第3話 な起こし奉りそ。彼の人は寝入り給ひにけり。(なおこしたてまつりそ。かのひとはねいりたまいにけり。)
「一人目は、大学の教育学部四年生、嬉野ナツメ。すぐ近くに下宿してるから時間はかからないと思うよー。別に腕力は強くないから、暴れられても多分大丈夫」
放課後、午後六時頃に彼女に連れられ、教育学部の学部棟のすぐ裏にある学生用アパートに向かった。
うちの高校は大学の教育学部附属で、学部棟からはほんのわずかしか離れていない。問題なく歩いて行ける距離だ。
ちなみにこっちは教育実習のための別館で、本館のほうはほかの学部と併せて本部キャンパスにある。
僕は学校帰りで制服のままだったが、伊香保は例のごとくスーツ姿。
これが私服だというから驚きだ。
それに多分、あれは普通に売ってる服じゃない。初めて会った日、水から上がっても濡れた形跡が見られなかった。何かしら秘密の仕様があるのだと思う。
本日のスーツは淡い藍色で決めている。靴の方は純白のミュール。化粧は朱色の口紅を、目元には軽くアイライン、眉はぴしっと長く払うように描いてる。派手だ。つい数ヶ月前まで女子中学生だったとはとても思えない。
なんでそんな格好をするのか前に一度聞いてみたが、答えは、
「早く大人になりたいから」
だった。形から入るタイプの様だ。
確かに、彼女は遠目に見れば、ちょっと背の低い成人女性に見えなくもない(残念ながら胸は平らだが)。
そして、そんな女性と並んで歩いている男子高校生というのは、一体周囲にどんな風に見られるのだろう。
大人になりたいのは分かるけど、学校に来ないのはひょっとして子供扱いされたくないからなのか。思い切って理由を聞いたみたら、こんな返事が返ってきた。
「え、だってあたし、中二から学校行ってないよー」
大人云々とは全然関係なかった。
しかし驚きの返答内容。学校へ行かない理由が、もともと行っていないから、とは。
答えになってない。
「……よく高校受かったね、て言うか受験できたね」
「受験自体は問題なかったの。それにここの高校、試験に名前書けば通るのよ、きっと。だってあたし理数系しか答案埋めてないから。ほかの科目は一割か二割くらい」
「それは、逆にすごいよ。よほど理数系が良い点だったんじゃないかな。さすがに名前書くだけでは通らないでしょ。うち、教育学部附属だし。でもまあ、うん、なるほど。伊香保はいわゆる理系女子なんだ」
「うん、そ。そーね。でも理数系って言っても数学や物理より、『生物』が好きかな? そのほかの教科は、もう全然っ。歴史嫌い、地理嫌い、英語嫌い、現国とか古典とか全く興味湧かない。あは。あはは」
なるほど、確かに。
彼女と一緒に行動したのはほとんど(正体不明の)生物の採集作業だし、それに彼女は様々な動植物の生態に驚くほど詳しい。サカキに限らず。
逆に、興味のない分野にはこれっぽっちも知ろうとしない。僕の趣味の話なぞ、生返事しながら右の耳から左の耳に聞き流している。
しかし……「生物が好き」、という言葉に、僕は密かに鳥肌が立った。
彼女の言う「生物が好き」とは、もちろん言葉通りの意味ではない。それは生物をテーマとした学問が好きということであって、森羅万象生きとし生けるものすべてに愛着を感じるということではないのだ。
つきあいだして一週間くらい経った頃、こんなことがあった。
採集したサカキの生物は、その後どうするのかというと、彼女の手によって徹底的に調べられる。可能なものは飼育して生態を調べたり、写真や動画を撮影したり、姿形を入念に観察してスケッチをしたり。
そして、解剖したり。
ある日伊香保の生活している借家に招かれ、女の子の部屋だあ、と思う間もなく、眼を奪われる数々の異様品たちに絶句していると、彼女は解剖の手伝いをするよう要求してきた。
