第2話 明星の先に
パタパタと慌ただしく駆け回る音が響く。気を緩めれば再度微睡みに落ちそうになる意識を、軽く振って覚ました。
少量毛束を掬い取り、結んでから輪の形状を整える。ピョンと跳ねる部分は以前ほどの髪の長さでは無いから仕方ないだろう。あの時ならこの跳ねは出来なかっただろうか?だが、これは“ぼく”だから許されることだと何度も言い訳の言葉を重ねてきた。幾重にもなる言い訳の数々は後どのくらい重ねれば、完全にわたしを覆い隠してくれるのだろう。
1束だけ零れ落ちた毛束を誤魔化すように髪ゴムの中へ押し込み、隊服に袖を通す。昨日のうちにまとめるように、と帰り際にヘルハウンドから教わった通りに纏めた荷物を持ち時間を確認する。この時間であれば自分のバディはよく出来たねと褒めてくれるだろう。どこか擽ったい気持ちは残っていても、褒めてもらえることは素直に嬉しいものだ。
扉に手をかけようとして改めて窓から見える空色を確認する。こんな時間帯の空を見た事はあっただろうか?薄らと夜の色を残しつつも朝の訪れを確かに表すグラデーションを瞳の空に刻む。昨日の今日で遅刻は出来ない。だが組織の人なら許してくれるのでは…という甘えが顔を覗かせそうになるが、同期の彼は決して許してくれないだろう。呆れたようにこちらを見る彼を頭の片隅に思い浮かべながらソラエルは家を後にした。
「あら…………やだ、本当にどこかしら…」
(……?)
おかしいわ…と呟きながら何かを探すように地面を見つめる高齢の女性が視界に入る。背を丸めつつも「どうしましょう」を繰り返す女性に「どうしたんですか?」と声を掛ければ驚いたように小さな目を丸くさせた。
「あらあら……こんな朝早くに…その服、グローセの人かしら?」
「朝早くなのはぼくも同じ質問です。ぼくは今日から塔の調査に行きます!だから早いだけです!」
「そう、こんな早くから偉いわねぇ。昨日私の孫もね、隊員さんにお世話になったーって嬉しそうに教えてくれたのよ。ありがとうね」
確かに昨日の午後、シェロとアルフィオの2人は見回りの最中にツァイガーと遭遇し、子どもを助ける形となった。その助けられた子どもがこの女性の孫であることも、アルフィオが救う形になったこともソラエルは知らない。狭くなりすぎてしまった窮屈な国ではこのように奇妙な縁が結ばれることが珍しくはないが、その経緯を知らないソラエルはふふんと誇らしげに胸を張った。女性もその様子にニコニコと口角を緩めていたが「でね、」と話を繋げられる。
「その時にこう……なんて言うのかしら。これくらいのね、小さな髪飾りを落としちゃったんですって。私への誕生日プレゼントだったらしいんだけど…」
これくらい…と両手の人差し指でサイズ感を示される。小さな、とは言うもののそこまで小さくは無い。だが落ちているものを見つけることがこの女性にとってはかなり難しいことなのだろう。
「そんなに小さくは無いです…」と素直に感想を告げ、同じように周囲を見てみればキラリと朝日に金属が反射した。その光に吸い寄せられるように近づけば、羽根をモチーフにしている金属製の髪飾りが落ちていた。埋め込むように添えられた大きさの異なる2粒の赤いガラスロックにソラエルの瞳が反射して映る。
女性の探している物がこの髪飾りかどうかは定かでは無い。だが目に入ってしまったのだから確認しても損は無いだろう。そっと髪飾りを掴み、トト…と女性に近寄る。細い目をほんの少し見開き、「あら」と零れる言葉が耳に届く。
「探してる物かは分からないけど、そこにありました!」
「あらあら…!羽根に赤い石が2つ………孫から聞いていた物と同じだわぁ。ありがとうね、隊員さん。私じゃその下まで見れなかったのよぉ」
スっと伸ばされた手が緩くソラエルの頭部に触れる。組織の人よりも皺が多く、柔いその手のひらは武器を握ったことの無い国民の証明だ。だか知り合いでも何でもないソラエルに対して慈愛を含む行動を行えるのはこの女性の利点なのだろう。じわりと暖かな熱は嬉しさと共に全身に巡り始め、フフンと満足気に目を細めていれば「ありがとうね」と再度言葉が掛けられた。
「本当に助かったわぁ。こんな朝早くに隊員さんが助けてくれるなんて…きっと神様が『早く見つけてあげて』って言ってくれてたのかしら」
「…、」
「だとしたら隊員さんは天使さんなのかしら?ふふ、確かにとっても可愛いもの。困った時にこんな天使さんに助けて貰えるなんて私、幸せね」
ピク…と動いたのは瞼の痙攣か、引き攣った口角の方か。あ、う…と言葉にすらなれない単語が口から零れる。意味のある言葉として告げようにも、下顎はカクカクと動くだけの無意味なものに成り下がってしまった。
(てんし、天使…)
それは人ならざるもの。人と異なるもの。誰が天使?ぼくが?人では無いということか。
ぐるぐると言葉が脳内を巡る。反応に違和感を覚えたのか、女性がソラエルの顔を覗き込むように見つめた。バチりと目が合った瞬間、望まれている気がした。
天使様、どうか希望の御言葉を。平和を願うなら言葉を吐け。叶えないなんて事は許されない。
だから早く言え。希望に続くための言葉を。人で無いならお前の生まれた意味のために尽くせ、と。
「………は………か………な……」
「…?隊員さん、どうしたの?体調でも…」
「ッぼくは天使なんかじゃない!!」
「っ、………?」
