第9話 Verweile doch, du bist so schoen !(フェアヴァイレ・ドホ・ドゥ・ビスト・ゾー・シェーン:時よ止まれ、きみは美しい) 前編
七月下旬、夏休みに入り、僕らは旅行をすることになった。
リカルカさんこと高峰さんから教えてもらった、山間部のとある群へ向かう。そこには大都市を支える巨大な平野を作った大河川の源流があるとされている。
そして、そこに国見藜が住んでいるらしい。
ところで。先日、驚くべきことが起こった。
伊香保が学校に来た。
と言っても五日間だけなんだけれど。
この前の僕のお願いを聞いた上での行動かも知れなかった。
嫌だって言ってたのに。
始業式から一回も登校してこなかった彼女が突然現れたから、教室内は当然ざわついた。
が、それも長く続かなかった。
なぜならその日は期末試験だったからだ。みんなテストのことで頭がいっぱいだった。
彼女が学校に来ることは前日の夜にメールで聞かされたが、事前に申し合わせて学校ではしゃべらないことにした。
互いに知らない振りをすることにした。
僕としては自慢も兼ねてみんなに紹介したかったけど、伊香保は「あたしみたいなのとつきあってるって知られたら、まずいでしょ?」とまるで気を回すようなことを言った。
いつもはスーツ姿の伊香保がセーラー服を着ているのは、新鮮で魅惑的で目に毒だった。
視線を吸い付かせる効果を持つ、男子限定の毒だ。
眩しくて見続けていれば目が焼かれるのに、それでも見ずにはいられない中毒性がある。
いきなり夏服だというのがまた大脳辺縁系直撃だった。
注意していても、どうしても目線が行ってしまい、『ちらちら見ると勘ぐられるよ』とメールでお叱りを受けた。もっとも、ほかのクラスメートもちら見していたので、それは大丈夫のようだった。
試験が終わるとまた来なくなったが、上位成績者が職員室の前に張り出されると彼女はクラスだけでなく学年中の話題となった。
数学・物理・化学・生物において十位以内に入っていたのだ。
入学から一度も授業を受けていない生徒が。
それなのに総合で百位にも入っていなかったのは、よほどほかの教科、歴史とか現国などの点数が悪かったのだろう。
本人に聞くと、それはそれはひどい出来だったそうだ。
それがまた話題性を高め、一学期の終業式までに伊香保タチバナは一種の珍種か都市伝説かのように扱われてしまっていた。
期末試験を受けたはいいけどその総合成績は芳しくなく、また中間試験は受けていなかったので、伊香保の一学期全体での成績は大半が赤点である。
赤点を取った生徒は夏休みに補習を受ける義務があるのだが、彼女は当然そんなもの無視する意向だった。出席日数も問題だし、このままだと留年しちゃうよ、と言うと、あらそうといった様子でどこ吹く風である。
生まれた国が違えば、時代が違えば、あるいは伊香保は天才として扱われていたかも知れないのに。とても不憫に感じた。
国見藜は現在小学五年生だとのことだ。
どうせそんなことだろうと思っていた。年下の彼氏といってまさか一才年下とか、そんなありきたりなもんじゃないだろうと予想していた。その通りだった。
どこまで守備範囲広いんだよ。
いやいや、むしろこれも善悪の判断がつかないことの証拠じゃないのか?
以前、年下は捕まらないのよ、と言っていたが、その辺はどうなのか気になって思わず聞いてしまった。
聞いたのは間違いだった。なんで事前に気づかなかったのか。
「軽く、キスだけね」
あは、と下唇に人差し指を当てて言った。
つまり、それで留まっているから倫理的に問題ないでしょ、という意見らしい。
女子中学生と小学生男子のカップルは、淫行というよりもむしろ微笑ましい感じがして、周囲にもそれほど問題と捉えられなかったのだろうか。
それも彼女の計算尽くなのかも知れなかった。
意外にもそのつきあいは、彼のほうから申し出があり、そして彼の方から一方的に別れを切り出されたのだそうだ。
最初は遠恋で、しばらくは電話やメールのやり取りをして、最後に家出同然で伊香保のところへ一人でやって来たと言う。
三日間、自分の部屋にかくまって説得し続け、なんとか家に帰したがそのときにサヨナラを言われてしまい、以降会っていないらしい。
いや会おうとしても会えなかったのだ。
教えてもらった彼の実家の住所は嘘だった。
電話もメールも拒否されて、どこでどうしているか分からなかったところへ、例のサカキの知的生命――高峰くららからのメールだった。
そこには国見藜が以前話していた、嘘の故郷の名が書かれていたのだ。
『サカキの発祥地の一つは、日本の真ん中にある県の山奥、三つの大河川の上流、宮上(ぐじょう)群にある。明治までは山女魚(やまめ)群と呼ばれていた。
七機(ななはた)神社の跡地から参道に沿って歩けば、おもしろいものが見つかるわよ』
山女魚群という旧名こそ、伊香保が国見藜から聞いていた住所だった。
明治時代って、そんな昔に使われていた地名では分からないのも無理ない。
教えた住所はまるっきり嘘というわけではなかったのだ。
メールを見た彼女はそこに彼がいると確信したようだ。
何だかまた色々と疑問が湧くのだが……、なんで伊香保の元彼がサカキの発祥地に住んでいるのか、とか。どうしてリカルカさんこと高峰くららがその場所を知っているのか、とか。
……とかとか。
ま、いいや。取り敢えず後回しにすることにしよう。
新幹線に乗り、普通電車から途中ローカル線に乗り継いで目的地に向かうことにした。しかし何分、高校生の小遣いでは無理がある。バイトもしてないし。
と思ったら、移動代は伊香保が出してくれると言う。
彼女は実のところ小金持ちだった。
部屋の中にある専門機械を見れば何となく予想できたが、預金通帳を見せられたときにはびっくりした。百万近くあったのである。
学会へ標本や資料を送るだけでそんなに儲かるのか訝しんだが、どうも標本は別ルートでも捌いているらしい。
極彩色の妖怪の様な生物の標本は、変態というか好事家というか、そんな連中に結構な値段で売れるのだそうだ。大体、中くらいのサイズで五千円、大きいのでは二万円くらい。高価なフィギュア並みだ。
旅行は、予定では早朝始発で出発し、終電ぎりぎりで帰る。
さすがに僕の親は一泊旅行は許可しないだろうと考え、日帰り強行軍となった。伊香保は旅行慣れしているので、それでもいいと言ってくれた。
僕の親には頼みに頼んで、深夜帰宅の予定を許してもらった。
青春がどうとか、夏休みの思い出がどうとか言って。もちろん女子と二人で行くなんて口が裂けても言えるはずなかった。
七月と言ってももう八月は目の前、ほとんど真夏だった。
当日朝はかなり早い時間だったのにとっくに明るくなっていて、蝉が示し合わせたかのように合唱し始めていた。すでに気温は高くなっていたが、これから湿度を伴ってさらに上昇することだろう。
「おはよ。あはは」
毎度お馴染み、彼女は今日もスーツ姿。
そんなの着て暑くないのかと思ったが汗一つかいていない。
まあ、社会人の皆様もスーツだし、おかしくはないのか。
本日は紺のクールビズ。パンツタイプ。
おしりにぴっちりフィットして、歩くときにヒップがこう、くいっくいっと左右交互に小刻みに揺れる。
いかん。彼女のせいで妙な方向にリビドーが開花しそうだ。
靴は山歩きを想定してブーツのような山岳シューズ。
スーツとは意外と似合う組み合わせだ。
さすがに暑いのか、上着は脱いで脇に抱えている。
ワイシャツは第一ボタンを外して少しはだけさせ、袖をまくって半袖みたいにしていた。
大胆に見えつつもさばさばしており、やり手のキャリアウーマンみたいに見える。
胸元には小ぶりのブローチが付けてあり、糊の効いたワイシャツと合わせると一見タイピンに見えてしまった(ネクタイはしてないけど)。
それは朱色をしていた。紅色だった。彼女に赤は本当によく似合う。
そして、胸元を見るなら男子として必然的にバストも眺めてしまうことになる。
しまうことに、なるのだ。
その膨らみは限りなくゼロに近く、これに比べたらAカップなんてまだ胸のあるほうだと思えるほどだった。
これはいったい何カップだ? マイナスAカップ?
