第5話 Deus ex machina(デウス・ウキス・マキナ)

 五月の中旬。

 体の中にまで暖かみを伝えてくるような優しくも強い陽の光。

 春から駆け出し夏へと向かう、暑さを孕んだ大気。

 日増しに増えていく、鮮やかな緑と花。

 ゴールデンウィークが過ぎて少し経った頃、伊香保にまたお礼参りの同行を通達された。

 平日朝から来てと言われた。

 制服では大人達に見咎められるから私服持参で途中で着替え、地下鉄の駅で待ち合わせ。

 担任に嘘ついて、学校はサボった。ちょっと罪悪感。

 伊香保は今日もスーツでびしっと決めている。本日は黒のリクルートスーツ、スカートタイプ。靴も黒のパンプス。

 本来なら就職活動とかで着るものだ。膝上まで生足が拝める。しゃがんで物を拾ったら下着が見えそうだった。胸がぺったんこなのがホント残念。

「入学一ヶ月で学校サボることになるとは……。今後できるだけ、こういうのはなしね」

「キミも学校行かなきゃいいのに」

「そういうわけにいくか。伊香保が学校に来ればいいんだ」

 同じ学校の同じクラスだし、そうしたら毎日普通に会える。

 登下校も普通に一緒にして、お昼も一緒に食べて。まだ部活には入ってないから、どこかに一緒に入ってもいいし。そうすれば多少、恋愛感情も湧いてくるはず。

 ん、あれ? 気のせいか、伊香保のやつ、なんだか暗い顔してる。

「嫌。行かない」

「ああ、ごめん」

 まずった。

 でも、なんで行かなくなったんだろう。

 いつか聞ける日が、聞いても良い日が、来るだろうか。

 ところでお礼参りについてだけど、前回はなんか有耶無耶になったが、今日は本当に殴る気のようである。なんとか間に入って事を納められないか悩んだ。

「次の人はどんな人なの」

「白骨リンドウ先生。理学部の教授。還暦越えてるけど、柔道四段で今も現役だから気をつけて。今度こそキミの手が必要かも、よろしくねー」

 はっこつ。随分と珍しい苗字だ。それに教授?

 ああそれでこの駅か。附属の大学の本部キャンパスが近くにある。しかしそんな地位の高い人に本気で暴力を振るうつもりか?

 いや、待って。これ元彼の話だよね。

「あの大学生の彼に騙されてたのが分かって、落ち込んでたときに優しくしてもらって、それで、つい。包容力のあるおじさんにヤラレちゃった」

 一応、言っておくけど。それも犯罪です。淫行です。一体どこでどう知り合ったんだろう。

 それにしてもかなりの年の差だ。ちょっと気になる。

「伊香保は、年上好きなの、かな?」力なく聞いてみた。

「ううん、別にそう言うわけじゃないよ。年下ともつきあったことあるしー。あたしは、別に年とか気にしないの」

 そして何か気づいた様に眉をぴくっとさせて、

「大丈夫。ちゃんと同い年も守備範囲だよ、心配になった? あーはーはー」

 うう、安心半分、立腹半分。

 伊香保は僕のことを彼氏として扱ってはくれている、と信じたい。自分の気持ちは棚に上げているけど。

「ねえねえ、ちょっとこれ見て」

 何の脈絡もなく、いきなりぐいっとスマホを僕の視界に入れてきた。

 動画がスタンバってる。

 見ると、やたら脚の多いイセエビが映っていた。聞くまでもなくサカキだろう。

「右の鋏、見て。それだけ色が違って青いでしょ? 姿形が似たサカキを見つけたから、その鋏を切り取ってこっちにくっ付けてみたの。そしたらちゃんと接合して動いたのよー。すごいでしょー。ムービー撮ったから見て見て」

 なんちゅうこと、すんだよっ!