心配から伸ばされたその手を勢いのまま払い除ける。パシッっと乾いた音が柔い温もりを与えてくれた手から響いた時、ハッと意識が戻った。何かが喉につっかえてしまったような息苦しさと残る感覚の全てから逃げるように、気づけばソラエルはその場から駆け出していた。
慌てて角を曲がり、なんとか呼吸を整える。言葉を反芻し、何度も振り払うように頭を振る。上書きするように何度も「大丈夫」と呟き、少しの落ち着きを取り戻すと同時に自身の行動の愚かさに気づく。
チラ…と角から頭を出して向こうを確認すれば、まだ視認出来る位置に女性は居た。追い掛ければ遅刻は確実だろう。何も気にせず、このまま本部へと向かえば間に合う。この事を知らない組織の人は何も責めず、誰もソラエルが1人の国民を傷つけてしまったかもしれないことを知らずに居てくれる。
「うー………!」と小さく唸り、女性と本部がある方面を交互に何度も見つめる。もはや何に対しての苛立ちになるのか自分でも分からないままに地団駄を踏んでいたが、そのまま其方へと急いで駆け出した。
「────ヘルハウンド、ソラエルはどうしたんだ?」
「ウィル、…実はまだ来てないんだよね。どうしたんだろう…」
時刻は朝の5時33分。健康チェックを終えたウィルペアトはそっとヘルハウンドに確認を取っていた。既にソラエル以外の班員は揃っており、現在は順にシェロからの健康チェックを受けている段階であった。
リーダーの次に治療サポート班、最後に討伐調査班がチェックを受けることになる。シェロ自身の健康チェックは自己申告となる為、仮に彼が前日2時間しか睡眠を取っていなかったとしても隠されてしまえば分からない。何度かこのチェック方法については班員から改善を提案されているが、結局シェロほどのトップレベルの医療に関する知識を持つ者が居ないからという理由だけで却下され続けていた。
チラりと健康チェックを待つ討伐調査班へと目を向け、再度ヘルハウンドへ向き直る。
「まぁ、まだ3分だからそれほど問題は無いが……健康チェックがあるから出来れば早めに、と補足し忘れていたのは俺だからな」
「それはウィルだけの問題じゃないよ。…あの子なら大丈夫、だとは思うけど…」
「ウィル、ちょっといい?」
「あ、あぁ!悪いヘルハウンド、もしソラエルが来たら伝えておいてくれ」
シェロに呼ばれたウィルペアトはそちらへと向かう。了解の意を込めてその背に軽く手を挙げ、窓の向こうに見える外の景色を右目で捉える。描かれたように青すぎる今日の空は出発する自分たちの背を押してくれているということだろうか。そんな真っ直ぐな希望として出発前の空を見ることが出来なくなったのは何回目からだったか。
(………眩しいな)
ゆっくりと瞼を閉じれば光が透ける。瞼越しに光を数秒浴び、開いて窓の外を再度確認する。
(…あれ)
そこに見えたのは慌てて走るジェイムスの姿だった。片手に黒い上着を抱えているようにも見えるが、恐らくあれは彼の隊服だろう。組織の専属オペレーターや指導者達は自分たちとは異なる黒い隊服を着ており、他に相違点を挙げるならフードの有無だろう。塔へ調査に行く日は組織に所属する者全員が隊服を着用するように、は誰が決めたルールだったか。ただの暗黙のルールだっただろうか。今となってはエミリアとジェイムス以外で自分達の見送りをする者は居ないのにルールだけが取り残されているようだ、とぼんやり考える。
「───ヘルちゃん?」
「…あぁ、アーシュラ。どうしたの?」
「それはこっちのセリフ。どうしたの?ソラエルちゃん来た?」
真似るようにアーシュラも窓の外を覗くが、ジェイムスは既に本部内に入ってしまったのだろう。そこにはいつも通りの光景があるだけだった。
「いや、ソラエルはまだ。ジェイムスさんもちょっと遅刻してたみたいで」
「?そうなの?」
「そうみたい」
少しだけ口角が緩くなるのは幼少期からの付き合い故だろう。アーシュラがトラブルに巻き込まれているところをヘルハウンドが助けたことで兄妹のような距離感を保ち続けていた。まさかグローセで幼馴染と再会することになるなんて想像もしていなかったが、今年は随分再会の年らしい。カイムとノヴァ、アルフィオとラビは学び舎から接点があり、ウィルペアトとロドニーは中央区の学び舎に通っていたらしくその仲は現在も続いているようだ。ナイトも実家の影響があり、数人とは知り合いだったらしく、狭い国とは言えここまで顔見知りばかりが集まる年はそうそう無かった。
口角の緩みをどう捉えたのか。アーシュラは「ふーん…?」と声を零す。未だ外を眺めるアーシュラへ「まだ気になること、あった?」と顔を覗き込むように距離を詰めれば「えっ」と上擦るような声が届く。
「あっ、その、何も無いわ!本当に!ただ外を見てただけで!」
「そう?何も無いならいいけど」
「そうよ!そう!…そ、それより!その、距離が近くないかしら。私、もう子どもじゃないのよ?少し恥ずかしいわ」
「あぁ、ごめん。気に触ったのなら謝るよ」
1歩下がり、ふい…と視線を逸らすアーシュラへ何でもないような表情で返せば「…伝言だけど、」とそのまま言葉を続けられる。
「1度外に出るらしいわ。ソラエルちゃんも流石にその時までには合流出来るでしょうってウィルちゃんが。シェロちゃんからのチェックはその場で行うことになるけれど」
「分かった。討伐調査班の方は?終わってるの?」