一部始終をデジカメを使って動画を撮影し、切り出した内臓などを保存液に漬けるという作業をして欲しいとのこと。
一応快諾する。吐かないか心配だった。
が、いざ始まるとそんな事はどうでもよくなるような事態が生じた。
解剖の対象は、両手で一抱えもあるほどの大きさの、三つ眼で鱗が生えたネズミっぽいやつだった。それをピンできっちり止めて動けなくした後、いきなりメスで腹部を正中縦切開し始めたのだ。
生きたまま。
ぴぁ~とか、ぎぃいいっとか、ネズミもどきが人間の可聴範囲を行き来する強烈に不快な悲鳴を上げて悶え苦しむのを見て、さすがに僕は声を上げていた。
「何やってるの一体っ!」
ん、と顔を向けて、睫毛をぱたぱたさせながら彼女は言った。
「えっと、だから解剖だけど」
「それはさっき聞いたよ。そうじゃないだろ。い、いくらなんでも生きたままなんて、あんまりだ」
「今日はたまたま。いつも飼って観察してー、死んだ後に解剖するんだけど、生きてる状態じゃないと、どの器官がどういう機能を果たしているか分からないじゃない? でもすごい暴れるから、けっこう危ないのよねー。今日キミに来てもらったのは助手をして欲しいだけじゃなくて、万が一生きてるサカキが何か反撃してきたら助けてもらうのも理由なの」
「僕が呼ばれた理由はこの際別にいいよ。それより、だからって、だからって、生きてるのをそのまま解剖! 信じられない!」
「いいじゃない。必要なことなの。詳しい説明は省くけど、これは人間にとっても重要なことなの。う~ん、多分、ね」
表情は、変わらない。普通の顔。真面目な顔つきとはまた違う。無味な表情。
「あ、さてはキミ。かわいそうとか思ってるー?」
「そうだよ。悪いかな」
「あのね、あたしが捕まえた生き物は、あたしが命の裁量権を握ってるの。だからどう扱おうと問題ないはずよ」
「……」
「命は平等じゃないわよ、ね? 人間同士だってそうだし、動物植物昆虫なら尚更。サカキだったら当然のことよー。えいっ」
話しながら、もう一度メスを入れ直し、再び強烈な悲鳴が発せられた。
とても正視できない。悲鳴音波による脳打撃も瞬時に臨界点に達する。マンドラコラの根っこが引き抜かれる時に出すという叫びもこんな感じなんだろうか。
「やめろっ、やめろぁおぁっ! 命が平等だなんて僕だって思ってない! 人と虫が等価値だなんて思っていない! だからと言って虫を踏みにじって良いはずないだろっ、一寸の虫にも五分の魂って言うだろっ。命は平等なんかじゃなくて、平等に扱うべきなんだ!」
このときは興奮してしまって、言ったことが正しかったかどうかは今でも分からない。
とにかくやめさせたくて言った言葉だった。
すると伊香保は僕の言葉を聞くや、取り敢えず納得してくれたのか、そのネズミモドキの首をすぱんと切断した。最低限それ以上苦しむことはないようにしたわけだ。
彼女なりの安楽死、ということだったんだろう。
そして、それからというもの、生体解剖の際にはなにやら麻酔らしき処置をしてから行うことにしたようだ。彼女が言うには麻酔に使う薬はかなり高価なものらしい。一回一回こんなことしてたらお金がいくらあっても足りない、とかぼやいていた。
でも、僕には、彼女が生物を生きたままで、覚醒したままで解剖をしていたのは、別に薬が高価だとかいう金銭面の話なのではなく、彼女自身の人間性に原因があるような気がして心底ゾッとしたのだった。
理系女子。略してリケジョ。
理数学系の分野に対して、変態的な程の並々ならぬ関心と知識を持つ女子の総称、だと僕は理解している。
世間的なイメージでは、合理的で理知的で感情には左右されにくい、と。
僕のようにゲームやアニメが好きな人間はオタクと言われるが、こういうのも立派なオタクだろう。ちなみに必須ではないが、理系女子に眼鏡はとっても大事な要素。