 動画が開始されると、確かに明らかに違う種類の鋏を付けられたイセエビもどきが器用にそれを動かして餌を喰べていた。

「なんで、こんなことしようと思ったの?」

「え、だってほら、植物とかで接ぎ木ってあるでしょ。カボチャの根にスイカの苗を接いだり。あれと同じ事出来ないかなって」

 植物園芸の技術を動物に応用したのか。よく出来たなあ。よくやろうと思ったなあ。

「サカキだから出来たのね。『表の樹形図』の生物じゃ絶対無理。やってみるものね、あは、あははー」

 これは、どうなんだろう。また無麻酔解剖のときみたく怒った方がいいのかな。でもなあ。

「ほんと、伊香保には驚かされるよ。けど、どうしてわざわざこんな事を」

「あは。命をつなごう、なんて」

「……」

「もしくは命のリレー、命のバトン?」

 にぱーと大きい口を開けて、きれいな歯を見せ、僕に笑顔を向けた。

 そのフレーズは臓器移植のだな……。笑えん。

 ああ、この女は一回怒っただけじゃ全然変わらないんだ。溜息を噛み殺した。

 やって良いことと悪いことの区別が付かないのだろうか。

 そんなふうに落胆する一方で、僕なんかにこんな美人が笑顔を見せてくれることが、

 正直な所、やっぱり嬉しかった。


 大学の雰囲気は、中学や高校とは大分違っていた。

 学校、ていう感じじゃない。

 壁で囲われてはおらず、門は常時開放状態で一般の人も行き来できるようになっている。

 事実、犬の散歩しているおばさんや、ジョギングしているおじさんもいた。

 中の様子はと言うと、例えるなら森林公園の中に、古い雑居ビルや今風のカフェが法則性もなく建っている感じ。

 大学も色々あるらしいが、ここはそんな風だった。

 伊香保が案内する先は、理学部の生物学研究棟。その四階に教授の個人部屋と研究室があるとのこと。

「深海生物の専門家だって言ってた。なかでも海底の熱泉に住む生き物の専門。海外雑誌に論文が何度も掲載されてるそうよー。でも裏の専門はアルボル・ヴァースの種、つまり『サカキ』で、こっちは独自のネットワークを作って仲間同士だけで調査報告書を出し合ってるんだって。それが前にあたしが言ってた『学会』。学会と言っても、一般的な学会とは別物。便宜上そう呼称してるだけで、どっちかって言うと研究会か同好会ね。でも全国で一番大きい規模で調べてるチームなの」

 伊香保はこの『学会』という組織に、サカキの研究成果を送っている。

 彼女はサカキの研究が本当に好きみたいだ。

 学校にも行かず何をしているかと思えば、全国あちこちに出掛けては採集にいそしんでいるらしい。僕が誘われるときは近場だけ。

 家にいるときは飼育状況の観察、綿密なスケッチ、写真と動画撮影、レポート作成、解剖、標本作り。

 単に生物学が好きなら、別に表の樹形図の生き物でもいいはず。何故あんな妖怪みたいな生き物を扱っているのだろう。純粋に好きだからやっているのか、それとも明確な何か目的があってやっているのか。

 大学内を歩いていても研究棟に着くまで誰にも咎められることはなかった。入っておいてなんだが無防備だ。

 あとで伊香保に教えてもらったが、この時期五月はまだまだ新入生でごった返していて、サークル勧誘があちこちで行われているとのこと。

 だからこそこの時期に忍び込んだのだ。多少年齢が低く見える男女がうろついていてもあまり目立たず、人混みに紛れることができる。

 彼女は端からそれを計算していたに違いない。

 到着した研究棟の入り口は全くもって普通の扉で、施錠はされておらず、引いて開く両開き。警備員もいない。存外、こんなもんなのかもしれない。

 建物自体はかなり古いみたいで所々にひびが入り、それがパテで埋めてあった。

 掲示版には何ヶ月も前の張り紙が重ね張りされ、掃除も行き届いておらずほこり臭い。

 風通しが悪く空気もよどんでいた。照明はわざとらしいほど暗い。

 エレベータはなく、上へ行く手段は階段だけ。徒歩で四階まで登るのは骨が折れそうだ。


「どちら様でしょうか。何かご用ですか」

 息をきらせてようやく四階へ上がり、お目当ての人物の部屋を探そうとすると、白衣を着た女性に話しかけられた。否、呼び止められた。

 ここの研究者かも知れない。しかし風体を見てちょっと驚いた。

 髪を顔の左側に覆わせるように垂らした変形ボブカット。

 盛りめのエクステ睫毛、ラメ入りの緑のアイシャドー、やりすぎ気味てらてらグロス、そして挑戦的に前面に飛び出した尖ったバスト。

 抱いていた研究者のイメージとはなんか違う。大分違う。

 うんと、えーっと、AV女優さんみたいだ。

「こちらは関係者以外立ち入り禁止になっております。新入生の方ですか? 残念ながらここは若い方には全く面白味のない所ですよ。研究室(ゼミ)に所属する気があるなら話は別ですけれど」

「あたしたち、白骨教授の知り合いです。昨日電話でアポを取りました。午前中だったらいつでも来ていいと言われたのですが」

 おお、ちゃんとアポ取ってたんだ。それはそうかと納得だけど、てっきり不意打ちするかと思ってたよ。

 おや、でもこの女性、どっかで聞いた声だ。それもわりと最近。どこだったっけ。

「あ、そうだったのですか。失礼しました。私はこの研究室の秘書をしております。少しお待ち頂けますか。確認をして参ります」

 そう言ってその色気過剰の女性は、奥のドアに向かって歩き入っていった。

 秘書さんだったのか。研究室勤めだと秘書さんも白衣を着るんだ。知らなかった。

「なんだが、すんごい人だったね」

「あは……」

 心なし元気なさげな伊香保女史。表情はあまり変わらないが、なんとなくそう見える。あのナイスバディお色気秘書さんの何かが気になるのかな。

 と言うのはちょっと意地悪いか。

「伊香保のほうが、僕にとっては魅力的な女性に見えるよ」

「……」

 振り向きもされなかった。

 ああっ、逆効果だったかも。しまった。こういうときどんな台詞が気が利いていると言えるんだろう。彼氏経験値なしの僕では難しい。

「お待たせしました」

 少ししてまたあの秘書さんが出てきた。

「確かに今日の午前、会う約束をしているとうちの白骨は申しておりました。ただ、今手を付けている仕事に一区切りつくまで待って欲しいとのことです。お飲み物をお出ししますのでお二人ともこちらへどうぞ」