「今最後の…あぁほら、ノヴァちゃんが終わったわ。終わり次第って言ってたから、私たちも行きましょうか」
アーシュラと視線が合い、その後ヘルハウンドの方へ視線を動かしたノヴァが笑顔でこちらへ軽く手を振る。ノヴァよりも先に軽く手を振ったアーシュラへと返していたのだろう。ヘルハウンドもそれに併せて軽く手を振り返した。
「そうだね。…まぁ、あの子に過保護になり過ぎても良くないし」
「あら?貴方って結構過保護よ?無自覚だったのね」
「アーシュラだって過保護というか…」
「さぁ?どうでしょうね」
クスクスと悪戯っぽく笑い、「行きましょ」と言うアーシュラの声に応えるようにヘルハウンドはその場から離れた。
その後、エントランスでエミリア・ジェイムスの2人と合流し、回転ドアをくぐった際に「あ!!」と叫ぶ声と邂逅する。
「ぼ、ぼく…やっぱり遅刻ですか!?」
「まだ大丈夫だよソラエル。…あ、でも体調について聞いておきたいから少しだけ俺とこっちで話そうか」
「う…シェ、シェロ……怒ってますか?」
「怒ってないよ?…大丈夫、ウィルもヘルハウンドも怒ってないから」
その反応にほっと胸を撫で下ろし、少し離れた場所へ2人は移動する。あちらに関しては任せるのが最適だと理解しているウィルペアトは「最終確認になるが、」と手元のタブレット端末と隊員の顔を交互に見ながら確認を始める。
「これからゼクンデへ調査に向かうことになるが、その途中に拠点…まぁ、一時的に休息だったり簡易的に治療を行える場所がある。そこに向かうことが今日の目標だ。」
「途中拠点に着いてからイヤホン…これと同様のものを配布する。1回タップで連絡先が表示、2回で連絡することが出来る。マイクが内蔵されているものを渡すから何かあったら連絡してくれ」
自身の片耳に装着しているマイク付きのイヤホンを外し、1度軽くタップして見せる。ホログラフィーが表示された時と同様に目の前には連絡先一覧が現れ、その画面へそっと指を滑らせればスクロールが行われた。右上のキャンセルボタンを押し、表示を消してから再度装着してまたタブレットへ視線を向ける。
「後はここで言っておくことは無い、かな。昼前までには拠点に辿り着けるだろうが……あぁ、ナイト。また向こうでの料理に関して任せてもいいか?」
「もちろん。また僕の方で誰かにお手伝いお願いすることになると思うけど…」
「構わないよ。その際には皆、よろしくな」
傍に控えていたエミリアへ端末を渡すと同じタイミングで「終わりました!」とソラエルとシェロが合流する。視線を向ければ静かにシェロが頷いて返した為、話しておくべきことは共有済みということなのだろう。
「それじゃあ、そろそろ行くか」
「お時間もありますからね。私達も規則上門の方までは向かえませんので…ここまでで」
「あんま気ィ張りすぎねェで程々にしてけ!な!!」
バシッと近くに居たロドニーとアルフィオの背をジェイムスが叩けば、「い゛ッ」とどちらかの痛みに呻く小さな声が聞こえた。長く所属し、その痛みを知る者達は静かに哀れみの視線を向けるが叩いた本人は少しも自覚していない。ガハハと豪快な笑い声を聴きながら組織本部の出入口の方に向かえば、こちらに冷ややかな視線を向ける数人の女性達の姿が目に入る。
「あぁ、また行くのよ。どうせ何も見つけれないのに」
「何も見つけれないならここにいて討伐だけしてくれればいいのに、わざわざ死にに行くのよ」
「親が可哀想。うちの子がここに入るって言い出したら勘当するかも。死にに行くくらいなら、って」
「ね。それで給料があるから良いって訳じゃないわよ。何も見つけれなくても大金が入るなんて…それも結局私達のお金からなのに」
ヒソヒソと明確な悪意を込めて聞こえるような声で彼女たちは意地の悪い井戸端会議を続ける。わざわざ早朝に本部の前に来て、文句を言って帰る国民は僅かではあるが存在する。むしろ過激な人達に比べれば彼女たちはそこまで過激では無い。
「チッ…論外だな。あそこまでリサイクルしようも無いゴミのようなクソ以下の野郎がわざわざここまで来て、無駄な労力を使っているなんてどこまでも無駄だな」
「んー………流石においたが過ぎるワ………北区の人かしら?調べたら分かりそうネ」
眉間の皺を更に深くするカイムと普段と変わらぬ笑みのままのアマンダの後ろからわざとらしく大きな咳払いをする声が響く。ジェイムスのその態度に更にヒソヒソと声を潜めたまま、彼女たちはその場から立ち去って行った。
「まーたどっかで行く日がバレたのか……ま、気にしねぇ方がいいが」
ガシガシと自身の後頭部を掻きながら静かに息を吐く。この出来事は今回限りでは無い。特に事故直後はもっと多くの罵声が浴びせられた。だが、アルフィオが起こした失敗は国民に大きく影響を与えた訳では無い。呼び起こされたツァイガーがクラインを襲った訳でも、自然災害も引き連れてきた訳でも無い。多くの犠牲は出したが、あくまでもそれはグローセ内での被害の話だ。にも関わらず1部の国民はそれを責め立て続けた。命を賭けてないからこそ、どこまでも軽薄な発言で命の倫理観について責め立ててきた。その発言の全てを『聞き飽きた』と言い返せないのは命の重みを理解しているからということを、責め立てた彼らは何も知らない。
何とも言えない重い空気が流れる中、「…あの」と小さく呼びかける声が響く。口を開いたのはエミリアだった。
