10

 実際、次の日の朝になっても雪は白い壁のように降り注いでいた。

 リーマンさんは夜明け前に目が覚め、着替えと歯磨きを済ませてロビーのソファに深く腰掛けて天井をぼうと眺めていた。支配人さんが音もなくやってきて、「おはようございます」と音を立ててリーマンさんは初めて彼の存在に気づいた。

「おはようございます。雪やみませんね」「はい。スタッフも相変わらず出勤できず、ご不便をおかけします」「いえ僕は全然満足しています。大変なのは支配人さんと受付さんですよね。寝れてますか?」「お気遣いありがとうございます。ぐっすり眠れております」「それはよかったです。ところで、僕たちが寝ちゃった後に誰かチェックインしませんでしたか?」「いえ、誰一人として新しいお客様はやってきておりません」

 ロビーの窓を斜めに横切り続ける雪は背景の闇に包まれて形を曖昧にしている。時間が経つにつれ夜が抜けていき、雪が輪郭を取り戻し、光を放ち始める。支配人さんがサービスしてくれたコーヒーとハムトーストを交互に口に運びながら、リーマンさんはじっと窓の外を眺めていた。時折エントランスドアとローテーブル上のスマホに視線を投げた。両方とも、ホテルの眠りを覚まさないよう配慮するかのように沈黙を守っていた。

「おはよございます」と、眠気のすっかり抜けた声優さんがロビーにやってきて、リーマンさんの正面に腰かけた。

「おはようございます。早いですね」「昨夜は早く落ちちゃったんで、起きちゃいました。おしっこしたくて。いちばん効果的な早起き作戦って、飲みまくることなんですよね。尿意って眠気を吸い取るじゃないですか」「分かります」「リーマンさんもずいぶんと早起きですね」「もともとあまり眠れないんです」

 声優さんのもとにコーヒーとハムトーストが届けられる。彼女はお礼を言ってカップを両手で大切そうに包んで一口すすると、「聞いてください、嫌な夢見ちゃって」と言った。「なんか変なデスゲームに巻き込まれてて私。人間同士で殺し合うんです。でも自分は安全だって確信しているんですよ。というのも、真っ白な清潔な部屋があって、そこにいると私以外の人が入ってきたら自動でレーザーだか火炎放射だか、覚えてないけどとにかくオートで退治してくれる仕組みなんです。だから私は安心してベッドで眠るわけです。でも急に扉が開いて、小学生の時に仲が良くも悪くもなかった同級生が当時の姿のまま入ってきてシームレスに迷いなく襲い掛かってきたんです。でも部屋の防犯機能はうんともすんとも言わず私はそのまま攻撃を受けてそこで目が覚めるという」

次々と、計画のメンバーたちが目覚めてロビーにやってきて、「おはよう」を積み重ねていく。

「リーダーまだ来てないってヤバくないすか?」とフリーターさんは全然ヤバくなさそうに言った。

「昨夜リーマンさんが送ったグループLINEのメッセージ、既読は現在7。自分自身はこの数字にカウントされないので、一人だけ見ていないことになりますね」

 一同はそれぞれみんな、自分はすでに既読の足跡をつけたと報告した。

「すると、未読なのは看護師さんかリーダーですね。もしリーダーなら、ちょっと、いやかなり心配ですね。何かトラブルがあったのかも」

「困りましたな」役人さんは両手を組んで顎を乗せ、ため息と言葉の中間みたいな空気の塊を宙に浮かべた。「リーダーがいないことには、どうにも……」

「まだ決行までは時間ありますし、もう少し待ってみましょう」とリーマンさんが場を収め、一同はバラバラな熱量の同意を示して一旦解散した。ある者はロビーに留まり、ある者は部屋に戻り、ある者は一階をあてもなく歩いた。

 ロビーに残ったのは、リーマンさんと学生さんだった。

「たぶんリーダーは来ないと思います」と学生さんは突き放すように言った。

「どうして?」「なんとなくです。でも私、悪いなんとなくは必ず当たるんです」「実を言うと、僕もリーダーは来ないと思ってる。なんとなく」「二人分のなんとなくは立派な証拠ですよ」「困りましたね」「もう私たちだけでやりましょうよ」「本気?」「本気です」「でもリーダーが立案した計画だし、リーダーが指揮をとることになってる」「来ないリーダーなんてリーダーじゃないですよ」「うーん」「リーマンさんが代わりにリーダーをやるべきだと思います」「え? 僕が?」「はい。リーマンさんが適任だと思うんです。いちばん冷静だし、みんなのことを一番分かっている気がしますし」「買いかぶりすぎだよ。僕はただのサラリーマン。計画を導くリーダーなんて……」