 そのまま広めの部屋に通される。そこはまたしてもサカキの極彩標本だらけだった。それどころか生きてるものも何体か飼育されていた。

 一抱えもある大きな鳥カゴには、五つ眼一本足の焦げたように黒い大きな鳥。

 水が浅く張った小さな水槽には、甲羅から三本の足と二本の尻尾が互い違いに生えている、亀を思わせる何か。

 もう一つの濁りきった水槽にも何か魚状のものが潜んでいるようで、泥水にまぎれて時折灰皿みたいな眼やうちわみたいなヒレが見え隠れしている。

「どうぞお掛けください。コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか」

「え、あ、すいません。じゃあ、紅茶で」

「あたしはコーヒーをください」

「かしこまりました。自分の部屋だとでも思っておくつろぎください」

 ほどなく、秘書さんはカップ2セットと紅茶のティーポット、それにコーヒーサーバーを持ってきた。それを僕らに注いで、「ご自由にお代わりしてください」と言ってくれた。

 別に僕はコーヒーも紅茶も特に好きというわけではないけど、伊香保はどうだろう。

「伊香保は、コーヒー好きなの」

「うん、大好き。家にコーヒーメーカーがあるんだけど、家族の誰より飲んでるよー。豆だってこだわってるの。自分で煎ってミルしたりもする」

 見るとブラックのまま飲んでいる。秘書さんはシロップやミルクも置いていってくれたが手を付けていない。

 僕なんて甘党だからブラックコーヒーなんて未だに無理。ミルクと砂糖は必須。豆の違い、銘柄の違いなんて分かりゃしない。

 それより、実際に生きているサカキはやっぱり興味深い。

 何度か採集につきあわされて見てはいるけれど、やはり見慣れぬ神秘、奇怪生物サカキ。

 何事にも中途半端な僕だが、好奇心をそそられる。

 秘書さんが持ってきた紅茶を飲みながら、行儀悪く席を立ち周囲を観察した。伊香保のほうも同じようにコーヒー片手に部屋を歩き回っている。

 秘書さんはもう部屋から出て行ってしまっていた。大事なサンプルを盗まれたり、とか考えないんだろうか(前の一件で伊香保ならやりかねない)。ほんと、無防備な場所だ。

 十五分くらい経ってからだろうか、部屋の中の様子に見入ってしまっていると、いつの間にか近づいてきた伊香保に肘でどすっと脇腹を軽く小突かれた。

 何すんだよと思い、彼女の方を見る。

 と、指し示すかのようにして、伊香保はくいっと顎を僕の背中側に向けた。その動きにつられて、伊香保の眼鏡に架かったガラスの飾りがはらはらと揺れる。

 示された方向を振り向くと。

 その人はすでに、部屋の端にある仕事机に付いて椅子に腰掛け、泰然と僕たちを見つめていた。


「お久しぶりです。白骨先生」

「お元気でしたか。何年ぶりでしょうね。もうお話する機会はないかと諦めていましたよ」

 一体いつの間にいたのか分からない。僕らの様子を伺がっていた?

 油断していた。先手を打たれてしまった。ここへ一体何をしに来たのか、忘れたのか。ある意味戦いだったはずだ。

 その人は、大柄な老人だった。

 相当な高齢のはずなのに、顔貌は精気に充ち満ちていて、しわが細かく入ってなければ、あるいは髪がすべて真っ白でなければ、とても老人には見えなかった。

 柔道の有段者だという話なのに、表情は好々爺と言った感じの温和で柔らかい印象だった。

 が、よくよく前腕を見てみると僕の脛足くらいの太さがあり、筋肉の中に蛇行した静脈が浮き出ている。白髪に隠れて見えづらいが、耳も柔道経験者によく見られるという有名なカリフラワーの耳だった。