「…皆様の立場上、『全く気にしないで』と私達も軽率に声を掛けることは出来ません。国民の方がどう思われるかも個人の自由です。思考を制限することは出来ません」
だからこそ、と告げた瞬間一際強い風がエミリアと隊員の間を流れて行く。細く嫋やかな髪が揺れ、雲の色に溶けてゆく。キラリと光を反射させる金色の瞳が隊員の顔を1人ずつ映す。
「私はまた、皆さんと朝を迎えたいと願います」
「結果の有無は関係なく、『おかえりなさい』と。そう言わせて頂けるならとても嬉しいです」
誰かの小さく息を呑む音を消すように「そうだな!」とジェイムスの声も響く。
「引退した身だからこそ、ワガママしか言えなくなっちまった。だがな、やりてぇ事ばっかに目ェ向けて命を粗末にしちゃ良くねぇな。」
「どんな時でも見てるヤツは居るし、帰りを望むヤツは居る。少なくともここに、な!!」
そうして近くに居たノヴァとソラエルの頭へ手を伸ばし、少し雑に頭を撫で回した。「わ!?」という小さな驚きの声は聞こえないフリをし、最後にポンと軽く頭を叩く。
「偉かったよ、お前さんは」
「………え」
ぐしゃぐしゃになってしまった髪を整えていれば、小さく呟かれた気がしてソラエルは顔を上げる。だが、そこには変わらない慈愛の瞳でこちらを見つめるジェイムスが居るだけだった。
「………ありがとう、2人とも」
「本当によぉ………!こんな若ェ奴が命張って頑張ってんのに………!!」
「……え、泣いてるのか?」
「え、今?」
「あー……」
ウィルペアトが代表するように感謝を述べれば、ぐすぐすと涙ぐんだ声が返ってくる。え?とシェロと困惑の表情を浮かべるがエミリアは「また始まっちゃった…」と言わんばかりの呆れ顔で自身の眉間を抑えていた。
「………昨日、娘さんに彼氏が出来た報告をされて少し情緒が不安定なんです。1度泣くスイッチが入ると長いので、皆さんは気にせず行ってください」
「そ、そうか………大丈夫ならいいが…」
「大丈夫では……いえ!大丈夫です。私がなだめますから…お2人は皆さんを門の方へ」
「わ、分かった………じゃあ俺たちはそろそろ行くな」
困惑状態のまま足を進める。少し進んでからチラりと後ろを振り返れば、未だおいおいと泣くジェイムスとそれを宥めるように背を擦るエミリアがこちらへ軽く手を振っていた。
───────時刻は8時25分。ほぼ一方的な涙の別れから数時間経過していた。
あの後は門を潜り、ただひたすら広い“外”を歩き続ける。国外に出ることはほとんど許されていないため、ノヴァとソラエルは生まれて初めて見る外の景色に一瞬息を呑んだ。地面はひび割れが入っている箇所があるものの、植物が存在出来ないほど魔力が枯渇している訳では無いようだ。青々とした葉を付けた木々がポツポツと並び、鳥の鳴き声が聞こえる。移動中、鳥以外の生命体を見なかった理由を考えようとし、目に見える答えに気づいてそれを諦めた。
「っと……ここが途中拠点だよ」
暫く歩いたところでくるりとウィルペアトが振り返る。ここ、とは言うものの他の場所と何一つ変わらない真っさらな土地しか存在しない。視線が合ったノヴァが「えっと、」と困惑と驚きの混ざった声を返す。
「ここ…っすか?見た感じ何も無いように見えるんすけど…隠してる、とか?」
「まぁ……そんなところだな。調査期間中ここに帰って来て寝泊まりすることになるのに…そのままあったらツァイガーに狙われるからな」
答えながらウィルペアトは地面の土を足で軽く寄せる。その様子を背後から覗き込むように見れば、明らかに他とは異なるつるりとした白い地面が顔を覗かせていた。
パッパッと軽く土を払ってから手袋を外す。そしてそれを右側の腕ポケット内に仕舞い込み、代わりに入っていた折りたたみナイフを取り出す。躊躇うことなくピッと人差し指を切りつければぷっくりとした血の膨らみが生まれた。ある程度その膨らみが大きくなった所で白い地面に血液を押し付ける。じわりと5秒間当て続ければ小さく何かが開く音がし、地面にオートロックパネルが現れる。素早く6桁の番号を入力し、『E』を押せば『*』は『OPEN』に切り替わる。同時に何かが稼働するような音が低く鳴り響き、地面に正方形状の割れ目が生まれる。その範囲内のみ土が両端へと寄せられ、また白い地面が現れる。プシューという音共に地面が開けばそこには地下に続く階段が存在した。
「すっっげ……これって先輩じゃないと開かないんすか?」
「ん?いや、ノヴァ達でも開くよ。隊員の血液…ほら、入隊試験前に血液採取されただろ?試験合格後、その時の血液データが組織に登録されるんだ。」
「最初のうちは慣れないから拠点の把握も難しいと思うが…追々アーシュラ達から聞いてくれ。途中拠点場所の見つけ方のコツや解除ナンバーは把握してるから」
「了解っす!」
未だ薄ら血の滲む人差し指を軽く親指で擦ってから、ウィルペアトはナイフを折りたたんで仕舞う。このくらいの傷ならバディの手を煩わせる必要も無いか…とぼんやり考えながら「シェロ、先に入ってくれ。今回は俺が最後に入るよ」と声を掛ける。「分かった」とシェロとアルフィオが先に入り、そこから順番に入って行く。
「…きみ、もしかしなくても俺の仕事を増やすのが趣味か?」
「そんな訳ないだろ。…別にこれは治さなくていいよ、いつものことだ」
「そのいつも通りで人の仕事を増やしてるのは誰なんだか」