存在し得ない数字と言うことで虚数カップと名付けよう。さすがに失礼かな。もちろん絶対に口には出せない。
「どうしたの?」
伊香保はぐっと顔を近づけてきて僕を見上げた。
まずい。胸ばっかり見ていたのに気づかれたのかも。
なんとなく不満そうにも見える。
彼女はこんな風に妙に至近距離に来ることがある。
彼女のもとからの癖なのか、あるいは僕の声が小さい上にボソボソしゃべるのが聞き取りづらいのか。
「いや、そのブローチ?、いいなって思って」
「あは。ありがと。これねー、今日のために用意したんだよ」
「ああそれは」
それは……なんだ。今日は一応デートの一環で、キミのためにお洒落してみたんだよ、みたいな言い方だ。
よく見てみるとそのブローチの形は一風変わっていた。
タイピンだとしてもあまり見ない形。少なくとも、僕の父親はこういうのは持っていないと思う。
柔らかな曲面で、鮮やかな赤に乳白色の「さし」がわずかに入っている、溶けたガラスみたいな歪な形。
――って、ああ、もう分かった。
「気づいた? これねー、エミアルって呼ばれてる宝石だよ。ペルマウレナっていう魚のサカキの体内で造られる石なの。真珠みたいなものかな。少し加工してみたんだけど、どう?」
「ふうん、結構綺麗な石だね。ぼんやり明かりが灯っているような気がする」
「あ、するどい。水に浸けておくと半日発光するの。どうやって取り出すのかと言うとー、口からマイナスドライバーを入れて、何枚もあるエラを内側から剥がしていって、その間に挟まっているエミアルを掻き出すの。これだけ大きいのは滅多に採れないのよ」
ひぎぃっ。生々しい。
「い、意外と、サカキ製品って、その、なんだ、種類があるんだね? 宝石まであるんだ」
「うん。この服に靴も材料はみんなそうだよ。あ、あとそれからねー」
と言って顔を横に向け赤い髪を掻き上げた。何を見せたいかはすぐに分かった。
イヤリングだ。小さな巻き貝のようだ。群青と黒のグラデーションが美しい。
「それも?」
「うん、独楽みたいに巻くサカキ巻き貝、キートケロス。でもどちらかと言うと貝よりもフジツボに近いかな。そのままの状態だと苔とか塵が付いてるんだけど、丁寧に磨くとこんな色合いになるの。どうやって造るかと言うとー、貝殻の中にハサミを持った小さな触腕がいっぱいあって邪魔だから、煮沸した後に千枚通しでくりって抜くとー」
ひぎぃっ。
そんなエグいことを至近距離で囁くな。公衆の面前で言うな。嬉しそうに語るな。
「いいっ、それはもういいよっ」
伊香保は僕の狼狽した態度を見ると満足げにあーはーはーと笑った。
まあ、真珠とか生糸とか、生き物から取る素材はみんな結局おんなじ様な事をしてるよな。してる……よね?
特別彼女が残酷なことをしているわけではないのだ、と考えとこう。
はあ~、流行るといいな、サカキファッション。
新幹線に乗る直前、後部車両近くのホームに見た顔があったような気がした。
あの人(?)は僕らの動向を探っているようだし、そもそもが情報をくれた人だから当然と言えば当然か。
でも何を考えてるんだろうか。何を企んでるんだろうか。
席に着くと伊香保が「お願い、決まった?」と聞いてきた。
例の、お礼と謝罪を兼ねたお願いのことだ。
まだと答えると、「前のはもう終わったから、あと二つね」、と。
やっぱりこの前学校に来たのは、僕のお願いに応えてくれたからのようだった。あのときは嫌だと言ったのに。
いっそ思い切ってアダルティーなお願いをしてみようかと思ったが、彼女のことを好きなのかどうか、好きじゃないのかどうか、微妙になってきたのでそれはひとまず保留とした。
代わりにちょっと困らせるような意地悪なお願いをしてみることにしよう。
日本でも有数の政令指定都市に到着し、そこから内陸方面へ向かうべく下りのローカル線に乗り換えた。
途中、電車は山を削って造られたトンネルを何度も何度も通り抜け、そうしてようやく目的地近くにたどり着いた。
あとはバスに乗ることになる。きっとそうだろうと思っていたが、時刻表を見たらバスは数時間に一本だった。帰りが不安だ。伊香保はいざとなったらタクシーを使うから大丈夫と言っていた。
ふと気になってバスの乗客を見渡すと、例のあの人は乗っていなかった。
宮上群(旧山女魚群)は標高が高いせいか夏だというのにとても涼しく、過ごしやすい場所に感じた。避暑地にはぴったりだろう。
山や田園風景が広がり、空気が澄んでいて景色もいい。
僕らのような旅行者をちらほら見かけた。
土産物屋に立ち寄ると地元の昔話が冊子になって売っており、そこには巨大ヤマメの伝承がかかれてあった(立ち読み)。山女魚群の名の由来らしい。
七機神社についても載っていた。岩のような姿の神様が奉られていたが、若い女を生け贄に望むので旅の侍に退治されたと書かれてあった。
伊香保はあまり土産物や風景には興味を示さず、お店の人や道行く地元の人達にしきりに話しかけ、何か質問をしていた。
何を聞いていたかはすぐに分かった。
「元彼の子、国見くんが住んでる場所が分かったよ」
そうか、それを聞いて回っていたのか。
でも聞いたら教えてくれるものなのか? 個人情報なんたらはどうなってる?
