。それは僕の価値観に過ぎず、彼女にとっては同じくらい重要なものなのか?

 てっきりリカルカさんはここの出身だと思い込んでいたけど、違う発祥地の出身なのかも知れない。だとすれば、ここを教えても彼女自身にはあまり関係ないはず。

 また僕は一人で勝手に考え込んでしまったようだ。

 国見くんが僕をじいっと見ている。こころなし、心配そう。

「ねえ、鳴子さんはどうして、この山女魚群まで来てしまったんです?」

「ほとんど成り行きみたいなもんだよ」

 国見くんの目が一瞬だけ泳いだ。すぐに戻して取り繕い、別の質問をしてきた。

「ここ、山女魚群の名前の由来、ご存じですか」

「えーっと、魚のヤマメが名産だから、かな」

「『やまめ』を魚の山女魚と書くのは実は当て字なんです。本当は山の女で『山女』。生け贄にされた女の人を指す隠語です」

 ここへ来てすぐ,土産物屋で見つけた民話を思い出した。あれには生け贄の話があった。岩のような神さまのことも。

「昔々、サカキの荒ぶる神を鎮めるために、あちこちの集落からたくさんの山女をここら一帯に集めて捧げたそうです。その女の人達が作った集落がこの群の由来なんだそうですよ」

 え? 生け贄に捧げられた女性が作った集落?

「その話聞くと、生け贄の女性が死んでなかったことになるけど」

「生け贄というのは血肉を捧げるという意味ではないんだそうです。実のところは、花嫁だったと」

 花嫁? 誰の? ……もちろん、相手はそのサカキの神しか考えられない。

「サカキの子供を身ごもった女の人は、故郷に帰ることもできず、ここで子供を産んだんです。生まれた子供は他の土地から人間の女の人を呼んで結婚したり、ほかのサカキの子と結婚したり。何百年もそういったことが続いて、山女魚群はサカキの血を色濃く引く場所になったんです」

 ここはサカキの発祥地。まさか発祥地って……そういう意味……なのか……?

 だとすると、この群に住む人達は……。その伝説が真実だと仮定すると……。

「ちなみにさっきお話した七機神社の神様がそのサカキだと言われてます。ここに残った子孫が建立したのですが、時間が経つにつれて廃れてしまったみたいで。いつ無くなったのか定かではありませんが、鳴子さんも今日見た通り、今では石碑しか残ってません。仕方ないですよね、長い時間とともに大切なことが失われるのは。それに近代に入ってから普通に外から人が出入りするようになって、サカキの血のほうも大分薄くなりました」

 あああ……やっぱりぃ……。そういうことなのか……。

 国見くんは僕を見上げて、ジーパンの裾に手をかける。

「たまに僕みたいな先祖返りが出たりするんですけど。ほら、見て下さい」

 国見くんは靴下を脱いで両足の先を見せた。

 彼の両足には、青い羽毛がふさふさと生えていた。ふくらはぎの真ん中あたりからは大きなかぎ爪が飛び出ている。

 僕が息を飲んだのを見て、国見くんはにっと笑顔を見せた。

「鳴子さん、驚いた?」

「うん。正直かなり」

「羽根と爪、よく見ると左右非対称でしょ。サカキの血を引く証拠です。小学校に入る前は別に普通の足だったんですが、段々とこんな風になってきてプールにも入れなくなりました。あるときクラスの友達に見つかって、それ以来鳥人扱い。一時、学校に行くのも嫌だったんですよ」

 伊香保は自然と触れあうイベントに、国見くんも来ていたと言っていた。

 きっと当時はかなり苦しんだのだろう。ずっと年下だけど、彼の苦労が偲ばれる。

「山女魚群には僕みたいな先祖返りは何人かいるので、大人たちの間ではそれほど騒ぎにはならなかったようでした。それに体のほかの部分は何ともないので、普通に生活できましたよ。ご飯だって普通に同じ物食べて、病気になったら近所の医院行って薬飲んで。勉強も体育も特別良かったり悪かったりはしません」

 国見くんは不意に声のトーンを落として、ただ、と続けた。

「外の人にはかなり気味悪がられました。引っ越して来た人とか。外から来た人達のなかで気にせず接してくれたのは、伊香保さんしかいませんでした」

「え、白骨教授は? あの人も普通に接してくれたんじゃないの」

「ああ、あのイベントの講師の人ですね。伊香保さんを傷つけた人。外の大人達は信用できません。サカキを調べているって言うから、足のことは内緒にして隠し通しました」

「じゃあ、あの人、ここがサカキの発祥地だっていうのは」

「多分、知らないと思います。わざわざ教えて群の人達に迷惑かけたくなかったし。伊香保さんにだけは話しましたけど」

 つまり、伊香保は山女魚群という旧地名は知っていて、そこがサカキの発祥地だというのも国見くんからすでに聞いていたのか。けど旧地名しか知らされていなかったから、別れてから探しても見つけられなかったというわけだ。

 ただ、あの白骨大先生がホントに知らなかったかどうかは疑わしい。僕は知っていたはずだと思う。上手に知らないふりをしていたのだ。

 まあ、それはここであえて話題にはするまい。

「伊香保に正確な住所、今の地名を教えてなかったのは、なんでなの?」

「いや、あの、伊香保さんのことを信用していなかったわけじゃありません。折を見て言うつもりだったんです。でも伊香保さんって当時からマッドサイエンティスト的だったから、ちょっと心配で」

 分かる。すごい分かる。その心配。

「その時は僕にとって伊香保さんが心の支えだったから、きらいになりたくなかったんです。鳴子さんは小学生が何をと思うかもしれませんが、本当に、本当に好きだったんです」