そんな嫌味を受けながら、最後にウィルペアトが内側に設置されたパネルに同じ番号を入力すれば再び扉は閉じられた。
「とりあえず、先に説明するか。基本的にはここで食事や寝泊まりはすると思っていい。塔の中で寝泊まりするのは安全性が未だ確保出来ないからな…リセット覚悟にはなるが、俺が撤退判断をしたらここへの帰還を目指すこと。」
「何部屋か空き部屋はあるが…主に使うのはこの共同スペースだな。1番広くて、食事はここで皆で食べる」
3部屋ほど通り過ぎた先にある部屋のボタンを押せば軽い音を立てながら扉は開く。つるりとした壁や床と併せたような白く丸みを帯びた椅子や長机がその空間には存在した。別方向へ視線を向ければたまご型の色とりどりのビーズクッションが数個置かれている。新人の2人が驚きの声を上げているのをヘルハウンドとアーシュラは見守る。新人であれば恒例の反応は何度見ても微笑ましく感じるものだ。
「隣の調理スペースでナイトちゃんが皆のご飯、作ってくれるのよね」
「そうそう。ナイトが来るまでは…まぁ、男飯って感じの料理が多かったから助かってるよ」
既に調理スペースに入り、食材の鮮度を確認していたナイトは「えっ、呼びました?」と顔だけを覗かせる。
「前の話。ほら、ナイトが入った年の料理とか……ね」
「あー……いや、僕も否定はしないですけど………こんなに設備もちゃんとしてるのに勿体ないなって思っただけで」
「料理!ナイト、ここでもぼく。お手伝いしますからね!」
ふふんと自信たっぷりでドヤ顔をするソラエルをえぇ…とノヴァは見つめる。恐らく彼女のことだ。この白い調理スペースすら違う意味で真っ白にしかねないだろう。もしくは調理過程で飽きて先輩に迷惑をかけるかの2択が目に見える。
「んー…」と困ったように笑うナイトと目が合えば「あ、」と思いついたような声が零れていた。
「ノヴァさん、もし良かったら今日の昼か夜。手伝って貰ってもいいかな?流石に全員分の準備ってなると男手だけじゃ不足する部分も出てくるから、お願いしたくて」
「?俺っすか?」
「うん。駄目かな?手伝ってくれたらその分おかわりとかしても良いから!」
お願い!と両手を合わせて頼み込むナイトへ「先輩の頼みなら」と了承を返せば少し離れた所でロドニーが呼ぶ声がした。
「ナイト以外の2ペア、リーダーが呼んでるよー!」
「あ、了解っす!それじゃ先輩、また!」
「うん、また。調理の時はよろしくね」
軽く手を振り返してウィルペアトの元へ4人が向かえば、視線の先の室内にはアルフィオとシェロが既に自身の荷物を置いていた。
「基本はこんな感じでバディ相手と2人で1部屋を使うことになる。シャワールームは共同のが室内に1つ、ベッドは2つがどの部屋も共通だ」
が、と1つ言葉を区切ってウィルペアトは4人の方へ向き直る。
「流石に男女ペアの時は例外だ。着替え等もあるからな。…だからヘルハウンドとノヴァ、アーシュラとソラエル…かな?もし他の人と同室になりたいなら本人と交渉してくれ」
「え!じゃあぼく、カイムと同じ部屋がいいって言ってもいいんですか!」
はい!と勢い良く手を挙げ親友の名前を告げれば「それもカイムとアマンダに確認しような」と優しく灘められる。
「ソラエルちゃんがカイムちゃんと同室になれたら私はアマンダかしら?ふふ、それはそれで楽しそうね!」
口元に手を当てて微笑むアーシュラへウィルペアトは緩く笑みを返しつつ、切り替えるように数回手を叩いて全体に響くように声を上げる。
「とりあえず、今は夕飯の時間になるまで各位部屋掃除を優先すること!他の共同ルームに関しては自室の掃除が終わったペアから順に始めてくれ。」
「昼食のタイミングはそれぞれに任せるが…夜は20時前には食べるからな。それまでに全て終わらせてくれると後々楽になる」
その後の解散の声を聞き、それぞれは自身の目的となる部屋へと向かうこととなった。
─────そして夜は更け、19時26分。
「お待たせ!今日の夕飯だよ!」
盛大な効果音すら聞こえそうな笑顔でナイトは全員へ呼びかける。あの後、話していた通りノヴァとソラエル以外にも早い段階で掃除が完了したカイムやアマンダ、アルフィオにも声を掛け調理の準備を進めていた。
そのおかげか今回は随分と豪華な夕飯となった。卵をメインとしたメニューとなっており、メインはそれぞれの好みに合わせてオムライスとチーズオムレツの両方が用意。それ以外にもポテトサラダやたっぷりの野菜をコンソメで似たスープ。そしてデザートのプリンには絞ったばかりの生クリームがちょんと乗っていた。何品かは「これは明日の朝かな…」と保存容器に入れて冷蔵庫へと仕舞い込まれた。
「ありがとう。やっぱりナイトの作る料理、美味しそう」
「わはは…ありがとうシェロさん!作ったからにはちゃんと食べてね?昼、抜いたのアルフィオさんから聞いてるからね」
「あれは………まぁ、うん」
ずい、と詰められてしまえば言い逃れなんて出来ない。トレーの上に準備された夕飯を乗せ、シェロは席へと向かった。
「それじゃあ…僕達もそろそろ食べる方に行こうか!出来たてを皆で食べるのが1番だからね!」
そう笑顔で振り返ったナイトへ各々の反応を返し、シェロ達同様に調理組も夕飯を食べる準備へ移行した。
「───隣、いいか?」
そうソラエルに告げてきたのはウィルペアトだ。「いいですよ!」と返せば「ありがとう」と微笑まれる。少しして全員で「いただきます」を告げればそのまま各々のペースで食事が始まる。談笑する者もいれば黙々と一定のペースで食べ続ける者と様々だ。