と思ったが、伊香保に連れて行かれたのは民宿だった。『国見荘』とある。
なるほど。実家が民宿をしているのをあらかじめ知っていたのだろう。旅行者が民宿の場所を聞くのは別に変じゃない。
国見荘に入ると、女将さんと思われる女性が玄関口まで出迎えてくれた。
伊香保はこの人に自分の名前を名乗り、息子さんの在宅の有無を訪ねた。女性は微妙な表情をして奥へと引っ込んだ。そして待つこと数分。
おそらくその子が国見藜だと思われる、色の白い少年が出てきた。
髪はやや長め、顔は瓜のように丸みを帯びた細面、唇は真一文字に結び、目は意志の強さを感じさせる。
が、全体的に雰囲気は暗く、目線は下を向いていた。
服装は綿パンにTシャツ、夏とはいえこの辺りはまだ肌寒さがあるのか、その上にパーカーを羽織っていた。
「お久しぶりー。あかちゃん」
「……お久しぶり……です……」
あかちゃん? 『あかざ』だから『あか』ちゃん?
えぇ~。
そのニックネームはちょっと……いただけない。なんか可哀相だ。
「どうしてここ、分かったの?」
「実はねー、タレコミがあったの。あ、そうだ。こちら鳴子くん。この人、今彼」
「えっ」
えっ、と言ったのは僕だった。
相手の気持ちとか、色々考えないのかな。そんなこと、いきなり言って。
でも、勘違いでなければ国見くんはちょっとほっとした様子に見えた。
この会話の内容で安心すると言うことは、どういう意味だろう。彼女のことはもう好きではなくなってしまったのか。嫌いになってしまったのか。
だとすると、これは余計な訪問だった。
旅行の本当の目的はサカキの発祥地を調査することだ。
まさか、殴るとか言い出さないだろうね。さすがに、さすがに、それは止める。何に誓うか分からないがとにかく、誓って止める。
「あはー、悲しいな。もう、あたしには興味ないのね」
「もうぼくも、今、別の彼女いるし」
こんの、ませガキ。やっぱりぶん殴っちゃおうか。
「でも、伊香保さんとのこと、ぼくには大事な思い出だよ」
お?
「一生忘れない。自慢にする。年上のお姉さんと恋人同士だったって。ファーストキスはその人だったって。大きくなってからも自慢できる」
なんと言うか。
経験は人を育てるとは言うけど、確かにこっち方面は彼の方が僕よりよっぽど大人っぽい態度だ。褒め言葉一つ上手に言えない僕とは違う。
でもファーストなになには、言わないで欲しかった。
今度は前もって聞いてたけど。
彼は不意にこっちを向いて、僕を見上げた。
「鳴子さん、あの、変な言い方ですけど、彼女のことよろしくお願いします」
「あ、う、うん」
相手は年下小学生のはずなのに、何故恐縮するんだ。自分が情けない。
思わず、こちらこそよろしく、とか、とんちんかんなこと言いそうになってしまった。
「ねえ、あたし達、ちょっと行きたい所があるんだけど、良かったら案内してくれない?」
「それって、サカキ関連のこと?」
やっぱりこの子もサカキの事を知っている。
今までの元彼(女一人含む)は全員、何らかの形でサカキに関わりがあった。伊香保が彼らと知り合った経緯もきっとそうだ。
「ここがどういう所か、伊香保さん知ってるよね? せっかく内緒にしておいたのに。一体誰に教えてもらったの? まさかその彼氏さん?」
「鳴子くんは違うよ。あたしが巻き込んでるだけ」
国見くんは口を半開きにして僕のほうを見た。呆れたような、驚いたような。
「危ないよ。鳴子さん、死んじゃうよ」
サカキ調査はそんな危険なのか。死んじゃうって何? ここ三ヶ月程、あちこち連れ回されてるんだけどね。今更と言えば今更。
「七機神社の跡地って、知らない? そこ行きたいんだけど」
「あー、うん、そこなら分かる」
伊香保は、僕がさっきの国見くんの言葉を聞いて不安を感じていると思ったのか、
「心配しなくていいから、大丈夫」
と言った。作り笑顔だ。お得意の。信じていいかなあ。
そう言えば白骨先生は危ないところには行くなと注意していた。でもどこでそれを判断したらいい? そもそも、あの忠告は誰に言っていたんだろう。
伊香保はくるっと振り返り、いつも通りあーはーはーと笑うと、「本当、心配ないからー」と再度念を押した。
それを聞いて国見君は、
「その笑い方、懐かしい」
と言い、玄関に出て靴を履き、手招きをしながら歩き出した。
「すぐそこだから。付いてきて」
七機神社跡地は、国見荘から十五分くらい歩いたところにあった。
遺跡かもしくは廃墟みたいな場所を想像していたのに、何軒かお店が建ち並ぶ車道の脇に、小さな石碑がぽつんと立っているだけだった。
建物の跡などは全然ない。遠出したわりにはあっけないものだった。
リカルカさんからのメールでは参道に沿って歩けとあった。参道なんてないぞ?
ふと伊香保を見ると、スマホで何かを見ている。覗いてみると、古い紙をスキャナーで取り込んだもののようだ。薄く黄ばんだ紙に、墨で書かれた文字と図面。
「あれ? それって」
「うん、あの大学生のアパートで見つけたファイルに入ってたの。PDFのファイル名にナナハタ神社ってどんぴしゃり書いてあった。まず間違いないと思うよ」
へえ……。となると、あの大学生もここに来たことがあるということか。
「そのファイルにここの地名は載ってなかったの?」
「それがなかったの! 地図まで書いておきながら住所を記していないって、異常なほどの慎重さよね。きっと、住所くらいは憶えとけばいいって思ってたのよ。あいつらしいわ」
そこまでして隠すなんて。ここに何があるって言うんだ?