そういう観点では間違いなく伊香保は理系女子なんだろうなあ。ただ、多くの場合は物理や数学、工学、パソコンなんかを専門にしている場合が多いんじゃないだろうか。彼女のように生物系の理系女子は、比較的珍しいと思う。
年頃の女子が、自室で得体の知れない生き物を解剖。
命の大切さ、とかはまず間違いなく軽視。
自分の興味の向く分野以外は、存在しないも同然の扱い。
そんな伊香保タチバナが元彼に復讐に行くのは、色々とかみ合わない気がした。違和感を感じた。
だって、あまりにも人間くさいから。たとえ行動は突飛でも。
五月に入ってから日は延びて少し暑くなったけれど、それも夕方ともなればまだ肌寒くて、西に沈む日が人物や物体から影を長く長く、引きずり出していた。
それを見て僕はなんだかおぞましい不安を掻きたてられる。これからすることを考えていれば当然だった。
大学生の男性に暴行を働きに行く。
伊香保は大丈夫とか言ったが……、無事には済むまい。
彼女に連れられて着いたところは、横につぶして縦に引っ張ったような、かなり無理な形をしたアパートだった。ここに1Kの部屋が十個以上入っているらしい。
アパートの向かいには定食屋とゲーセン、隣にはチェーンの蕎麦屋。
まさに学生向けの立地。
エントランスはこの上なくシンプルで、郵便受けとロープで囲った自転車置き場しかない。
管理人さんなのか(にしては妙に若い)、スカーフで頭をほっかむりにした女性がチリトリとホウキでゴミを掃除していた。ゴミと言うより細かく散らかった砂を掃いていた。
管理人さん(?)の服装は色合いこそ地味だけど、長袖の袖口やスカートに小さくフリルが施してあって愛らしい。その上から掃除用のエプロンをかけて、さながら一九世紀くらいのお屋敷女中さんみたいだった。もしくは新幹線の売り子さんか。
飛び出るようなバストに思わず目がいきそうになるが、伊香保の手前我慢した。
それより不審に思われないかが心配だった。
僕たちは軽くその人に会釈して通り過ぎ、エレベーターに乗る。扉が閉まってから伊香保が言った。
「案外すんなり入れたでしょ。ね、呼び止められるかと思った?」
「どきどきしたよ。何か聞かれたときの言い訳、あらかじめ考えとけば良かった」
伊香保はやや前屈みになり、顔を近づけて話しかけてくる。
すうっといい匂い。
あ、この女、香水まで付けてるのか。見た目に反して和を感じさせる抹茶のような香り。きつくない程度に抑えていて、近づくとほのかに香る。
背は僕の方が若干高いので、顔を近づけると彼女の目線は自然と下から睨めあげる形になる。眼鏡のフレームの上縁越しに視線が合い、僕は恥ずかしくなってすぐ目を逸らしてしまった。
この女は決してタイプじゃない、タイプじゃないけど、美人なんだ。本当に僕は綺麗人には弱い。
近い距離で見ると伊香保の魅力もまた違ってくる。
ライトブラウンに染めた髪の一本一本が艶やかに光っている。
首を伸ばして惜しげも無く見せるうなじが色っぽく、またそこに細かく生える産毛が何とも言えない。
長い睫毛に囲まれた切れ長の大きな瞳は、尖った顔立ちが恐い印象を与えるなかで一種癒やしのような効果を持って見える。
頬に塗った薄いファンデ、大きな口を縁取る口紅、普段ならむしろどうかと思うお化粧がこの距離では逆に蠱惑的に映る。
生の女性を、感じさせる。
美人は三日で飽きると言うけど、一ヶ月見ていてもまだ僕には慣れない。美しさを心の中で堪能しつつも平静でいられる耐性力は、いつ獲得出来るのだろう。
「ところでその元彼さん、どうやって呼び出すの。普通に部屋に行って会ってくれる?」
「会ってくれないと思う。でも、前にもらった合い鍵があるから大丈夫」
鍵があるから、大丈夫?