「ずいぶんと綺麗な女性に成長しましたね、タチバナさん」

 タチバナ、さん? いかんいかん、呼び名ひとつで何をそんな苛立つ理由があるか。仮にも仮初め彼氏の僕が。……仮にも仮初めって、なんだそりゃ。

「先生はお変わりなく。今も研究三昧ですか?」

「それが私のライフワークですから。あなたはどうなんです。学校はまだ行く気になれませんか」

「はい」

 短時間、沈黙。

「あ~、ところで、お連れの方を紹介して頂けませんか」

「あ、僕は、」

「今あたしが交際している男の子です。鳴子くんと言います」

 伊香保、自分で名乗れるよっ。

「そうですか。それは良かった。私が言うのは何ですが、やはり男女交際は同年代同士が一番ですからね。大切にしてください。鳴子くんも彼女をよろしくお願いしますよ」

 あなたは元彼でしょう。まるで父親のようなことを言う。でも父親なら「よろしく」とは言わないか。

 これは、きっと皮肉、もしくはいやみ、だ。はるかに年上の社会的地位のある大人から、一介の何の取り柄もない高校生男子に対する。

 横目で伊香保を見たら、何故か口を半開きにして声なく笑っていた。今のやり取りのどこがウけたのだろうか。

 しかしこの女の口は半開きでも、なお大きい。口角が耳まで届きそうだ。変なことに感心してしまった。

「ところで、用件はなんでしょうか。電話では話してくれませんでしたが、まさか彼氏の紹介じゃあないでしょうね」

「サカキの発祥地を教えてください」

 即答。

 伊香保はぴたっと笑顔を止め、聞きたいことをずばっと言い放ち、相手を見据えた。

 いつものおどけた口調ではなく、芯のある澄んだ声色で。

「先生方は、何度聞いても本当に重要な事は教えてくれませんでした。でもそろそろ教えてもらってもいいですよね? これまであたしはずっと独りで採集や記録を続けていたんですよ。先生の作った学会にも何度も成果を送ってます。たいした内容じゃないかもしれませんが、まったく価値がないとは思えません。きちんと評価をして報酬をください」

「なるほど。確かにあなたは色々と貢献してくれています。私と会わなくなってからもね。もちろん気づいていましたよ。しかし重要な情報を簡単にお見せするわけにはいかないんです。こちらにも立場や事情がありますから」

「あたしとのこと、奥さんにばらします。あられもない姿で一緒に写っている写真、携帯であの時に悪ノリで撮った、あの写真を見せます」

「脅す、のですね。そちらにも相応の覚悟が必要ですが」

「あたしは別にかまいません」

 教授は僕のほうへ視線を向けた。

「あなた自身は良くても、今の彼氏君はそんな話、耐えられないでしょう。せっかくの同年代の恋人を失ってしまいますよ」

 まさかと思ったけど、やっぱりそうかあ。そうなんだあ。年が離れすぎているから、それはないかな、と希望を持ってはいたのに。駄目だ。包み隠さず、ショックだ。

「彼なら大丈夫です。前もって言ってますから」

 ね、と言う感じで、金縁のレンズ越しに瞳を向けてくる。

「うん」

 つばを飲み込む感じで、なんとか返事する。

 いえ聞いてません。

「分かりました。分かりました。いいでしょう。あなたには負けました。条件付きでお答えします。一つは、他の人に絶対に言わないこと。もう一つは危険な地域に赴かないこと。厳守してください。これはひいては、あなた自身の安全を守ることにも繋がりますから」


 こんなやりとりがあったのに、白骨先生は意外にも喜々として話し出した。

 好きなことを話すときには饒舌になる。

 この辺は伊香保と同じだ。と言うか僕も似た面はある。種類の違いはあれどオタクに共通する性質なのかも知れない。

「サカキの発祥は世界各地にわたりますが、日本には比較的多いようです。それは日本列島が火山が多いことに関連しています。表の樹形図の生物が母なる海から生まれたのなら、逆の樹形図の生物は父たる山から生まれたとされています。大きな河の上流、その水源がある山奥を探すといいでしょう」

「どこですかそれは。具体的な地名を言ってください」

「わたしは把握していません。それは個々の学会員が知っているのです。私は報告を受け、まとめる係。学会運営者とは言え、所詮デスクワークなんですよ。送られてくるサンプルを調べるのはおまけと言うか、ついでです。学会員個人も本当に重要な情報は自分や信頼出来る仲間だけに留めて、私達幹部にも内緒にしています。事実、学会設立後十年以上経ちますが、発祥地を突き止めたという報告は上がってきていません」

「それはおかしいです」

 僕はちょっと口を挟んでみたくなった。

「知らないのなら、どうして水源のある山だと言えるのですか?」

「サカキが発見、目撃される場所を地図上でチェックすると、明らかに山間部へ行くほど増えていくのです。しかもそこには必ず大きな河川の源流がある。おそらくサカキは山で生まれ、そして河に運ばれ、人の住む場所へ流れてきたのでしょう」

 おや、それはどっかで聞いたような話だ。

 なんだっけ、ほら、あれ……。

 ――どうぶらこっこと、桃が流れてくる。

「そしてその異様さが人々に様々な形で受け入れられてきました。ときには妖怪、ときには神の眷属、そしてまたあるときには」

 伊香保がこの話をどう聞いているのかが気になった。

 彼女の方をちらりと見ると、コーヒーのお代わりを自分で注いで飲んでいる。折角の話、聞いてるのか? 自分から質問しておいて。

 顔は真剣そうに見えはするけど。相変わらずマイペースだ。自分勝手とも言う。

「またあるときには、英雄として」

 伊香保に気を取られてしまい、教授の言葉に若干反応し遅れた。

「う、え? サカキが、英雄? ですか?」

「ああ、そうですよ、鳴子くん。山からやって来た英雄、河から流れて来た英雄の伝説は各地に残っていますよ。コビト伝説は聞いたことないですか。もしくは異類交婚譚、または植物や果物から授かった赤子の話。昔話によく出てきますでしょう。一寸法師や金太郎、安倍晴明、かぐや姫、それに桃太郎。サカキは何も人類と敵対する存在とは限りません」