その様子をぼんやりと眺めつつ、ふとウィルペアトの料理が目に入る。そこには明らかに自分達が用意したものとは異なるチーズオムレツが存在していた。
「どうしてウィペのオムレツ、そんなに野菜しか無いんです?チーズの方はちょっとだけお肉も乗ってましたが…もう食べました?」
「ん?あぁ……いや、まぁ…ちょっとな」
「これじゃあチーズオムレツじゃなくてモサモサオムレツに変えた方が良いくらい野菜しかないです…」
「あー……でも、俺はこれでいいよ。気、使われたんだろうし」
曖昧に濁される返しに首を傾げれば、それ以上を拒むように笑みで返される。ふーん…と言葉を零してから自身のチーズオムレツにスプーンで切り込みを入れれば、とろりとしたチーズが顔を覗かせた。絶妙な加減で生まれたとろとろの卵と共にスプーンで掬い上げて口に含めば、口の中いっぱいにチーズの香りが広がる。何度か咀嚼すれば中に入った挽き肉と程良く混ざり合い、噛むほどに肉の旨味とチーズが良い組み合わせであることを実感する。
ゴクリとそれを呑み込んで再度ウィルペアトの方を見やれば、彼はまだポテトサラダにしか手を付けていないようだった。
「ウィペ、オムレツ食べないんですか?またぼくに取られちゃいますよ!」
「オムレツも取るのか?あの時はスープだったけど…というかやっぱり取った自覚はあったんだな」
「あれはウィペが遅いのが良くないと思います!最後の1個だったんですから!」
「はは、そうだな。…食べるよ。少し考え事してたんだ」
ソラエルと初めて出会った時の珍事件を思い返しつつ、ウィルペアトも同じようにスプーンでチーズオムレツを掬い上げる。それを口に含んで数回咀嚼した所でピタリとその動作は止まった。
「?どうしました?」
「…………ぁ、………わ、悪い!少し席を外すな。外部から連絡が来たから……ナイト達には悪いが、長く戻って来なかったらスープやプリンはソラエルが食べても構わないから」
「え!いいんですか!」
「うん、良いよ。…ッ、悪い」
ガタリと席を立つウィルペアトへ少しの疑問を織り交ぜたような視線が集まるが、それを振り払うように彼はその場を後にする。
「…?どうしたんだろう、リーダー…」
「やっぱりお兄さんが心配か?ロドニー」
いつもの揶揄うような返事に「ちょっと!」と小さく反論しつつ、1口大に掬ったオムライスをロドニーは口に含む。チラりとラビの方へ視線を向ければ野菜は一切無く、他と比べて少しだけ量の多い肉が目に入った。
「あれ、ラビくん…もう野菜食べたの?」
「…まぁな!どうした?もっと野菜が食べたいよ〜ってか?仕方ないな…ほら、そんなロドニーくんにはポテトサラダをあげよう」
「言ってないよ!?というかそれ、食べたくないだけだよね…!?」
「どこを見てるんだ?ロドニー。ほら見てくれ、確かに食いかけだが食べてはいるだろ?」
「ポテトの部分だけだよ……玉ねぎとかは綺麗に残ってるよね……?」
「ははは!気のせいだろ」
また良いようにはぐらかされてしまった気はするが、「もう…」と呟いて大人しく渡されたポテトサラダを受け取る。
ロドニーと同じく視線だけで追っていたナイトだったが、ハッとした表情でソラエルの元へ駆け寄って来た。
「ね、ねぇ!ウィルさんが食べてたのって…」
「?チーズですよ。でもあまり食べてないです!」
「っ、ごめ、僕も少しだけ席。外すね…!」
サッと青ざめた顔のままナイトもその場を後にする。なんだなんだと疑問の声が上がるものの、それ以上誰かが席を立つことは無かった。
「………何なんですか、もう………」
小さく呟きながらソラエルはウィルペアトのトレーからヒョイとプリンを取り、自身の方へと乗せた。
「ぉ゛ぇッ…………ッッ、ぇ゛ッ……っゲホッ…………ッは、ぁ…」
何度か咳き込んで息を整える。先程までの料理は1度胃に入ったことで元の形が判別出来ないくらいぐちゃぐちゃになってしまった。吐き出した吐瀉物を見ていれば再度吐き気が込み上げる。だが胃の中に入っていた物は全て吐き出してしまったためか、口の端から胃酸か唾液なのか分からない液体が垂れ、トイレの水溜まりを更に汚していく。あー…と言葉にすらならない音を零しながら、手袋を外して口元を拭う。ツ…と指先は唇をなぞり、無意識のうちに端から口腔内へと入れようとした自身の片手をもう片方で掴む。
(出すな、出すな出すな出すな出すな何も出すな呑み込め、呑み込んで出すな。これ以上誰かの善意を出すな……)
喉奥へと無理に差し込めばどうなるかなんて幼少期から知っている。いつしか悪癖になったこれを止めれるのは自分しかいないこともとっくに理解しているのだ。
(……最悪、だな)
吐いたことでガクンと血圧が下がり、意識が遠のく。何度目かの嗚咽が溢れたと同時に「ウィルさん!」と呼びかける声が耳に届いた。
「…………ない、と」
「ごめん、やっぱりさっきの料理だよね……!少量だけど挽き肉が入ってたからっ……それで…」
慌てて駆け寄り、優しく背を擦るナイトへ「大丈夫だから…」と小さく返す。組織の中でナイトだけが唯一ウィルペアトの嘔吐癖に関して話を聞いていた。幼少期より続くその癖は最近は改善傾向があるものの、未だ反応が出る時もあるらしい。ロドニーやラビ、シェロに伝えたことはあるのかと問いても「余計な心配をさせたくない」といつもの曖昧な笑顔で濁されてしまった。