「けちな奴だったから多分鍵変えてないと思うのよねー。アパートって鍵を変えるとなると、管理会社にお金取られちゃうし」
どうやら相手の意向は関係なく、強引に会いに行くつもりのようだ。
三〇三号室。伊香保はよどみない動きで鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。推察どおり、鍵はするっと入ってくるんと回った。かちゃりと音が鳴って鍵が開く。
「この時間はいると思うんだけど。ねえーっ、あたしだけど、おひさしぶりーっ」
返事はない。と言うか、気配が感じられない。電気もついてない。だとすると今日は留守ということか。彼女は平気で入って行ってるけど、ちゅうか土足。
「あの、一緒に来てくれないと」
「ああ、ごめん」
僕は靴を脱いで上がった。そうそう、僕は曲がりなりにも今彼でありボディーガード役でもあったんだった(これからすることについては共犯とも言える)。
「ゴールデンウィークの中日だし、どこか出かけてるんじゃないかな」
「うん、ほんと言うと留守を期待してたの」
はなっから無断侵入する気だったんだな。いると思うとか言っといて。
部屋の中はいかにも男の独り暮らしって感じ……じゃなかった。
と言うより、人が毎日の生活をする場所という様子じゃ全然なかった。
部屋中くまなくあちこちに、ビン詰めの標本が置いてあったのだ。
下駄箱の上とか風呂場とか本棚の中とかテレビ台の上とか。
クローゼットの中なんていっぱいあり過ぎて、扉が閉まりきらずビンが中からこぼれ落ちそうだった。なんとか扉で支えてバランスを取っている。ベッドの下を覗き込むとそこにもびっしり敷き詰めてあった。大小いくつもいくつもいくつも。まるで理科室だった。
ここの住人はこんな部屋で生活していたのか?
けどこれ、ごく最近にも見たことあるぞ。
「この標本、伊香保の部屋にあるのと同じものだよね」
「うん、趣味、一緒だったから」
大小の瓶の中には、サカキが一体づつ詰め込まれていた。
無数のサカキの標本に囲まれて、僕はしばし呆然とした。
一口にサカキと言っても、一応それぞれに正式名称があるらしい。発見者が和名と学名を付ける権利があると言う。
伊香保にいくつか教えてもらったがたくさんあり過ぎて憶えてられないので、僕は似ている『表の樹形図』の生物に置き換えて表現することにしている。
それで言うとこの部屋にあるものは、だいたいこんな感じになる。
胸びれが無数に生えた細長い魚、五本足の大きなトンボ、三本刃のハサミを持つ甲殻類、頭が五つ生えたなめし革のようなヘビ、三ツ目の羽根がない黄色い小鳥、緊密な間隔で枝分かれを繰り返すシダ植物。
ほかにも僕が以前に見たことがあるようなやつも何体かいた。
それらが美しい瓶詰め標本と化している。
特殊な薬品で筋肉や内臓、骨格などを色分けして染色され作られたものだ。筋肉は赤系、内臓は緑系、骨格は青系といった具合に染まり、重なり合う所々で色が混ざって総体的に極彩色になっている。
光が当たると淡く透き通り、遠目には一見荘厳なステンドクラスみたいに見えるのだが。
近くに寄って凝視すると改めてそれが生物の標本だと再認識出来て、軽くめまいを覚える。
未だ見慣れぬ奇怪生物の標本群。
しかし標本ってよく作るよな。こんな物を作る人はどうかしてるんじゃないだろうか。
死体を美しく着飾って化粧をほどこして、それを保存して部屋に置く。……こわいこわい。うちの彼女さんもやってるけど。
伊香保はビン詰めを丁寧にどかしながら本棚にあるファイルを調べていた。いつのまにかビニ手袋をしている。
特にすることがなくて、何となく冷蔵庫を開けてみたら、中には標本にする準備段階のサカキが処理の途中のまま安置してあった。牛乳と卵も入ってたのには閉口。食べ物と一緒に入れるなよな。
「なんかこれだけ標本が置いてあると、それだけが楽しみっていう感じだね。ほかに趣味はなかったのかな」
本棚もこれじゃあ奥の本が取れないし、テレビも後ろ向いちゃって見ていた形跡がないし。靴も服もほとんどない。
「趣味ねー、そうね、確かにほかの趣味はないみたいだった」
「それってなんか寂しいというか、つまんなくない?」
「キミは多趣味だもんねー」
お、僕の趣味のこと、覚えていてくれたのか。意外だな。話、聞いてないかと思ってたけど。
「多趣味と言うのは聞こえが良すぎるよ。僕は中途半端なだけ」
そう、僕は中途半端だ。
あれをやっては飽きてしまい、これをやっては壁にぶつかり諦める。そんなことを小さい頃からずっと繰り返してきて何もモノになってない。
広いけど、浅い。
親にはこれも勉強だとかなんとか言って、何かに夢中になるたびに小遣いを追加注文しまくっていた。今じゃさすがに呆れられている。
「えー、でも博識だと思うよ。時々感心するもん。あたしとは正反対ねー。勉強も趣味も興味があるものにしか興味ないの。みんなが普通に知ってること、聞いたこともなかったりするんだから。専門馬鹿の常識知らずね」
返事をしつつも調べ物の手は止めない。今度はノートパソコンを起動させた。暗証番号は当然のように知っており、簡単に標準画面に到達する。そして何かパソコン内で検索をかけて探しているようだ。
専門馬鹿。常識知らず。
確かに伊香保に当てはまる。自己分析、正解。
ほかの理系女子の名誉の為に宣言しなければいけないが、皆が皆そういうわけではないだろう。そういう人は多そうだが。彼女の場合は度を越している。
いや、分からないとか知らないとかじゃなく、意図的に無視しているような気がする。
「キミ、今何に嵌まってるの? お菓子作り? プログラミング?」
「それはもうやってない。お菓子作りはチーズケーキがどうしても納得いくようにうまく焼けなくて。C言語はポインタとかいうのが理解出来なくて挫折した。またいつか再開しようとは思うけど、今はちょっと休憩中ということで」
「で、今は?」
「とあるオンラインゲームで全武器・防具の作成を目指してる。レア素材が集まらなくて討伐リレーを繰り返す日々」
「ふ~ん。あたしはゲームをやらないんだけど、それがかなり大変な作業だというのは何となく分かるよ」
「そのゲームに八〇〇時間くらい費やした」
「ええっ、それすごいっ。是非とも頑張って目標を達成してっ!」
だめなんだ。実を言うともう、飽きてきてる。本当はここしばらくゲーム機の電源さえ入れていない。
一つのことに打ち込めるほうが凄いんだ。凄まじい。元彼のことをつまんないとか言ったけど、本音を言えば一つの趣味に没頭していたことを凄いと思うし、うらやましいとさえ思う。
そしてそれは伊香保にも同様。
こんな怖い美人に付いていっているのは、そんなところが魅力的で、尊敬出来るから。
……あと彼女がいるというのが自尊心を支えてくれるから。
我ながら色々と情けないなあ。
暗くなった。転換しよう。
「ね、あの、伊香保は標本作りって誰に習ったの?」
すると唇を真一文字に結んで、そのあと眼鏡越しに視線を合わせて言った。
「んー、あー、実は彼に、最初教えてもらったの」
それは、うん、まあ、つきあってるうちに、とかそういうことなんだろうなあ。聞かないほうが良かったかな。
でもこうなると、もっと突っ込んで聞きたいような聞きたくないような。マナー的に聞くべきじゃないんだろうなあ。う~ん、えい、聞いちゃえ。
「元彼さんとは、どうやって知り合ったの? やっぱりサカキつながり?」
横顔を見る限り、特に聞かれて嫌そうな様子は感じられない。
大体、彼女はあまり感情を表出しない。顔のパーツの配置が変化することはあるが、ベースは真顔か作り笑顔か、そのどちらかだ。この辺もハ虫類ぽい。
「以前ちょっとイベントで話しかけられて、サカキのこと教えてもらったの。つきあうようになったのはそれで。彼があたしの初めての彼氏。つまり一人目ね」
「あう」
一体何のイベントだろう。
しかし、中学生とつきあう大学生。最初聞いたときから思っていたが倫理的にどうなんだ?