 またえらく話が突飛になってきた。昔話のヒーローはサカキ関連の方でしたか。


 すうっと音も無く伊香保が立ち上がった。唐突だった。まだ白骨先生の話の途中だ。何か言うのか、いや『あの目的』を果たすのか? ヤるのか? と思いきや、

「ちょっとお手洗い」

 そう言い放って、ドアを開け、出て行った。

 あいつ……。

 部屋の中には白骨教授と僕だけが残された。

 飼育されている鳥サカキが変な鳴き声を上げて、その怪声が静かな部屋に響く。

 泥水槽で水面がばじゃんと跳ねて、ひれだらけの尾が泥と水の合間から垣間見えた。

 ……。

 まったくあの女ぁっ、元彼と今彼を二人きりにするなよな。

「彼女には手を焼いていますか? 勝手なところは変わっていませんね」

 優しげな笑顔を浮かべて、白骨先生は僕に話しかけた。

「まあ、でもああいうのは別にいいんです。そんなことより、もっと別のことの方が問題だと思うんです。その、えーっと、なんと言うか……、僕はあの子の、怖いところが、怖い……んです」

 我ながらボキャブラリー無さ過ぎだ。でも相手には言いたい事が伝わったようだった。

「ひょっとして、生き物に対してひどい扱いをしていたりしますか? ああ、それも変わっていませんね」

「ええ、生きてるまま解剖してましたよ。あなたが教えたんじゃないんですか?」

 あの大学生のほうが教えたのかも知れないが、少しこの人と伊香保について話をしてみたくなった。ので、挑発の意味で突いてみた。

「それはひどい。まさかですよ。私たち研究者は動物実験などで倫理に反することをしているかのような誤解を受けることがありますが、きちんと苦痛を取り除いて実験を行ったという証明が出来なければ研究発表を許可されません。リジェクト(却下)されます。あなた方が思っているよりもずっと厳しいのですよ。彼女には死んだものに限り、解剖したり標本にしたりしていいと言ってあったはずです。その話を聞くと私と一緒にいた時よりも大分ひどくなってますね」

 目の前の初老の男は、視線を下にして憂鬱げな表情を浮かべた。演技のようには見えなかった。

「それについては、僕が言って止めさせました」

「おや、そうですか。それは良かった」

「でも、他にも凄いこと、してると思いますよ」

 今朝、彼女に見せられた動画を思い出す。接ぎ木。命をつなごう、という笑えない冗談。

 大体、無麻酔解剖にしても本当はまだやっているのかも知れないのだ。

「彼女は、ひょっとして善悪の区別が無いのでしょうか」

 以前から彼女について思っていた事を聞いてみた。

 元彼さんに聞くのは気は進まないが、こういう話が出来る相手は限られる。

「善悪の区別、ですか」

「はい、僕には彼女は善悪の区別が付かないように感じます。だって、ああいうことをやって良いかどうかなんて、誰かに言われなくても分かるはずです。そう思われませんか?」

 悔しいが、目の前の人物も含めて元彼達は皆、僕よりも伊香保について詳しい。

 男女交際の相手やその内容についても、あるいは善い悪いの区別がついて無いとも考えられる。それはさすがにつきあっていた当人を相手にして言えないけど。

「君は恋人について結構辛辣な事を言いますね」

「彼女とつきあっていくなら、避けて通れない問題だと思います」

 白骨先生は椅子に深く掛け直して、背もたれごと後ろに仰け反って天井を見上げた。そのまま少し黙ったあと、言葉を吐き出した。

「彼女の場合、区別が付かない、のではなくて、区別を付けないようになったのだと私は思います。善悪の判断を頭から排斥したように見えます。気の毒なことに生まれつき善悪の判断が出来ない人はいますが、私が思うに、彼女の場合は後天的にそうなってしまったのでしょう、きっとね」

 後天的、と言うことは、今までの十五年ちょっとの人生の間に生じたということか。

 成長するにつれて善悪の判断が出来るようになるのは分かる。

 子供の頃に平気で蝶の羽を毟ったことがあっても、成長するにつれてその内そんな残酷な事はしなくなる。本当はやりたいのに我慢するのではなく、してはいけないと理解するようになるはず。