確かにその話を覚えていたはずなのに、『これくらいは大丈夫だろう』という気持ちがどこかに存在していた。彼の心配を掛けたくないという気持ちは痛い程に理解していたのに。あの日以降、自身も近い状況になってしまったというのにどこかで気が緩んでしまった。
未だに嗚咽を続けるウィルペアトの背を擦る。彼のことを完璧で隙のない人間だと思っていた。普段の彼はこちらが手を差し伸べる隙なんて無い、逞しい人だと。だからこそ相談された時は信頼されたと思って嬉しかったのだ。自分もその思いに真摯に向き合いたいと、見合う人にならねばと気持ちを新たにした程には。その結果がこれだと言うのなら、あの日の自分に何と言い訳すればいいのだろう。
「……悪い。君の料理を無駄にしてしまって」
「ウィルさんが謝る必要なんてない、…悪いのは僕だよ、…つらいよね、本当にごめんね……」
謝る必要なんて無い。何度そう告げても彼はうわ言のように「悪い」と「ごめん」を繰り返し続けた。
暫くして落ち着いたのか。ウィルペアトは何とか立ち上がり、自分の嘔吐処理を行った後に念入りすぎる程に手を洗っていた。手伝おうとしても「君はまだ食事の途中だったろ?」とやんわり止められてしまい、未だにもどかしい気持ちばかりが心を占める。
無言の空間を水の流れる音だけが誤魔化し続けていたが、「俺、このまま別室で休むよ」という小さな声は掻き消されなかった。
「…ご飯、吐いたばっかりだと胃に入らないもんね……大丈夫、皆には僕の方から濁しておくから」
「悪いな。…ラビにも、『今日は戻らない』って伝えてくれ。彼が探すことは無いと思うが……一応、な」
手を洗い終え、「じゃあ」と軽く手を挙げて真逆の方向へ進むウィルペアトの背を見てようやく緊張の糸が解れ、同時に襲いかかる重い罪悪感からガシガシと頭を掻く。
嘔吐を繰り返す彼と自分の姿が重なってしまったなんて言えなかった。理解した気になってしまったのがそもそもの間違いだったのだろうか?彼の事情と自分の事情は全く異なるというのに。
(……僕はなんてことを…)
はぁ、と息を吐いてからふと浮かんだ疑問に頭を上げる。彼が肉を食べれない理由は嘔吐癖があるからということを知っている。だが、討伐調査班であるなら消費される魔力は力の方だ。最大限の力を発揮する為に動物の肉を摂取し続け無ければ消費され続ける一方だと言うのに……彼はチーズオムレツに入っている挽き肉ですら拒否反応を示していた。ならば力の方が劣ることも考えられるのに…ウィルペアトの力の魔力量が組織内でも最多であることは殆ど周知の事実だ。
力の魔力を補うことが難しいのであれば、一体彼の力の魔力はどこから形成されているのだろう。
浮かんだ疑問を投げかけようにも当の本人は既に奥の適当な空き室へ入ってしまった。パチンと泡のように弾けて見ないフリをし、ナイトは来た道へと戻る。
「……ん?」
「………あ」
扉開閉の軽い音が響き、そちらへ視線を向けるとそこに居たのはラビだ。恐らく食事を終え、当てられた自室へ向かおうとしていたところなのだろう。
バディ相手を見ていれば必然的に先程のウィルペアトの様子を思い出し、一方的な気まずさからナイトは視線を逸らしてしまう。そんな様子に何を感じたのか、「なぁ、」とラビは一声掛ける。
「あいつ、どこに行ったんだ?」
「えっ、……その、連絡が長引きそうで!腕時計、忘れてたから届けに行ったんだけどほら…ウィルさんってそもそもイヤホン常に付けてたし……いつでも連絡取れるように、って。だから余計なお世話だったなー……って。はは…」
「…ふーん 」
聞かれていないことまでペラペラと述べてしまうのは誰のための言い訳か。そんな簡単なことは考える必要すらない。
海のような彼の瞳は普段であれば綺麗だと感じるのに、後ろめたさを抱えた今では深海からこちらを覗き込まれているような気持ちになり嫌な冷や汗が滲む。素直に彼にバディの様子を伝えても、どうなるのか分からない。だからこそナイトは次に続ける言葉を動かない思考回路の中から必死に探し出そうとしていた。
「……ま、俺は先に部屋に戻るよ。特にしておくとも無いからな」
「そ、そう。おやすみ、ラビさん」
「ああ、おやすみ」
手をヒラヒラと動かしながら部屋へと向かう彼の後ろ姿に安堵すら覚えてしまう。そんな自分に嫌気が差してしまうのは当然の感情か。生まれた蟠りを奥底へ仕舞い込み、ナイトは共同スペースへと戻った。
「────ウィルちゃん、結局戻って来なかったわね」
「そうね……心配だけど、どこに行ったのか分からないカラ…」
21時12分。アーシュラはぽんぽんとタオルに髪の毛の水滴を染み込ませるように軽く叩きながら、アマンダとベッドに腰掛けて先程のことを振り返る。
結局あの後は戻ってきたナイトからウィルペアトが戻ってこないことを知り、彼の分のプリンはソラエルの胃袋にしっかり収まった。
んー…と小さく唸れば「どうかした?」とアーシュラから顔を覗き込まれる。「何でもないワ」と言って乗せていたサングラスを外し、カチャンと近くに置かれたテーブルに乗せる。サングラスの縁を少しなぞれば、「…シェロちゃんの昨日の話、どう思う?」と呟く声が耳に届く。
「ソラエルちゃんと隊長さん、よネ。長く居たわけじゃないから分からないことも多いけど……やっぱり特殊なことだとは思うワ」
