17、月が綺麗ですね

 いつの間にか、紺と黒を濃密に混ぜ合わせたペンキをぶちまけたようなキャンパスへ無造作に雲や星そして月の模様を配置したような夜空になっていた。

 半月いわゆる上弦の月が銀色に柔らかく光りながらも、大きく冷たく輝いていて、それはどこか無機的な風景写真を思わせた。

 よい形の美しい月で、夏の夜、とりわけ祭りの夜にはふさわしい感じだった。

 本来の祭の夜ならば、の話だが。


「月がきれいだな」

 龍星は月を見上げて、なんとはなしに呟く。

「んー。悪いけど、僕には男と付き合う趣味はないんだけど」

 苦虫を噛み潰したような表情での陽樹の唐突な返事に、

「突然なにを言いだすんだ?」

「知らないの? 夏目漱石のエピソード」

「知らん」

「漱石さんが教師をやっていたころにさ、I love youを『愛してます』ってやくさないで、『月が綺麗ですね』って訳したっていうエピソード」

「ひねくれてるな。意訳ってレベルじゃない。単語がひとつもかすってないじゃないか」

「まあそうなんだけどね、ロマンチックな言い回しだと思わないかい?」

「作家の感性ってのはよう分からん。だいたい告白が昼だったらどう訳すんだよ」

「僕に言わないでよ」

「というか、そんなエピソードを知ってたら、たとえハルとはいえ、男の前でなんか言うもんか」

「それもそうだねえ。まあこれ本当は夏目漱石のエピソードじゃないらしいけど」

「ちょっと待て! ここまで話をふっておいて漱石さん関係ないってどういうことだよ」

「いやあ、最初に聞いたときは漱石のエピソードだったんだよ。しばらくして実は漱石のエピソードじゃありませんって感じでの上書きがされちゃって」

「ああ、そういうタイプのアップデートって困るな」

「話のタネにはなるんだけどね。ただアップデートされたあとの知識だけだと今ひとつに盛り上がりに欠けちゃってねえ」

「まあアイラブユーを『月が綺麗ですね』って訳した人がいるみたいだよってだけじゃ、聞かされたほうも『ふーん』で終わりだしなあ」

「でしょ?」

「しかし、こんなときになんだけど、俺らもなんか後世まで伝わるようなエピソードを残してみたいな」

「ハリセン片手に女の子の服を脱がしてまわったとか?」

「そんなエピソードはいらん。どうせならアイラブユーを『月が綺麗ですね』って訳した男ってことにしてくれ」

「他人のエピソード乗っ取りじゃん」

「でも、もともと誰が言ったか分からないんだろ?」

「まあそうなんだけど。リュウちゃんが訳したってことにすると時間軸むちゃくちゃになっちゃって後世の人が混乱するんじゃないかな」

「あー、そこまでは考えてなかった」

「まあそれはおいといて、なんだかとんでもないことに巻き込まれちゃったねえ」

「すまんな、俺が巫女さんの色香いろかに迷ったばっかりに」

「あれは仕方ないよ。僕が先に着いていても、リュウちゃんを誘って結局は同じ道をたどってたと思うしね。だけど妖女とか女怪ってのはああいうのを言うんだろうね。そうそう、女怪といえば、天久愛流が本当に妖怪退治をするための剣法だったとはねえ」