 しかし成長するにつれて逆に善悪の判断を無くすことがあるのだろうか。あるとしたら。

「それは、何かきっかけがあったから、ですか?」

「う~ん、いえ違うでしょうね。少なくとも私は彼女からそんな昔話は聞いたことはありません。多分何も大きなきっかけは無く、少しづつ、他の普通の子達とはずれていって、結果ああなったのだと思いますよ。些細なボタンの掛け違いが、大きな変化の原因になり得るのです。でも善悪の判断を付けないのはある意味研究者としては素晴らしい才能なのですよ。道徳や倫理で枠をはめていたら、視野が狭くなるし、出来ることも出来なくなる。私は彼女はあれでも良いと思っています」

 僕は、良いとは思えない。

「気になるなら、君が少しづつ常識を教えてあげてください。生体解剖をやめさせたように」

「ええ、……そのつもりです」

「しかし、どうしてタチバナさんはずっと研究を続けているのでしょうね。彼女くらいの年頃ならほかにも興味が行きそうなものですが。何か理由でもあるのでしょうか。それともただ単に、楽しい、のですかね」

 そう言えば、研究の明確な目的について伊香保と話したことはない。

 だけど楽しいのは間違いないだろう。表情を作為的に作る癖のある彼女が唯一、サカキに関することをしている時だけ明らかに活き活きとしているのだ。

 目的、と言えば。

 ちょっと気になったので聞いてみた。

「白骨先生のサカキ研究の目的は、何なんですか」

 いきなり不躾に聞いてしまったので答えてくれないかと思った。

案の定、やや困惑した様子を見せたが、それも一瞬で割とすぐ平静な表情を取り戻して答えてくれた。

「不老不死ですよ」

 おお、非現実的で返答に困る。

「サカキの体の構造を調べると、色々と現実に応用が利くのです。上手くすれば本当に不老不死の肉体を手に入れることが可能かも知れません」

「応用って、具体的には何するんですか」

「えっとそうですね、例えばカイコのように体内から糸を出すサカキを使って、新しい繊維を作ったりとか、つる草のようなサカキの根っこから特殊な物質を抽出して新しい薬剤の原料にするとか、いくつもありますよ」

「教えてもらったのに何ですが、そういうのって企業秘密的な、内緒の話なんじゃないんですか」

「もちろん詳しい方法は秘密ですよ。そういうのがある、ということ自体は別に教えてもかまわないんです、例にあげたものはすでに実用化してますから。ほら、彼女が身につけてる服、あれもそうです。生地を十分量織って、何食わぬ顔してスーツ専門店へ持って行けば、サイズに合わせて仕立ててもらえますからね」

 あのスーツ、サカキ製品だったのか。

 出会ったとき、河に入っても水に濡れていなかったのはそういう理由だったからか?

 詳しくは分からないが、きっと水に入っても濡れないような材質をサカキから作り出したのだろう。ひょっとすると靴とかもそうなのかもしれない。

「不老不死と言うと、まさか死なないサカキがいる、ということですか」

「いますね。でもそれを単純に応用するのは極めて難しいです。私が注目しているのは、体の八割以上が鉄と硫黄とケイ素で占められたサカキです。鳴子くん、突然ですがクイズです。生物学で不老不死と言えば何ですか?」

 教室で問題を当てられたときを思い出す。初めてこの人のことを先生っぽく感じた。

 伊香保の元彼ということであまり良い印象は抱いていなかったが、話してみると嫌な印象は受けないし、オールバックの白髪と適度に皺が刻まれた顔は僕から見てもダンディーかつチャーミングだ。

 まずい。この人に好感を抱き始めている。自分、何をしに来たか思い出せ。

 取り敢えず、何だっけか。不老不死を実現させるには。

「難しく考える必要はありません。ほら、SFの世界ではよくありますよね」

「えっと、サイボーグ、ですか?」

「確かにそれは当たりです。でもそれは工学系の科学ですよ。私は生物畑の人間です。同じ理系でも別物ですよ。大体、私に言わせればサイボーグは不老不死とは言い難い。体の一部を機械にしても他の部分は生身のままです。体全部、脳まで含めて機械にしてしまえば不老不死にはなるでしょうが、その代わりアイデンティティーを失ってしまうでしょう。それはもはや生命ではないと私は思います」

 そっか、この人の専門を忘れていた。

「生物学で、不老不死。どうですか、何か思い当たりませんか?」

「えー、……えっとぉ」

 この人の専門は何だったか。

 深海生物。海底の熱泉に住む。

 熱泉って何だ。字面からすると高温の海水が吹き出る場所っぽい。

 そんな所があるとして生き物が住めるのか? いるなら確かに強靱な生命力がありそうだ。あるいは、特異な生態を持っているのかも。何か白骨先生に不老不死の可能性を感じさせるような生物が現実にいたのか?