僕もちょっと興味が湧く。
「この地図のとおりなら、方角からすると昔はこっち側に参道があったはずね」
言いながら、歩きスマホで伊香保は車道を渡る。おいおい。危ないって。
僕と国見くんは慌ててあとを追った。伊香保のやつは振り返りもせず、反対車線を横切り、ガードレールも越えていく。
「おい、伊香保。どこ行くんだよっ」
ガードレールの向こう側は、雑草が茂る急勾配の斜面。足下が悪くて転びそうだし、下生えはトゲトゲして痛そうだ。
「こっから行こー? どうせ山には入る予定だったしぃー」
すでにだいぶ先を行ったのか、遠い声が返ってくる。
僕もガードレールを乗り越えようとしたが、妙に嫌な予感がして躊躇する。
ふと見上げると、雄大な山々が目に映った。山頂近くに薄く雲がかかり、稜線がおぼろだ。
ガードレールから身を乗り出してもう一度斜面を見下ろすと、勾配がなだらかになったその先に鬱蒼とした雑木林が見える。
その林を挟んで遠くに河が流れているのが見えた。
河……、河だ。
大河川、山、源流、何度も聞いたそれらの単語が頭の中をかすめる。
あの河はどこへ流れていくんだろうか。そのうち大河川へと合流するんだろうか。山の奥に河の源流が生じる場所があるんだろうか。
伊香保はどんどん進んで林の中にまで入っていく。
僕は意を決して付いていくことにしたが、国見くんの方は車道に留まった。
「鳴子さん、僕はもう家に戻ります。今日はずっと家にいますから、また用事があったら来てください。それじゃあ」
そして彼は伊香保にも大きな声で呼びかけて、手を振った。
伊香保の方は顔も向けず、気怠そうに片手をひらひら振り返しただけだった。
追いついてみると、伊香保は何やら足下に興味の対象があるようで、じぃっと下を見つめたまま立っていた。
何を見ているのかと思い目線を追うと、靴のつま先近くにある妙な小石を見ている。
それは河原の石のように角がなく丸っこくて、手のひらで握れば隠れるほど小さかった。光の加減によってやんわりと紫がかって見える。
木々の緑の中では場違いに毒々しい。
「変わった石だね。って言うかこれ、人工物じゃない?」
「うん、これもあのアパートから持ってきたファイルに載ってた。写真付きで」
「なんて書いてあったの」
「参道の脇に撒いてある玉砂利のようなものだろう、て注釈が付けてあった。踏むと音が出てそれが近くにある同じ物にも共振するんだって。きっと神社が存在していた頃は侵入者が来たら分かるよう、あちこちに敷き詰められていたのね」
玉砂利。なら、ここら辺は参道の跡か。
「でもあたし、これと似たようなの、白骨先生のところで見たことある。サカキの組織を使って業者に試しで造らせた物の中に、こんなのがあったような気がする。これより大分紫色が濃かったけど」
「え、そう」
生返事をして、僕はちょっと考え込んだ。
この話はつまり、最初に訪れた大学生と白骨教授、それに高峰さんはみな裏でつながっていることを示唆するんじゃないのか。
「それ、どういうものだった?」
「うん、えっとね……。あれは確か、サカキ植物の根っこから出る粘液に凝固剤を添加して、固形化させたものだった。特徴はすごく似てる。固い弾力のある触感、それとこの光の角度で現れる紫色が」
その玉砂利は天然の腐葉土のなかにいくつも散在していた。まばらではあったが、見渡すとそこかしこに見受けられた。
それらは明らかに山に沿って線を引くように固まって落ちており、まるで誰かが道標として置いてあるようにも思えた。
踏みしめると成程、きゅっきゅっと鶯張りみたいな音がする。それに呼応するように、ほかに落ちている玉からも同じ様な音が返ってきた。
「サンプルとして二、三個拾っていこ?」
「うん」
僕は近くにあるものを拾ってリュックに放り込んだ。
「高峰さんが言ってた面白いものってこれのことかな」
「あたしは違うと思う。もっと別のものを指してるんじゃない? これが本当に玉砂利なら、落ちてる場所は参道ってことになるでしょ? つまりこれが落ちているところを辿って行けば、その面白いものが見つかるんじゃないかしら。多分、神社の本殿があった場所に」
ということで僕らはその玉砂利を目印にしてさらに奥へ行くことにした。林の中、道無き道を進んでいく。
採集で山林に入るのは初めてではない。これまで一度や二度じゃきかないほど入った。採集に行った先で森林や山道を歩くことになると、伊香保が先頭で僕が後ろとなるというパターンが多かった。基本、彼女が言い出しだし、詳しい情報も彼女が持っているので自然とそうなってしまう。
僕は付いていって何かあればお手伝い、という感じでやってきていた。
伊香保は今はワイシャツの袖を伸ばしてボタンを止め、スーツの上もきちんと着ている。
僕も長袖長ズボンで、念のためもう一枚上に薄い上着を着ている。
山道を歩くときは木の枝に引っかかったり、虫に刺されたりすることが多い。たまに蜂やヘビ、でかいヤスデも出ることがある。だから長袖長ズボンは山に入るときの基本となる。。
サカキも危険な種類がいるし、結構このデート兼採集は危なかったりするのだ。
まさかのために、いくつか便利グッズや災害グッズなどを二人分まとめて一つの小さいリュックに入れてある。このリュックを持つのは僕の数少ない役目である。
もっとも如才ない彼女のこと、自分一人になった時でも対処可能なように、スーツのポケットなどに色々と用意してあるに違いないだろうけど。
ただ、今日はそれらグッズ以外に、今までとは違う物が入っている。
お弁当持参なのだ。
今回はこれまで行った採集旅行よりもずっと遠出で、しかも行き先がどれだけ発展しているか不明だったので、食料を持って来ることにしたのだ。
それまでの採集では食事はどうしていたかと言うと、基本外食だ。
たとえ田舎町でもそれなりに喰い所はあったので、蕎麦なりうどんなりが食べられた。有り難いことに、コンビニやファーストフードのチェーン店があったこともある。大抵はそういったところで二人で食べた。
だがしかし! 今日はお弁当なのだ。
実を言うと、少し期待している。
僕のはコンビニパンだが、さっきちらとリュックの中を見たとき、彼女のはきちんとしたお弁当箱に入っている、まさしくお弁当らしいお弁当であった。
それも女子一人分にしては箱が大きい。憧れのシチュエーションが頭をよぎった。
初めて、彼氏彼女らしい状況になれるのか? 何故かちょっとだけ罪悪感もかすめたが、それは気のせいということに。
ところで。
今歩いているところは、旧・山女魚群をぐるりと取り囲む山林の中である。
地面にぽつぽつと落ちている紫の玉砂利を探し、それを辿るように進んでいくと、いつの間にか山の斜面を登っていた。
斜面ということは、当然やや上り坂気味になっており、だからその……自然と……。
……伊香保のお尻が、僕の眼前にあった。
目を逸らせばいいだけなのだが、目が離れなかった。
ごめん、と心の中で詫びつつ、じっと見る。
ぴったりしたパンツスーツは結構生地が薄いようで、歩くたびお尻とももの筋肉がきゅっと躍動するのが分かる。
それどころか、うっすらと下着のラインまで見えてしまった。
ああ、スーツって、スーツって、考えたことなかったけど、こんなエロかったっけ。
そんなアホなこと煩悶しながら登るうち、周囲の枝葉や雑草の密度が増してきた。もはや完全に獣道となっている。
不意に伊香保は立ち止まって、スマホの地図を見ながらうんうんと唸った。
「どうしたの」
「うーん、方角も合ってるし、距離も合ってるし、なのになんでかな。一向に何も見つからないの」
三日月の形をした眼をきゅっとすぼめると、長い睫毛がすっと下がった。
眼鏡のせいで、瞳から受ける印象がより大きく感じられる。
いつも大きく明けて笑う口は、今はぴたっと閉じられていた。
かなり困惑している様子だ。
何しろ情報源が情報源だから、半信半疑な部分もあるだろう。でも国見くんはここにいた。偶然にしては出来すぎている。まるっきり嘘の情報ではないと信じたい。
ふと白骨先生の事を思い出す。あの老獪な男は、情報を決して全部渡したりはせず、しかも渡した情報にも混ぜ物をして純度を下げていた。同じことをしていないとも限らない。まともにあのメールを信じて良かったのだろうか。あの人は、あの女性は、――女形態のアレは、僕らとは別種の生物、サカキだと言うのに。
そうは言ってもほかに情報はない。
仕方なくそのまま玉砂利と地図を頼りに進んでいくと水の流れる音が、せせらぎが耳に届いてきた。
先程ガードレール脇から見た河に近づいていたようだ。気づかないうちにだいぶ距離を歩いていた。
木々の間に、河の流れが垣間見える。
気をつけて河の際まで近づいてみると、それは幅が広い渓流だった。山の斜面を水が滑り落ちるように流れている。
河の流れに沿うように例の玉砂利が点々と撒かれてあり、河から弾き出されている丸い石と混じり合っていた。
「あの紫の小石、ひょっとしてこの河から流れてきた?」
「うん、あたしもそう思う。河底にも紫色がちらっと見えるし」
じゃあ、あれを辿っても意味ない?