「初対面はあたしが小五、彼が高二だった」
!! 小学生と付き合う高校生! アウトだアウト。
倫理がどうとかのレベルじゃねえっ、犯罪だ淫行だ。
僕の心の中を見透かしたかのように伊香保はあははーと笑った。
「大丈夫よ。年下のほうは捕まらないから」
計算尽く? 同級生で良かった。
「ああ、でも色々、本当に色々教えてもらったわー」
その台詞の言外の意味を妄想してしまい。意気消沈した。
やっぱ聞くんじゃなかった。嫌な想像しか出来ない。でも、若干言葉に怒気が含まれていたような気がしたけど、気のせいかな。
彼女が怒るところはまだ見たことない。怒るような性格には思えないけれども。
不意に、すたすた部屋を歩き回っていた彼女が立ち止まった。何かと思って見ると、足下にある脱ぎっぱなしの衣服をじぃーっと見下ろしている。
僕もさっきからそれには気づいていた。
サカキの美麗標本が並ぶ異様な光景ながらも、それなりにきちんと整理整頓された部屋の中で、床に落ちたままの服は奇妙な雰囲気を放っていた。中に何か入っているのか、Tシャツもジーパンもうずたかく内側から膨らんでいる。
しばらく考え込むように見ていた彼女は、突然その服を足で踏みつけ始めた。
がしゅっがしゅっ、と音がして、服の中から白い砂のような物が飛び出て、辺りに薄い白煙を上げながら散らばった。
元彼が憎いから服も踏んでるんだろうか。にしても砂はなんだ?
ひとしきり踏んだ後、伊香保は本棚から抜き取ったファイルやノートを自分の鞄に入れた。さらにパソコンのそばに置いてあったフラッシュメモリをひっつかんでこれも入れる。
「ありがと。これで今日はおしまいにしよ。一応気が済んだから。また次もよろしくね」
「こら。泥棒だよ。元に戻せ」
「いいの。これはー、うん、彼と二人で作った物だから。あたしの物でもあるの」
「えー……本当、なんだろうね」
「うん」
疑っては、彼氏失格。いや、う~ん。やっぱり不安だ。信じて大丈夫かな。
「あ、でもお礼参りは?」
僕は別に殴りたいわけじゃないので帰ると聞いて安心したのだけど、気になるので聞いてみた。また来るとか言われると困る。
すると伊香保は床に落ちた砂利だらけになっている服を指差しながら、
「これ、多分彼の成れの果てよ。もう死んじゃってたのね。死んだんならしょうがないから、殴る代わりに踏んづけてやった」
と、語った。
横顔を見る。いつもの通りのすまし顔。
聞き間違いじゃなければ、人が死んだ話のはず、だが。
僕は彼女の指の先を追って、その砕けた白い砂を見た。理解したい。彼女が言ったことを理解したい。でも分からないものは分からない。
「この砂利が、人間の死体だってぇ?」
「うん。前にもこういうのを見たことあるの。これ間違いなく彼が着ていた服だと思う。だからきっと、その、中に入ってた砂は、そういうことよ」
「もし、それが本当の本当に人間のご遺体だとして、だとしたらそれを踏むなんてちょっとどうかと思うよ」
「別にいいのよ。だってひどいんだよ、あの人。騙してたの、あたしのこと。恋人の振りして。信用させて。バージンも貰っといてさー。結局ほかの女の人とつきあってたの。あたしは遊び相手。だから別れたの。ほかにも腹の立つこと、いーっぱいあった。例えば、標本作って『学会』に送れば買い取ってくれるって言うから、あたしがんばって教えられた通り作ってたの。それで送るのはいつも彼にまかせてたのね。別れてから分かったことだけど、あの男、買い取り金額の三分の一くらいしかあたしに渡してなくて、残りは着服してたのよ。ほかにもサカキについて重要な事は何ひとつ教えてくれなくて。って、あれ? どうしたの?」