 う~ん、やっぱり分からない。

「無機生命体、というのを聞いたことないですか?」

「あ、ありますっ」

 それは確かにゲームやアニメで見かけるものだ。僕らは有機物だから、いつか死んで腐ってしまう。無機物で体を作り直せば、理論上永遠に生き続けられる。確かそういう理屈だ。

 つまりこの人は、ある種のサカキから無機生命体を造り出すヒントを見出そうとしているのか。

「でも、それってサイボーグと何が違うんですか」

「全く違いますよ。完全機械化されたサイボーグは唯の物質。無機生命体はあくまで命です。だからエネルギーを外から摂取する、つまり食事をする必要があるし、外見は変わらずとも内面の変化はするし、他の存在との関わりが無ければ生きる屍になってしまう」

「それって、何だかメリットじゃない気もするんですが」

「変化が無いのはつまらないですよ。また孤独は不老不死とは切っても切り離せない命題です。それに食事は何より生きていく楽しみになります。君はまだ若いから他にも楽しいことがたくさんあるのでしょうが、この年になるともう食べること以外に楽しみがないのですよ」

 含蓄のあるお言葉だ。さすが年を取った人間は言うことが違う。

 と、言いたいが、最後の人生の楽しみ云々の件に対しては心の中でだけ突っこんでおこう。

 あんた数年前まで女子中学生とつきあってただろ。


 伊香保が戻ってきた。

「あら、二人で何を話してたの」

「男同士の話」

「え~、なんかいやらしい」

 席について脚を組む。またコーヒーを注いだ。

「あたし抜きの方が何だか楽しそうね」

 実際、白骨先生との会話は結構楽しかった。

 だけど伊香保の顔を見て少し冷静になった。

 そうだ、楽しんでどうする。

 大体僕は会ったばかりの人間と話し込むような性格じゃなかったはずだ。

 間が持たないとか、伊香保のことを聞いておきたいとか、いくつか理由はあったけど、実は白骨先生の持つ雰囲気に絡め取られていたのでは? 相手は自分の数倍も長く生きている人間だ。またしても油断していたと思う。

 そう考えるとさっきまでの会話の内容は、どこまで信用していいのだろうかと疑問に思った。

 この人は僕に色々と話し過ぎじゃないか。さっき伊香保には簡単に情報を教えるわけにはいかないと言っていたくせに。

 老獪な大人との会話。

 普通に話しているように見せてどこかで嘘を混ぜていたり、または情報をわざと中途半端に伝えていたり、あるいは本当に重要なことは秘密のままにしていたりするんじゃないのか。

 考えてみれば伊香保の質問にも明確に答えてはいない。発祥地を知らないと言うのも本当かどうか怪しいもんだ。

 こういう応対は大人の世界なら当たり前なんだろうが、純粋に打ち込んでいる人間にはかなり不愉快だろう。もし彼女がこの人を殴りたいほど憎んでいるのなら、それも原因の一つなのかも知れないと思った。

「あの、白骨先生、冷静に聞いてください」

 またいきなり伊香保が切り出した。

 今度はなんだと見ると、眼が座っている。心なしか眼鏡のレンズまでつり上がっているように見えた。つるに架かった細やかなガラス細工がギラリと光を反射する。

「先ほどは質問に答えて頂きありがとうございました。ついてはもう一つお願いがあります」

「なんなりと」

「一発ヤらしてください」

「……」

 いかほぉ、言葉を、選んでくれ。

「殴らせて欲しいんです。顔を」

 先生はさすがに鼻白んだ様子を見せていた。同情します。

 しかし一回小さく溜息を吐いたあと、

「仕方ありませんね。恨まれても仕方のないことをしましたから。分かりました。どうぞお好きに」

 返事を聞くや否や、伊香保はつかつかとパンプスを鳴らして彼の元へ近づき、拳を握りしめて大きく振り上げた。

 先生は甘んじて受ける様子で、身じろぎせず、椅子に座ったまま背筋を伸ばして伊香保を見上げた。

 安心した。それなら僕が後ろから羽交い締めにしなくて済む。柔道の有段者に組み付くとかどだい無理な話だし。

 しかしそれならそれで、このまま見ているわけにはいかない。

「待って伊香保! 相手は仮にもじいさんだぞっ。殴るのは駄目だっ」

 え? と、とても意外そうな顔をして彼女は僕の方を見た。本当を言うと無表情に近かったが、わずかに驚きの感情が滲み出ていた。

「キミねー、この人の外見や話し方に騙されちゃ駄目」

 そう言って、振り上げていないもう一方の手で、スーツの上着のポケットから何かを取り出し、白骨教授の机の上にぽんと投げ出した。

 ちりん、くるん、ぱたたん。

 指輪だ。

「この大先生はねー、結婚しているくせに私にプロポーズしたのよ。あたしが十六になって結婚出来るようになったら奥さんと離婚するって言って。最低でしょー。昼ドラレベルよ。でもあたしは結構嬉しかったんだよ。だから裏切られたときの怒りも大きいの」

 前言撤回。この初老の男には同情はしません。二度としない。絶対しない。

 さらに前言撤回その二。

 研究がどうとか、重要なことを秘密にされたとか、彼女の怒りはそっちの方面のことじゃなかった。僕の見当違いだった。彼女の怒っている理由は、普段の様子とは違いとても人間くさい。思い出せば一人目もそうだった。

 弄ばれ、ないがしろにされた。

 彼女、伊香保タチバナは、『早く大人になりたい病』。二人ともそこにつけ込んだんだ。

「伊香保、分かった。でもせめてビンタにしてやってくれ」

「うん」

 彼女は僕を見て、にぱっと微笑んだ。振り上げた手の指を、握りしめた状態からすっと扇の様に開く。

 そして僕から目線を切った瞬間、手を教授目がけて薙ぎ下ろした。

 ごつっ! と平手とは思えない固い音。

 うおお、もう感心するしかない。手を下ろす過程でまたグーに握り直していた。

「あははー、キミの言葉を無視するつもりはなかったんだけど、やっぱり許せなかったの。ごめんねー」

 ああ、もう、なんて笑顔。

 ただでさえ大きな口を全開にし、奥歯まで見せて、あーはーはー。

 切れ長の三日月お目々を、限界まで細めて。

「う、…ぐぅ…」

 教授は視界に星が飛んでいるのか、頭と眼を片手で押さえて呻いていた。

「白骨先生、すっきりしました。二人の思い出は大事にとっておきますね。では今日はこれで失礼します」

 そして伊香保は僕の手を引っ張って部屋を出たのだった。

 ……捨て台詞の中に脅迫とも取れる言葉があったのが彼女らしい。


「あら、もうお帰りですか」

 帰り。前に立つ女性から話しかけられた。

 あの色気むんむん秘書さんだ。

 狭い廊下を、まるで塞ぐようにして立っている。

「気は済みましたか?」

「え?」

「殴ったりしました?」

「へ?」

 思わず伊香保の方へ視線を動かしてしまった。さすがに今回は前に立たれているので、先にすたすた帰ることは出来ないでいる。ただ、すごくヤバそうな表情だ。

 今日の伊香保は喜怒哀楽が比較的豊富だな。そんなこと喜んでる場合じゃない。

 僕もこの状況はちょっとまずいと思っている。警察呼ばれるかと思って不安を掻き立てられた。すると予想外の答えが返ってきた。

「いいんですよ。あの人、女の敵ですから。教授個人の部屋とは言え仮にも仕事場なのに、女の人を取っ替え引っ替え連れ込んで。修羅場もこれまで何度もあったそうですよ。別に気にせずそのままお帰りください」

「あ、ど、どうも」

「コーヒー、ご馳走様でした」

 今後どうなるか分からないけど、一応今日は家へ帰れそうだ。伊香保は本当、一体僕を何に巻き込むつもりだ。

「これからお二人はどうされるんですか。おデートですか」

「え、ああ、まあ」

 いいから早くこの建物から出たい。

「やっぱり生き物が好きなんですか。だとしたら、」

 帰っていいと言っているのに、

 どうしてこの秘書さんは話しかけ続けるんだろう。

「動物園など、どうですか? 近場にありますよ」

 おや、う~ん。

「もしくは、植物園など?」

 伊香保が一歩、後ろに下がった。

「近場の動物園と併設されてますから、同時に行けますよ。でなければちょっと遠いですけれど、水族館、などなどー?」

 ……こ、こんなやり取り、ごく最近した気がする。

「とかとかー?」

 コンマ数秒、目眩で視界が歪んだ。なんだ、変な秘書さん。語尾も。

「あたし達のことはお構いなく」

 伊香保が僕の背中側から答えた。僕を盾にしてるような形。

 別にいいけどね。そういう役回りも兼ねてるから。でも、僕、彼女を守れるか?

 少しの間、お互い無言のまま正面で対峙した。

「ああ、あらそう。ごめんなさい」

 くるり。

 秘書さんは背を向け、来た方向へとまた歩いていった。そして僕たちの視界から消えた。肩すかしだったが、心底ほっとした。


「ねえキミ、お昼どっか食べに行かない?」

「よくそんな気になれるね」

 すごい胆力してる。明らかに異様な事態だったはずなのに。

 サカキで非日常に慣れてるのか?

 僕の言葉はスルーして彼女は続けた。

「この大学の学食、結構美味しいのよ。しかも安くて量が多くてお得。一般の人も入れるから大丈夫よー」

 てっきり、早く大人になりたい病の伊香保なら、社会人が入るようなお店でお高いランチでも食べるかと思った。あるいは僕に合わせてくれたのかも。

「分かった。食べよう。今度は伊香保の好きな食べ物、教えてもらおうかな」

「さっきのあれは、またあとで考えましょ。一緒に食事するの久しぶりだし、ひとまず問題は後回しで。ちなみにあたしの好きな食べ物は明太子フランス」

「大学の学食にあるかなぁ……」

 大きな口で頬張るのが目に浮かぶようだ。


 後になって今回の傷害事件(と言って差し支えない)に関して、被害届けが出されなかったのは幸いだった。

 一応、あの人の心にも罪悪感が残っていたに違いない。

 僕らに言う資格はないかもしれないが、善悪の判断が付く人だったのだろう。

 ただ欲望に忠実な人だったのだ。

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