2.前の車を終え
「前の車を追ってくれ。」
乗り込むやいなや般若面のような形相で男はそう言った。
いきなり困りますよ、と特に意味もなく言葉を吐きながらタクシー運転手の横山は『前の車』に目星をつけて、絞り出すようにアクセルを踏む。
白髪をかき上げ帽子の中に戻し、前を行くタクシーと一定の車間距離を保ちさり気なく後を追う。こういう場面に慣れてない者は真後ろにつけ、あからさまに追跡する。ドラマで見る
赤信号で真後ろに並んだときに、『前の車』を確認する。渋い光沢のある黒のクラウン。フロントから突き出たサイドミラー越しに四角いメガネと目が合う。
逃げの芦田。タクシー界隈でも名のある「逃げ」のプロで、若手時代には期待の星として「追いの横山、逃げの芦田」と呼ばれた好敵手だ。
おそらくこちらも認知された。ここからは法律厳守のカーチェイスになるだろう。
歩行者信号が点滅し始める。ハンドルを握りなおす。
青信号になった瞬間、芦田の車は滑るように走り出した。横山もそれに追随する。交通量の少ない時間帯だ。適切な車間距離で、芦田車は車線変更を繰り返し横山を振り切ろうと試みる。横山も負けていられない。車線変更を最低限に留め、虎視眈々とチャンスを伺う。
横山の強みは何と言ってもその鋭い勘にあった。相手がどこでどう撒こうと考えているのか、街の道路を網羅している横山には手に取るようにわかる。相手がよく見知った相手なら、その精度は100%に近似する。
この交差点を右、次を左、ここでUターン。むやみに追わず最短距離で詰めていく。
ついには横山は芦田の真後ろに適切な車間距離で張り付いた。いい年をして、横山はにわかに興奮していた。はやる気持ちは徐々に車間距離を詰めていく。
ーここだ!
そんな芦田の声が聞こえたような気がした。気づいたときには遅かった。芦田は信号の手前、破線ギリギリのところで右折車線に入った。法定速度ギリギリで距離を詰めていた横山が右折車線に入ろうとしたときには、そこはもう実線だった。
私としたことが、とんでもないミスをした。横山は一瞬引退を覚悟した。
しかし、これで終わる横山ではなかった。青信号とともに直進する横山の視界にはもう、悠々と右折する芦田はいなかった。横山は右折した芦田のルートを膨大な経験をもとに割り出し、最短ルートを求めて住宅地に入った。一か八かの大博打だ。信号のない道を通り、予想進路にぶつかる交差点についた。信号が青になり、ちらりと信号を待つ車列を見ると、前から二台目に芦田車が見えた。追う車が前に出たら逃げ車の負けとなり、法に則って適切な場所で停車するルールだ。
横山は見事勝利した。
しかし路肩に止めた芦田車から降りてきたのは芦田一人だった。追うべき相手は乗っていなかった。
「さっき駅前で降りていったよ。」
そう芦田は言った。
勝負には勝ったが乗客の願う行き先には行けなかった。四半世紀の運転手人生の中でも、このもっとも奇妙な勝ち味を横山は感じたことがなかった。
横山は車に戻り、不安そうな顔で様子を窺う後部座席の男をちらりと見たあと、帽子を目深に被り、既に5000円を超えていた料金メーターを静かにリセットした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます