掌編小説を書きだめるところ
遅筆丸
1.百葉箱
梅田駅の地下鉄御堂筋線ホームの百葉箱を開けると海と繋がっている。
そんな話を小耳に挟んだのは、確か少し前、たまたま前を通った居酒屋からちょうど出てきた二人組のおっさんの会話だ。夕立の上がった8月のはじめの宵の頃だった。暗くて顔も見えないが、声からしてなかなか飲んでいそうな、そんな酔っ払いの話ながらに妙に惹かれる話だった。
実際、梅田の百葉箱は実際に見たことがあるし、かなり前のことだが開けられているのも一度見た。
しかしこの一見して他愛もない作り話のような、それでいてなかなかに具体性をもった、不確定でありながらも、一方で当然の事実かのように口にされた、指先に乗るようなファンタジーは実際ひと夏の間忘れられない文学だった。
百葉箱は中身が見えない。おんぶするようにランドセルを背負って入学して以来中身を見たことがなかった学校の百葉箱の中身について、何度もトモダチと何かが飼われているだの、タイムマシンだのと、思いのままに推理し合った。
四年生の理科の授業で初めて百葉箱の中身を見たとき、真実を知る喜びとともに、一方がっかりした。桃源郷が存在しないことが証明された瞬間だったのだ。
大人になるにつれ、いくつかの桃源郷を失った。どれも現実を知るまでは、針を落としただけで崩れてしまうような儚い世界がそこにはあった。
9月のはじめ、地下鉄梅田に降りることがあった。百葉箱は開いていなかった。しかし、きっとその観音開きのむこうには、遠くの海が広がっているに違いないと思った。
耳をすませばほのかに聞こえてくる波の音を感じながら、百葉箱の前を通り過ぎた。
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