さらっと聞き捨てならんこと口走りおったな小娘。でもここは会話の続きを促すことで逃避しよう。
「重要な事って、何なの」
「あ、うん。『学会』に協力して認められると、データベースの閲覧が許可されるの。正会員になるチャンスも出てくるし。こういうのは時にお金よりも貴重なのよ」
お金よりも情報が大事、なるほど。中学でロストバージン、なるほど。……まさか小学生の時じゃないよね。
僕がどんな顔してるか、見ている彼女しか分からないけど、うまくポーカーフェイスできてるといいな。どうしたのって聞かれた時点で失敗してるのが分かるけど。
「もういいから出ましょ。下手すると警察沙汰になっちゃう。どこ触ったか覚えてる? ハンカチとかで指紋拭いといた方がいいよねー」
だから、僕を、何に巻き込むつもりだ。
取り敢えず、ハンカチやティッシュで触れた場所を丁寧に拭いて、足跡も分からないように誤魔化して、靴の裏の汚れも拭き取った。
そうやってできる限り証拠隠滅して、鍵かけてそっと部屋を出た。
もし本当にこの部屋の住人が亡くなっているなら、そのうち大事になるだろう。あれが死体とは普通思わないだろうから、行方不明として家族から捜索願いが出されるかもしれない。
「ちょっと、すみません」
帰り。
アパート入り口の郵便受けが並んでいる場所で、不意に後ろから呼び止められた。
どきっとして振り向くと、行きに見かけたお屋敷女中風(または売り子風)の女性が立っていた。登り階段に続く鉄製の防火扉の裏から頭を出してこちらを見ている。
ほんのりと笑顔。だが扉で顔の左側が隠れて見えない。
「こちらへは、どういった御用件でしょうか」
即座に嫌な感覚を覚えて伊香保の方を見たら、自分だけすたすたと歩いて、もうアパートの敷地から出ようとしていた。ずるい。
そう、この女はこういう所がある。自分さえ良ければ、的な。
しかしそれは取りも直さず、今の状況がまずいと思った僕の直感を肯定するものだ。
早く、逃げよう。
「あ、いえ、別に。友達に会いに来ただけですよ。留守でしたけど」
「聞きたいことがあった、とか」
「え?」
「もしくは、捜し物があった、とかとか?」
「へ?」
なに言ってんだろ、この人。それに、とかとか、って。
質問をしながらも、この女性はまだドアから半身で覗き見る体勢のままだった。距離を保って観察されている様な気がする。家政婦は見たっ、て感じ。
変な人。語尾も。
「単に遊びに来ただけです」
「あら、そうですか」
「すいません。連れを待たしてるんで、失礼します」
踵を返して伊香保を追いかけた。
振り返らず、小走りで立ち去った。少し足がもつれた。
ふと、左右奇数本の脚を持つサカキがどうやって脚を絡まらせずに歩いているのか気になった。ムカデの歩き方の逸話じゃあるまいし。
僕の二本の足が互いに動きを邪魔し合ったのは、もちろん話しかけられて動揺したからだ。
先に帰られてブルーだったが、伊香保はアパートの玄関から少し離れた交差点に立って待っていてくれた。
「あははー、置いてってごめんね」
「うん、それはまあいいよ。それよりホントもう帰ろう」
「あの人、あたし達のこと不審者だと思ったかな」
「そうかも。でもさっきの部屋と結びつけることはないと思うよ。多分」
後ろを恐る恐る振り返ったが、追って来る様子はない。
「まあ、これで一人目終了ねー。じゃ、またお願いするから」
また。
また、ね。うああ。
なんか蟻地獄が脳内に浮かぶけど、嫌な予感当たりませんように。
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