え、今更?
でも残念だけど、参道に敷いてあるはずの玉砂利が河によって流されているのなら……やっぱり参道を探す目印にはならないだろう
あちこちにばら撒かれていたのは、おそらく河の流れがこれまでに何度か変わったからだ。
「この方向で合ってると思うんだけど。地図によれば道路に立ってた石碑が、鳥居の立っていた場所で、ここらが拝殿があったはずの場所……なんだけどねー」
「探す場所としては、的はずれじゃないと思うよ。明らかにここは、さっきまでとは違う気がする。だって、ほら」
ぐるっと首を回して目配せする。「いっぱいいるし」
周りに生えている木々はどれも無意味なほど枝別れが多い。
付いている葉も一体何枚なのか、数えることが不可能なほど間が詰まって伸びている。足下に生える雑草類にしても同じだった。これらはサカキの植物で間違いない。
そこら辺を飛んでる虫もきっとそうだろう。別によく見てみるつもりはないけど。って言うか見た。
五枚羽のアゲハ蝶、七本足の赤い甲虫、ゲジゲジみたいに足の多いバッタ……などなど。
五枚羽って、左右非対称の羽でどうやって飛んでるんだ。飛行力学的に無理じゃないか?
遠くで鳥の鳴き声がするが、明らかに調子っぱずれで、こういうのはサカキっぽい。聞き取れない音域を含んでいるから、人間には奇妙に聞こえるのだ。
近くの樹を見上げたら、ヤシガニみたいなごつい甲羅を背負ったやつが枝にしがみついて、小さなハサミで葉っぱをひきちぎって口に運んでいた。小さな眼が無数にあってまるで昆虫の複眼みたいだ。
ここはサカキの発祥地の一つ。
これぐらいは予想してきた。驚きはしない。
ちなみに今回は目的が違うので、採集は後回し。
「ここら辺が拝殿だとしたら、ずっと先の先、山の上のほうへ向かって細長い道を進んだところに、ご神体を安置する本殿がある……ということになってるんだけど。うーん、ちょっとこの地図信じすぎたかなあ」
いや、その地図は信じていいんじゃないか?
言葉を濁さず言えば、その地図は勝手にかっぱらってきたものだ。
しかもデータファイルに入っていたものの一部に過ぎない。僕らを騙すためにわざわざ残しておいたとは考えにくい。
じゃあ、高峰くらら……リカルカさんからの情報はどうだろう。伊香保のやつは信じていいと言っていたが。
サカキの発祥地はいいとして、『参道』や『面白いもの』云々は信じて良かったのだろうか。踊らされただけじゃないだろうか。からかわれただけじゃないだろうか。
いや、そんなことはない。と、僕は思う。
たとえメールの内容全てを信じきれないとしても、あの人が僕らをどこかへ導こうとしているのは確かだ。
リカルカさんは、僕らが自力で『面白いもの』を見つけられるかどうか、試している節がある。僕にはそのように思えてならない。
あの人は今もどこかで、僕らを監視しているのかも知れない。あの珍妙な格好で。
ふと、リカルカさんがこの山女魚群を知っているなら、研究室で繋がりのある白骨先生も当然知っているはずだと思い至る。
畜生、やっぱり知らんぷりしてたな、あの老人。
「じゃーあ、考えられることは……、あたし達今登ってきたでしょ? だから神社は……地面の下にあるんじゃないかな?」
伊香保は冗談交じりで言った。
僕も笑って聞き流したが、案外本当にその可能性はあるのではないだろうか。
そうだとすると、どうしようもない。
何か手がかりはないかと、ぐるっと遠くまで見渡してみる。だが何もない。
いくら憶測を重ねても、結局はファイルの地図通りに進んでみるしかないのだった。コンパスを使って地図に記載された方角と合わせ、間違わないように気をつけて進む。
その道のりは結果的に、河の流れに沿って遡るように進むことになった。
「もうちょっとだけ進んでみて、開けた所があったらお昼にしましょ。もう一時過ぎだし」
「うん、賛成」
しかし進めど進めど、食事ができそうな場所は見つからず。
もうそこらの土の上でもいいから食べようかと話していたら、偶然にも木でできた橋が見つかった。
橋と言っても林の中の、誰が造って誰が使うのか不明な代物で、そこに連なる道も見つからない。
河はすでに源流に近いようで、浅く狭くなっていた。水はとても澄んでいて、底にある石や泳いでいる魚が見えるほど。流れはさほど激しくない。
この先ほかに適当なところが見つかるとは思えないので、僕らはその橋の上で昼食を摂ることにした。
橋は材木で造られていたようだが、長い年月のせいか土砂が被さり、さらに両端から太い木の根が血管のように巻き付いている。崩れやしないか心配したが、踏みしめるとかなり頑丈なようだ。
すでに時刻は午後二時を回っていた。
それぞれ好きなように橋の上に座り、リュックから昼食を取り出す。
伊香保はお弁当を取り出し、箱を開けて、囁くようにいただきます、と言った。
僕はコンビニパンを取り出し、袋を開けて、戸惑うようにいただきます、と続いた。
「……」
「……」
あれ。
当てが外れたかな。
伊香保は自分の分のお弁当をぱくぱく食べていく。
大きな口に吸い込まれるように、卵焼きが、おひたしが、唐揚げが、そして白いご飯がどんどん消えていった。
これ、キミの分も作ってきたんだよ、食べてみて、なんて。はいこれ、あ~~~ん、てすすめられたり、なんて。夢見てた。
自分で食うのかよ。
「あの、伊香保。お、おいしそうなお弁当だね……」
「ああ、うん。まあ」
「自分で作ったの?」
「一応ね」
「よ、良ければ……、少し、分けてくれない、かな……」
あああ。自分で自分が情けない。
だが。その言葉を聞いて、途端に、彼女の顔が明るくなった。箸を咥えた姿勢ではにかんでいる。
「えー、いいけど。味は保証できないよ。あーはは」
言いながらお弁当をくるりと百八十度まわして、僕の方へ向けた。
「あ、ありがと」
ひょっとして、僕が言い出すのを待っていたのかな。自分からは言い出す勇気はなかったのかも。可愛いところもあるじゃないか。
ではさっそく。
まずは緑色が鮮やかなおひたしを頂こう。メインとおぼしき肉類は、分けてもらうという体裁上手を付けにくい。この辺が無難だ。
「いただきます」
伊香保はじっと見ている。眼鏡のつるに架かった小さなガラス細工が、木漏れ日をきらきらと反射している。まるで彼女の心を代弁して、良い感想を期待しているかのように見えた。
噛みしめると、青さとわずかな苦みが鼻に抜けて、その後に出汁と醤油の味が追いかけてきた。しゃぐしゃぐと良い歯触り。飲み込むと自然とほおっと溜息が出た。
「んん、おいしい」
「あは。お粗末様です」
「これ、ホウレン草とは違うね。菜の花?」
「ベランダで育ててたウモウアシビ」
「え、何だって?」
「あたしがベランダ菜園で育ててたサカキ野菜」
「! な、」
な、な、なななっ、なっ?
なんっちゅうもん、喰わせんだよっ。飲んじゃったよっ。どうしよう。
「なんか、気分が……悪くなってきたかも」
「別にそんな、大丈夫だよ。サカキ植物って『表の植物』と似ているの多いから、昔からよく間違えて食べられてたらしいし。食用に出来るサカキは結構知られてるよ」
それは山菜と間違えて毒のある植物を食べるのと同じレベルで危険だ。似てるから大丈夫なんて騙されないぞ。キノコもそうだが、専門家じゃなきゃ手をだしちゃいけないはずだ。
あ、でも伊香保も食べてたか。
それに彼女も専門家と言えば専門家だった。失敬。
「キミが食べたいって言ったんじゃない」
「ごめん」
そのあといくつかおかずを貰った。あえて素材が何かもう聞かなかったが、味はとても美味しかった。
しかし、よくあんなの食べようとか思うなあ。
「あはは、ちゃんと調べてるから大丈夫よー。でもサカキの動物のほうはね、さすがに最初はちょっと手が出なかったのね。でも勇気を持って、何種類か試してみたの。『魚』と『カニ』は美味しかったよ」
「うげっ!」
「『サンショウウオ』は、苦くて薬みたいだった。そのあと小一時間、体が火照って処理に困っちゃった」
本当に、大丈夫なんだろうね、それ。
「食べる人は、一般の人にもいるからねー。そういう人達から聞いて食べられるのを探すの。特にここみたいな田舎だとお年寄りが詳しくて。そういうのを調べるのもサカキ研究の面白いところ」
うう~ん。人魚の肉を食べたっていう伝説もあるしなあ。肉人の肉は食べると力が上がるんだったっけ。ほかにも妖怪や怪物の肉を食べる逸話は世界中にある。サカキは妖怪として扱われることもあったと、たしか白骨教授は言っていた。
「ねえ、この前見せた鋏を接ぎ木したサカキ、覚えてる? ほらあの、イセエビに似たやつ。あれきっと美味しいんじゃないかな。今度一緒に食べてみる?」
「! 断固遠慮するっ」
ちゃんと最後まで面倒みてやれよな。
昼食が終わり、下の河を見ると魚(のサカキ)が結構たくさん泳いでいた。
水面を通して見える魚影に、違和感のようなものを覚える。なんだ?
「伊香保、この河にいる魚って、色んな種類が混じりあってない?」
「え? あ、ほんと」
いくらサカキの種類は多いとは言え、同じ場所にこれだけ別種が密集しているのは変だ。これは一体どういうことだろう。
ここはサカキの発祥地。
サカキは、父なる山から生まれ、河の流れに乗って、人の世に渡ってきた。
だからサカキの産まれる場所は、河の源流を辿ればそこにあるわけで。
――それは即ち。
「そうか、さっき伊香保が言ってた冗談」
「ん?」
「神社が地下にあるっていうのは、それで合ってるんじゃないのか。この群は全体が山みたいなもんだから、どこかに地下、と言うか山の中に入る道があるんじゃ」
「……それって、どこにありそうだと思う?」
「河の源流近く、じゃないかな。目指す神社の本殿と河の源流は無関係じゃないような気がする。もっともっと河上へ遡ってみようよ」
それならこの河の魚がほとんど違う種なのが理解できる。
もとから河に住んでいたものが生態系を築いたのではなく、河の流れに従って単に下って来ただけなのだ。もしくは流されてきたか。
伊香保は僕の案を採用してくれた。
弁当を片付け、再びリュックを背負って山道を歩き出す。
二人そろって、河の源流を目指す。
一方で僕は考えていた。
ここはサカキの発祥地。でも発祥地ってどういう意味だ?
この地域一帯はどういう場所なんだ、リカルカさんはどうしてここを教えた、どこへ僕らを導くつもりだ?