「少なくとも今まで会議でシェロちゃんがああやって個別に名前を挙げたこと、無かったものね…ソラエルちゃんならまだ分かるけど、ウィルちゃんも……」
声が小さくなると共に軽く叩く手の動きも止まる。そんな親友の隣へポスンとアマンダは座り、「でも、」と呟く。
「私は2人のことを信じているし、2人のバディのことも…もちろん皆のことも信じてるワ。」
「例え危惧しているようなことが起きても、私は彼らを守る。それを望んでいるから、この組織にいるのヨ」
真っ直ぐこちらを見つめるアマンダと目が合い、思わず笑みが零れる。ああそうだ、彼女はこういう人だったと実感する程に安心感で満ちていく。
「ふふ、アマンダならそう言うと思った!私も皆のことを信じているわ。もちろん、アマンダも含めて。ね」
「私もアーシェのこと信じているワヨ?当たり前でショ」
同じように笑みを返す彼女の頭を軽く撫でれば、驚いたようにサングラスの向こうの瞳が開かれるが、すぐに「なぁに!」と嬉しさと擽ったさから成る笑顔を返される。それに「何でもない」と返せる日常が手放し難くなったのはいつからだろう。皆が望む当たり前の日常なはずなのに、この組織に居る限りはそれすら高望みに見えてしまうのは何故か。解を見ないようにして、緩く頭を振る。
「ほら、髪の毛乾かさないと風邪引くワヨ?ドライヤーかけましょうカ?」
「あら?どうしましょう。ここはお願いしちゃおうかしら?…なんて」
「仰せのままに、甘えん坊サン?」
「あはは!なぁに?私もそのうちウサちゃん呼びされちゃうのかしら。それともお嬢様?」
その優しさに甘えてしまおうとドライヤーを手渡せば、暖かな風が残った水分を飛ばしていく。いつ終わるか分からない場所に居続けるからこそ、たまにはこれくらい甘えてしまっても許されないだろうか。
来る前に言われた井戸端会議をぼんやりと思い出し、温もりに身を任せればとろとろとした眠気が襲ってくる。そのまま彼女がシャワーを終えるまで待ち、数分話している内に消灯時間を迎えて眠りについてしまった。
────朝を迎え、現在時刻は10時5分。
「でっか…………」
「うわぁ………!」
サァッと吹き抜ける風がどこかから葉を運んでくる。2人の前に建つのはこれから自分たちが向かう場所───
「お前はもう少し落ち着けよ……それで先輩に迷惑かけたらどうすんだ」
「で、でも……だってぇ……」
「……ばーか。…前も言ったけど、お前は戦いのセンスあるんだから。…あー……まぁ、落ち着いてやれば。いいんじゃねぇの」
「ぅ………わ、分かりました……」
ぐ、と続きそうになる弱音を呑み込んで頷く。その様子から視線を上げ、再度息を吐いた。暖かくなっては来たものの、未だに息を吸い込めばひんやりとした空気が肺を満たす。
この組織に、あの人に憧れてここまで来た。先輩の活躍を更に間近で見ることが出来るこの場所で今まで戦ってきたのか…とまた息を呑む。この感情を何と表現することが正解か分からない。それでも、この感情だけは否定したくなかった。
この先に光があると信じている。星の位置が変わらないことと同じように、自分の憧れが変わることは無い。それ程までに当たり前となった事実を今更否定する意味が分からない。
おーい、と遠くで呼びかける声が届き、意識が現実に引き戻される。声の方へ視線を向ければウィルペアトが軽く手を挙げてノヴァを呼んでいた。
これから3ペアずつに別れ、左右それぞれかれ調査を始めることとなる。ノヴァはウィルペアトが居る左側、ソラエルはシェロが居る右側から調査することになる為ここで1度別れる。
「じゃ、先輩呼んでるから俺。行くな」
「ぇ…………わ、わかってますよ!ぼくもシェロとヘルの方に行きますから!」
ふいっ!と勢い良く顔を逸らし、ソラエルはズンズンとシェロ達が集合している方へ足を進ませる。そんな後ろ姿から視線を逸らしてノヴァもウィルペアトが呼ぶ方へと足を急がせた。
サァッと風が吹き抜ける。嫌な程に澄んだ空の色から目を逸らすようにアルフィオはゆっくりと瞬きをした。
何度も夢に現れた真っ白な塔。あの日以降忘れることが出来ず、何度も何度もこの悪夢に魘されていた。
「───────アルフィオ?」
瞬きすらせずに塔を見つめる姿に何を思ったのか。隣に立つシェロが小さく問いかける。「ん」と小さく疑問の声と共にそちらを向けばライラックの瞳に自分が反射する。今の彼にも自分はこんな顔で見えているのかと思い、1度だけ瞳を閉じ、見つめ返す。不安で縋りたい時があっても、その柔らかく微笑むその表情を曇らせたい訳では無いのだから。
「何か気になること、あった?」
「………いや、」
一際強い風が2人の間を抜けていく。ああ、あの日は今とはまた違う冷たい空気が肺を満たしていた。そんないつかの日を思い出しながら。
「…大丈夫」
言い聞かせるように、自分に呪いを重ねるように呟く。あの日から繰り返される悪夢が、自分に夜の帳が落ちたことを知らせるのだ。
明るく己を照らす光を背で受け止める。この先にあるのが希望が絶望か、どちらでも構わない。だが、あの時生まれた欠けた部分を埋めるのは、そのどちらでも無い気がしている。
そんな曖昧で不確かな確信を抱えたまま、今回の塔入口を探すための調査は始まった。
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