「そ、そう、なの」

 すると国見くんは、あ、と何かに気づいた様子で、ポケットからスマホを取りだした。パッと待ち受け画面を僕に見せる。

「あ、ええと、大丈夫ですよ。そのときは伊香保さんのこと好きでしたけど、今は色々あってもう違いますから。安心して下さい。ほら、これ今の僕の彼女です」

 そこには伊香保とは対照的な、日焼けした活発そうな髪型ショートの女の子が映っていた。

「あ、ああ、そう言や彼女がいるって話してたね」

 あうあー。また彼に気遣われたあ。

 国見くんは態度が大人びている。言葉遣いもちょっと真面目過ぎ。気配りもこの年では出来過ぎだ。

 伊香保の『大人になりたい病』が軽く伝染してんじゃないだろうか。

「スポーツ少女って感じだね。健康的な美人さんだ。羨ましいよ」

「えへっ、ありがと、鳴子さん」

 彼は年相応の屈託のない笑顔で答えた。ようやく少年らしい一面が見られて安心。

「こちらこそ、ありがとう。話が出来て気分も落ち着けた気がする。これなら寝れそうだ」

「あ、そうですか。夜遅い時間まで話をしてすいません」

「最後に、一つ質問していい?」

「なんですか」

「魔女リカ魔女ルカって人、知ってる?」

「えっ、マジョ? それ人の名前ですか?」

「じゃあ、高峰くららさんは?」

「? いえ、知りません。誰ですかその人」

「顔の左半分を隠した、胸のおっきな女の人……いや、なんでもないよ」

 国見くんはきょとんとした顔だ。

 どうやらリカルカさんこと高峰さんとは面識がなかったようだ。名前も知らない様子。嘘には思えない。この子は白骨先生とは違う。全然違う。

「じゃ、もう寝ることにするよ。おやすみ」

「ええ、おやすみなさい」


 部屋に戻ると、何となく伊香保が起きているのが分かった。

 布団に入ると、少し離れたもう一つの布団の中から声が届いてきた。

「ねえ、この前さあ」

「……ん」

「命は平等に扱うものだって、言ったよね」

「……」

 それは、大分前の話だ。

「あのね」

 妙なタイミング、妙なシチュエーションで、この話を?

「やっぱりね、あたしは命は平等とは思えないの」

 うん。僕もあの時言った台詞を少し後悔してるくらいだ。

「命は、平等じゃあないわよ、ね」

「ん……」

 そのあと僕も彼女も無言のままに、いつの間にか眠っていた。


 朝起きて顔を洗い、部屋に運ばれてきた朝ご飯を頂き、歯を磨いて身支度して、早々に旅館を出発することにした。

 伊香保は昨晩のことなんかまるでなかったかのように、いつも通り振る舞った。メイクもばっちり。

 僕は、どうだったろうか。結構、緊張して変な感じだったかも知れない。

 宿泊代はまたしても伊香保に支払ってもらった。

 時間は午前六時半。ラジオ体操から帰ってきた国見くんとロビーで鉢合わせた。

「あ、あかちゃん。会えて良かったー。あたしたち、ちょうど今から出ようと思ってたのー」

「ああ、もう行ってしまうんですか。ひょっとしてまたおみや池に行こうとしてます?」

「ええ、もちろん」

 あ、行くんだ。やっぱり。

 その話は昨日の夜しなかったから、どうするのかなあって思ってたけど。このまま即、帰宅とはならないか。

「じゃあ、今日は僕も付いて行きますよ」

「危ないから駄目。今日はちょっと、本格的にヤバいかもしれないから」

「だったらなおさら、地元の僕が一緒にいた方がいいですよ」

「彼氏と二人で行きたいの」

 おおっと。なんだろ。うれしい。

 対する国見くんは動じる様子はない。

「そうですか。すみません、鳴子さんも。気が利かなくて。じゃあ、しばらくお別れになっちゃいますね。でも、住所もばれちゃったことですし、良ければまた遊びに来て下さい」

 伊香保は彼のそばに寄り、しゃがんで目線を合わせた。

「山女魚群にはまた来るかもしれないけど、この旅館にはもう来ないかも」

 国見くんは面食らった顔をした。

「え、伊香保さん、えっと……」

「でも電話やメールはしてもいいからね。返事するかどうかは分かんないけど」

 なんだろう。突き放すような話し方だ。

 国見くんは途端、泣きそうな表情をした。

「伊香保さん、あの、ごめんなさい。僕、本当に」

「本当に、何?」

 声量は小さいが、貫くような鋭い物言い。

「無理言って泊めてもらったのにはお礼を言います。でも、それとは別の話。どうしてあたしに本当の住所教えてくれなかったの? どうして電話やメールを受けてくれなかったの? あたしが年下の男の子を適当にいなしていただけだと思った? あたしはね、君のこと好きだったんだよ。男の子として、君のことが好きだったのよっ。でもそれはあたしの一方的な感情だったの? 君はどうだったの?」

「僕だって、好きでしたっ。でも、」

 伊香保は国見くんの目をじっと見つめて黙らせた。

 それからしばらく無言のまま見つめ合った。

 時間にしてほんの一分もない長さだったのに、気が遠くなるほど視線を合わせていたように思えた。それくらい息が詰まる光景だった。

 不意に、するっと伊香保の両腕が国見くんの首元まで回され、彼の頭は彼女の左肩に押しつけられた。

「あたしたち、気持ちがすれ違ったのね。君があたしから離れなければ、ひょっとしたら今でもつきあってたかもしれないのに。一方的に縁切って……。恨んじゃうよ」

 そう言いながら伊香保は体から国見くんを離し、手のひらを彼のほっぺにぽんっと当てた。

「でもあたしの方こそ、君の気持ちを分かってあげられなくて、ごめん」

 

 ――こうして、四人目へのお礼参りは穏やかに終わったのだった。

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