そして、どうして伊香保はその誘いに乗ったんだろうか。
国見くんのことはついでのはずだ。
やっぱり、伊香保は何か大事なことを僕に隠している。そんな気がした。
河に沿って遡ること二時間弱。
僕らは比較的大きな池に辿り着いた。
縁がすり鉢状になって、でっかいお椀のようだ。
蔓草などの雑草が無秩序に輪郭を縁取っている。切れた一端からは水が溢れて流れ出し、じょーじょーと音を立てていた。
まだ河と言えるほどの勢いはないが、きっとこれが河の始まりで、そしてこの池こそが河の源流なのだろう。
しかし二時間とは我ながらよく歩いたもんだ。
明るく話しながら歩けたら楽しかったのだが、ちょっとした登山と化していたので呼吸を整えるだけで精一杯だった。声なんてとても出なかった。夏にしては涼しい気候もこれでは関係なく、汗も大量に出る。休憩時に少しづつこまめに水分を補給して進んだ。
傍目には無言で林の中を登る男女二人だが、それでも一緒に歩く一体感を感じられた。山歩きを趣味とする人達が仲がいいのが何となく分かる。
池の水は極めて澄んでいて、湧き出る水で底の砂が舞い上がる様がはっきりと見て取れた。やはりここが源流で間違いないようだ。
水の中には何匹もの形の違う魚が行きつ戻りつひるがえり、また水底には局所的に水中花が繁殖して赤い小さな花弁を大量に付けていた。
池を見下ろす角度によって、底にちらほらと紫色の光が目に入る。例の、紫色の玉砂利だと分かった。
その水の透明度からかなりの冷たさが連想され、実際に手を入れてみると大気とのあまりの温度差に思わず頓狂な声を上げてしまった。
「結局、ここまで来たけど神社っぽいもの、なかったね」
「どっかで見落としたのかなあ」
「けどここ、また来たいね。ちょっと遠いけど。源流まで来られたのは良かったと思うよー。今日はこれでもう帰ろ? でないとキミ、家に帰れなくなるし」
もうすぐ午後五時。
伊香保は池の周囲をデジカメを使って写真に収め、行きがけの駄賃とばかりにその辺の草むらにいたサカキ昆虫や小動物を採集し始めた。見事な手際で捕獲して、リュックから取り出した小さなプラスティックのかごに放り込んでいく。
僕はその間、辺りに生えているサカキ植物をいくつか見繕って土ごと根っこからスコップで掘り起こし、ビニール袋に入れた。
今回の旅行は採集が主たる目的ではないとは言え、少しだけなら持って帰ることができる。
適当にぐるっと見回すだけでも相当数見つけられるので、全種類制覇するためには何度か足を運ぶ必要がある。本当にまたここへ来ることがあるだろうか。
採集の途中で伊香保が「危ない奴は今のうちにシメとくね」と言って、触覚を抜いたり、延髄を押して首を折ったりしていたのは見ないふりした。
「じゃ、帰ろっか」
「うん、なんかごめん。ホントは伊香保、もうちょっと調べたいんじゃないの」
「いーの、いーの。最初からそういう予定だったし。こうして源流も見つかった上、国見くんにも久し振りに会えたし。あ、一応ひっぱたかないとね。帰りに国見荘、また寄ってこ?」
お礼参りのことは忘れてなかったみたいだ。でもどうしてあの子を叩くんだ。
「相手はこどもだ。それはまずいよ」
帰り道は、今度は逆に下ることになる。山道は上りより下りが危ないと聞いた。
足下に気をつけ、足を滑らせないようにし、膝に負担がかからないよう周りの樹などに手をかけたりして下りていった。こういうとき軍手は必須。
下り初めて一時間ほど経って、唐突に周囲一帯が暗くなってきた。見上げると天を雲がもくもくと覆い始めている。
「伊香保、夕立が来そうだ」
話す間にも、すーっと暗さが降りてくる。
夏特有のこんもりと盛り上がった積乱雲が一瞬にして太陽を遮り、例えではなく本当に夜の様に暗くなった気がした。
込み入った林の中だから暗いのはなおさらだった。
急に明るくなると目が眩むように、急に暗くなっても同じように視界が悪くなる。夕方やトンネルで交通事故が多い原因だ。明順応より暗順応の方が慣れるのに時間がかかるのだ。
雲は次第に黒く変色していき、今にも雨が落ちてきそうになった。
山の端が紫がかって見え、視界の悪さの中でそれは不気味に映った。まるで悪い夢にでも迷い込んだかのようだった。
僕は思わず伊香保の手を掴んだ。びっくりした様子だったが、言葉を出す代わりに手を握り返してきた。
瞬間。
水を張ったタライをひっくり返したかのような、凄まじい水量が落ちてきた。
雨粒なんて生やさしいものじゃない。
あまりの激しさに目が開けられない。伊香保の姿も当然見えない。握っている手だけが頼りだった。
この類の豪雨はわずかの時間でやむことが多いのは知ってる。濡れてしまうが、とにかく我慢して待てばいい。
雨の勢いが少し緩んだとき、デジタルなコール音が鳴り響いた。
僕と伊香保、どっちの携帯が鳴ったのか一瞬分からなかった。
特定の相手を示す着信音だった。これは『あの女の人』からだ。
僕と伊香保はあの人のことを要注意と考え、もし電話が掛かってきたら即分かるように前もって二人で同じ着信音にしていた。
鳴っているのはどうやら僕の携帯のほうだった。
出るかどうか迷っていたら、握っていた手がするりと抜けた。
あれ、手を離された?
もう雨はやみかかって小降りになっていた。湿気を吸った夏山の熱い土から、靄がにじみ出ている。足下が霧に包まれたかのようだ。これでは地面が見づらくて、こんな山道では迂闊に動けない。
「伊香保っ! どこ行った!?」
三百六十度、視界の届く限り探してみたが彼女の姿はなかった。呼びかけても返事は返ってこない。
とりあえず、未だにうるさく鳴っている僕の電話に出ることにする。
「はいはーい。『とかとか』『などなど』のお姉さんですよー。覚えてますかー?」
「あの、すいません。いま、ちょっとですね、そういうテンションで話ができる感じじゃ」
以前会ったときの恐怖が蘇るが、声だけなら何とか大丈夫。
「どうどう? あたしがメールで教えた面白いもの、見つかったかしら?」
今日僕らが山女魚群に来ていること、やっぱり知っていたか。
「今どこにいるんですか。ひょっとして近くにいるんですか?」
こっそり僕らの後を付けていたかも……と思ったら、
「山女魚群にいるわよ。今、ホテルの喫茶店でダージリン飲んでるところ」
近くにいないのかよ。でも山女魚群にはいるんだな。また砂糖過多で飲んでるんだろうか。目に浮かぶ。
「それで、話を戻すけど、面白いものは見つかったの?」
「いえ残念ながら何も。少なくとも僕たちが面白いと思えるものは見つかりませんでした」
嘘だけど。
「ちゃんと、河の源流まで辿った? 花が咲く水たまりがあったでしょ」
「水たまりって、結構深い池でしたよ」
「あれ?」
一瞬間が空いて、考え込むような雰囲気が携帯を通して伝わってきた。
「今日はまだ水が引いてなかったのね。運が悪いわあ。残念」
水が引く?
「あそこ日によって水が湧いたり湧かなかったりして、常に水がいっぱいあるとは限らないのよね。二、三日に一回は水がほとんど流れ出して中を歩けるようになるの。潮の満ち引きでできるタイドプールと似たようなものね」
「え、あ、そうなんですか」
「あの池から流れ出た水はしばらく河として流れたあと、群を抜ける辺りで伏流水になるの。そのあと近くを流れる三つの大河川のどれかに注ぐことになるってわけ。そして池の水が一旦流れきったら、再び水が吹き出すまで河は消える。あの河は普通に市販されてる地図には載ってないし、一般には知られていないわ」
生返事する僕には構わず、一方的にリカルカさんはぺらぺら話している。
「今日、山のほうを眺めたら河が流れているのが見えたから、池の水位は下がっていると思ったんだけど。う~ん、ほんのちょっと早かったかぁ」
なるほど、そういうことか。いや待て。僕は、何を暢気に……。
「ねえねえ、途中で紫色に透ける小石、あったでしょ」
「あ、え……、ええ。あの踏むと音が鳴るやつ。玉砂利ですね」
「そうそう。う~ん、玉砂利ねえ。ま、神社だし、そうね。あれ、日によって出たり消えたりする河を見つける目印になるのよ。干上がってると林の中じゃ河の跡は分かりにくいからね。池が満水で河がはっきりしてたのなら、かえって水源までは簡単に行けたでしょ」
「簡単ではなかったですけど。でも一応、ノーヒントで辿り着けましたよ」
「優秀、優秀」
玉砂利の話が出たらなら聞きたいことがある。折角だからと勇気を出して質問してみた。
「リカルカさん、ひょっとしてですけど、白骨先生からその玉砂利の模造品かなにか譲ってもらいました?」
「あらあら、まあまあ。先生が製法を再現できたこと、どうして知ってるのかしら。ああ、伊香保さんなら見たことがあったかもね。でもそれをあたしが持っていること、よく思いついたわね。この前もあたしの正体を初対面で見抜くし、あなたは意外と鋭いのかしら。ふふ、前より好きになったわ」
好きだって? この前、僕に何言ったのか覚えてないのか?
まったく。
容赦しないと脅されたり、好きになったとくすぐられたり。
別種の知的生命におもっきし、からかわれてる。
そんな僕の困惑をよそに、彼女は話を続けた。
「じゃあ、おまけで教えてあげようかな。実はその模造品、出来はかなり本物に近いんだけどちょっと一工夫してあるのよ。材料の成分を調整して、色が濃くなるようにしてるの。色の濃度に比例して、共振する距離と音の大きさが増加するのよ。どうどう? 興味湧かないかな」
「興味ないこともないですけど、それが何の役に立つんです? あ、遠くの侵入者もすぐ分かるとか?」
「あったりー。あの紫の玉砂利ね、一つ踏めばほかのも連鎖的に共振して鳴るから。防犯用としてかなり効果あったんじゃないかしら。なんでも神社が建っていた頃には、参道付近にびっしりと敷き詰めてあったらしいわよ」
全面、紫色の敷地。想像してみた。それは気持ち悪い。
「実はね……共振する性質を利用してもう一つ使い道があるのよ。色の濃いものを使って鳴らすとね……うん、まあ、そこまで教えるのはやっぱりいいか」
う、気になる。使ったら何が分かるんだろ。言いかけて止めるなんて、けち。
「明日もう一回水源に行ってみたら? 水引いてるかもよ」
残念ながら日帰り予定だからそれは無理だけど。
「面白いものって、結局なんだったんですか」
「え~。実際に見て欲しかったのに。伊香保さんも白骨教授もずっと探していたものがあるわ。ま、気が向いたらまた行ってみて」
それよりね、と声色が変わる。
「あなたのこと、ちょっと心配。前にも忠告したけど、伊香保さんとはあまり一緒にいない方がいいと思うな。気をつけてね」
「心配して下さるなんて正直意外です」
失礼にも殴りかかったと言うのに。
「程度問題ね。あなたには好感が持てるけど、私には私のやりたいことがある。伊香保さんがそれにどう関わるか興味があるのよ。でもあなたは事態がどう転ぶにしても、とばっちりを喰うことになる」
もう十分にとばっちりを喰らってると思う。
そう心の中で答えていたら、それを見抜いたかのようなセリフがリカルカさんの口から出た。
「さすがに死んでしまったら、私も夢見が悪いわ」
死んじゃうよ。国見くんはそんな忠告をした。返事に困って固まる。
「ああ、もう時間切れ。じゃあね。またねまたね」
向こうから電話を切られてしまい、小さく嘆息する。
靄がかかっていた視界は大分晴れていた。さて伊香保はどこだ。
近くを見渡したが、姿はない。
なぜいない? あいつ、こんなときにどこへ行った?
林の中を方々探し回ったが、いない。どこにもいない。携帯にも出ない。大声で呼んでも山彦しか帰って来なかった。
留まって待つべきか、進むべきか戻るべきか。
どうしようか。
悩んだあげく、さっきの池、源流までの道を少し戻ってみることにした。
河は道標になるはずだし、山で迷ったら下りるより登るほうがいいという話を思い出したからだ。
しかし結論から言うと、これは失敗だった。
どこまで戻っても彼女の姿はない。探しながら進み続け、なんとそのまま源流の池まで戻ってしまった。そこにもあいつは見当たらない。早く帰らなければいけないのに、これはかなり時間をロスしたことになる。
池の水を見ると、さっき来たときより水位が下がっている。つい今しがた雨が降ったあとなのに。リカルカさんの話通りだ。
日が落ち始めて薄暗がりになっている。夕立のときとは異なる、忍び寄るような暗さだ。
その暗闇のなかで、水中花がほんわりといじましく赤い光を灯していた。
周りに生えた有象無象の草花の緑が、池の輪郭に沿ってその赤い光に照らし出されている。
幻想的な光景。
思わず目と心を奪われそうになる。でも眺めている暇はない。
まだ伊香保の携帯には通じない。どうせ待っても来ない気がする。仕方なくリカルカさんから電話を受けた場所まで戻ることにした。
もうすでに午後七時になっていた。
危ないのも承知で息せき切って走りながら下りた。見つからなかったらどうしよう。もう一度だけ携帯に連絡してみるか。それとも一度住宅地まで戻って助けを呼ぶか。焦る。
伊香保、どこだ。ほんと、どこに行った……っ!
そしたら、そこに、その場所に、電話を受けた場所に。
雨のなか手を離した場所に。
伊香保はぼうっと立っていた。幽鬼のように。
「どうしたのっ!? 急にいなくなって。すごい探したよ!」
「ごめん」
少し迷うような表情のあと、こう続けた。
「ちょっと、お手洗いに」
この辺にトイレはない。それはつまり、え?
「あ、ああ、僕の方こそごめん。気付かなくて」
ん。
いやいや、騙されるな僕。それだったら行く前にひとこと言えばいい。どうせ答えちゃうなら恥ずかしいのは同じだろう。誤魔化されているんだ。
伊香保のやつ、僕には話せない何かをしていたのか?
「あと、もうひとつごめん」
「なに」
「今日帰れなくなっちゃった」
「え、でも、まだ七時だよ」
「道路を外れてからここまで来るのに二時間ちょっと。タクシーを使っても最寄りの駅まで三時間以上はかかっちゃう。それから特急に乗ったとして、新幹線に乗り継ぐ駅まで二時間はかかるから」
だから、つまり深夜十二時前後に新幹線に乗ることになる。残念ながら僕らが住む街まで走る新幹線はそんな時間には出ていない。
「急げばひょっとしたら間に合うかもしれないけど。あたしは無理せずここで一泊した方がいいと思う」
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