「あのちびヒメじゃなく師匠に言われてたら、剣舞にハクをつけるためのハッタリだと思ったかもな」

「そうかもね……お師匠さんといえば、こういうときこそ相談できればいいんだけど」

「連絡はとれるだろうけど、事の経緯を正直に話したら『巫女さんの色香に迷って妖怪の封印を解いちゃったとか超ウケる』とか、ものすごくバカにされそうな気がする」

「ありえるね。それで『君らがしでかしたことなんだから、君らでケリをつけなさい』って言われそう」

「言われるだろうなあ。まあこうなった以上やれることをやるしかないんだろうけど……とは言ったものの、フクマを捜すにもどこに行けばいいか見当がつかないな」

「まずは境内のほうに行ってみない? ヒメ様の言っていたとおりにフクマが人から精気を奪うのなら人が集まってる場所が狙われるでしょ」

「そうだな、それに妙に静かなのも気になる」

 陽樹の提案で、ふたりは境内へと向かうことにした。 


 境内のほうへと近づいていくと、辺り一帯は静寂に包まれており、さらに雨上がりのときに感じるような、生暖かく絡み付いてくるような空気の流れを感じた。

 それはこれまでの冷気とは違い、未知の生物の息づかいや気配を感じさせるようなどこか薄気味悪い感触だった。


 境内の様子が見渡せる場所に出て、ふたりは息をのむ。

 活気だけでなく時間と音すらも奪い去られたような空間と化した境内に、さまざまな人々がぐったりとして、あちらこちらに力なく横たわっているのが見えた。

 十代後半の女子というひとつの例外を除いて、大人に子どもや老人までもがその性別を問わず、地面に倒れ込んでいる。


 駆け寄って呼びかけてみても彼らからの返事はなく、文字どおり、気を失っているようだった。

 モエギの言葉どおり、フクマが手当たり次第に人々から精気=生命エネルギーを吸い取っている結果だろう。

 いまのところ命に別状はないのかもしれないが、この状況が続けばどうなるかは想像もつかない。


「さすがに許せないな」

 この状況とそれを引き起こす原因となった自分を容認できず、龍星は顔を曇らせた。

「こうもいろんな人を巻き込んじゃってるとねえ」

 だが人々を救おうにも、現状ふたりになすすべはない。

 この場でできることがあるとすれば、一刻も早くこの騒ぎの元凶であるフクマを見つけるため、その痕跡を探すことのみ。


 手がかりを求めて、周囲を調べようと思った矢先、

「リュウちゃん」

 陽樹が静かな声で警告を発する。

 敵意をともなった視線が周囲から飛んできているのを察し、

「囲まれてるな」

 ふたりの少年は背中合わせに身構えた。


 ぐにゃりと空気が歪んだ感覚が辺りを包み込み始め、屋台の裏や暗がりから続々とフクマ憑きとなった少女たちが現れてふたりを取り囲む。


「思ったより、いっぱい出てきたね」

「天久愛流の剣士だって名乗りをあげたらフクマとやらがひるまないかな」

「どうかなあ。かえって『恨み千万』な感じで逆上するんじゃないかなあ。それにこれから服を脱がしていく相手に自己紹介はやめておいたほうがいいと思う」

「たしかにそう考えると格好がつかないな。じゃあ黙々とやるしかないか」

「1対多数の乱戦とかやったことないけど、大丈夫かな」

「そう考えると今日は初めてのことばかりだな。まあ気負わず、この女の子たちを元に戻すってのを第一目標にしようぜ。さあやろうか」

「打ち切り漫画の終わりって、たいていこういうシチュエーションだよね」

「始まったばかりで『俺たちの戦いはこれからだ!』とか笑い話にもならないよ」

 ふたりはそんな軽口を交わしながら群れなす少女たちの中へ一気に切り込んでいった。


 あっという間に、少女たちはふたりの持つ破魔扇の前に、次々とあられもない下着姿になって倒れていく。

 その様相はさまざまで、色は白を筆頭に、赤、青、水色、ピンク、黒、ベージュ、オレンジなどなど。模様や柄は無地に始まり、アニマルプリント、ストライプ、水玉、チェック、英文字、音符記号といった多彩に富み、飾りもフリル、レース、リボンにボタンと、さわやかな感じのものからややけばけばしい感じのものまで、まさに十人十色じゅうにんといろ、多種多様、色とりどりと言った感じだった。

 並み居る少女たちを打ち倒し、辺り一帯からフクマとおぼしき気配が消えると、ようやくふたりは一息つく。


 そして、ある意味惨状ともいえる周囲へと目をやり、

「こうもカラフルだと、百花繚乱ひゃっかりょうらんといった感じだねえ」

「どちらかというと、落花狼藉らっかろうぜきといった感じだがな」

「さらっと四字熟語に四字熟語で答えるねえ」

「四字熟語は男子の健全なたしなみだからな」

「たしなみってのは分かるけど、男子とか健全とかは分からないかな」

「そこは流してもらって結構、どれくらい倒したっけ?」

「倒したというか脱がしたというか。まあ、ざっと三十人くらいかなあ」

「祭りに来てた女の子のだいたいの数から考えて、規模でいうとざっと四分の一くらいか?」

「それくらいかなあ?」

「残り百人くらいと考えるとさすがに疲れるな」

「こんな大立ち回りなんて初めてだからねえ。いやしかし、もう一生分は女の子の下着を見た気がするね」

「それだというのに、ちっともうれしくないし、ときめきもしない。通販のカタログやチラシでももう少しドキドキしそうなものなのに」

「そうだねえ。で、どうする? ヒメ様とソラちゃんが来るのを待つ? それともヒメ様のところへ運ぶ?」

「いや、ちびヒメとクーコさんのふたりを待ってるあいだに、他のフクマを取り逃すのはちょっとまずいと思う。あと、この半裸の女の子たちを抱えて運んでいく度胸あるか?」

「無理、絶対無理」

「だろ? よしんば運んでいったところで、クーコさんにギャーギャー言われるのがオチだ」

 龍星は答えながら、未散花から布を次々と引っ張り出しては半裸の少女たちの上へとかけていく。

 陽樹もそれにならい、なるべく彼女たちの下着姿を見ないようにして布で覆う。

「しかし、これでもなんか非常にやましいことをしている気がするな」

「同感だね。どうする? もう一回いっとく?」

「もう一回なんだろうなぁ」


 ため息をついたあと、龍星と陽樹は向かい合って構えると、おもむろに互いをハリセンで叩いた。

 ふたりとも先ほどと変わらぬ衝撃にその場でもんどり打つ。

「ホント、僕ら何をやっているんだろうかね」

「言うな。むなしくなる」

 龍星はため息まじりに言って起き上がると、一度深呼吸をして大きく伸びをする。


「さてさて。では気を取り直して、残りのフクマを捜して追っかけますか」

 同じように伸びをした陽樹の提唱に、 

「とはいえ、参道のほうにはいないようだな」

 気配を探るようにして、龍星が答える。

「鳥居をくぐれないのかもね」

「なるほど、参道は神様の道だから妖怪は山道を降りるしかないのか」

「あとネコの巫女さんが妖怪だったことからすると、怪しいのは裏の林だね」

「一番確証がありそうな場所に行ってみるか」

 

 ふたりは要石の置かれていた神社の裏手へと向かった。

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