 頭が自分の尻尾を噛んでぐるぐる回るような会話を繰り返しているところに、声優さんと弁護士さんが戻ってきた。

「何かありました?」場の緊迫した空気を感じ取った弁護士さんが尋ねた。

「弁護士さんも、リーマンさんがリーダーをやったほうがいいと思いませんか?」学生さんはさっきまでの勢いを殺さずに惰性に乗って弁護士さんに問いかけた。

「え? リーダーを? リーマンさんが?」「はい」

弁護士さんと声優さんは顔を見合わせ、「まあ、悪くないとは思いますが」「はい。リーマンさんならできると思います」と学生さんに与した。

 リーマンさんはそれに対して困惑の言葉を返したが、弁護士さんは分かっていますとばかりに言葉を続けた。「ですが、現実的には難しいでしょう。リーマンさんにはリーダーの資質があるとは思います。でもそれは今すぐにみんなを導いて計画を成功させることとはまた別です。計画の段取りはリーダーに一任しています。リーダーがきて、リーダーが導いてくれないと、やっぱり計画を成功させるのは無理でしょう」

「でも、リーダーは来ませんよ!」と学生さんは叫んだ。「誰かがやらないと!」

 騒ぎを聞きつけて、漫画家さんと役人さんとフリーターさんもロビーに戻ってきた。みんなが集まった時、すでに学生さんは半狂乱の状態だった。

「皆さんの覚悟ってそんなものだったんですか! 一人欠席しただけで諦めてしまえるような生半可な気持ちでここにきたんですか!」

 大人たちはおろおろと「落ち着いて落ち着いて」と諭すも、学生さんはみるみるヒートアップしていく。彼女はローテーブルに土足であがり、食器類をワイパーみたいに見事にごっそり蹴り落とした。恐ろしく柔らかいカーペットが衝撃を吸収し、食器は一つたりとも割れなかった。奇跡的に皿もカップも空っぽだった。

「今日を逃したら次はいつチャンスが巡ってくるか分からないんですよ! やらないといけないんですよ今日! 使命なんです、義務なんです! 私たちがやらないといけないんです! やりましょうよ、私たちだけでやりましょうよ! もういっそリーダーなんていなくていいですよ、やりましょうよ私たちだけで! 指揮官無しの兵隊だって戦えるじゃないですか! やれますよ、私たちならやれますよ!」

 学生さんは両手を広げたり胸を叩いたりして一同に熱く語りかけたが、反応はイマイチだった。たしかに面々の表情にはダメージが通った跡があったが、せいぜい目の粗いスポンジでごしごし洗った程度のものだった。

 その様子に、学生さんはついに泣きだしてしまった。ローテーブルのうえに崩れ落ち、両手で顔を覆った。

「ほら、天気もこんなんだし!」フリーターさんが宥めるように言い、窓の外を手で示した。「こんな吹雪じゃ、ねぇ?」

 リーマンさんが「とりあえず……」と言葉を発しながら学生さんに手を差し伸べたが、彼女はその手を振り払った。そして真っ赤に腫れた目でリーマンさんを睨み上げ、「私一人でもやりますから!」と絶叫して部屋の方へ走り去った。後を追うなどという愚行は誰も犯さなかった。

 残された一同は顔を見合わせ、誰かが打開策を叩き出すのを期待した。でももはや、生まれるのは諦めのため息だけだった。張り詰めた落胆の沈黙に、ため息は計画の終わりを宣告するピリオドのようにぽつんと浮かんでいつまでも消えなかった。

 沈黙に磔にされたように固まる一同の脇を、一人の少女が横切った。学生さんだった。彼女はダッフルコートを着てバッグを肩にかけ、あたかも今からちょっと外出してきますという風だった。それでも誰一人引き留めなかったのは、外が殺人的な吹雪に覆われているからだ。そこに自由意思を持った人間が自発的に進入していくなんて想像の枠外だった。しかし学生さんはいともたやすくその枠を超え、エントランスドアを越えた。開け放たれたドアから、決意表明の雄叫びのような吹雪が中に舞い込んできた。そして学生さんは吹雪の歓迎を受けるように、横殴りの白の中に溶けて消えた。

「何してるんだ戻れ!」一拍も二拍も、とにかく致命的なインターバルを経て、リーマンさんが怒鳴った。そして開いたドアに駆け寄って、一度外に踏み出すも、もはや打撃に近い雪の流れに押し返されるように後退りする。他の面々もドアに集まって「戻れ!」としばらく怒鳴り続けた。その時、ホテルがずぉぉぉんと鈍い轟音をともなって震えた。

「なんだ!」「上の階から聞こえませんでしたか?」「爆発?」

 リーマンさんが外に飛び出し、ホテルを見上げた。橙色の光が、雪のモザイクに歪められてぼんやりとゆらゆらと二階の位置で揺れていた。

「二階です! 火が出ています!」とリーマンさんはホテルの中に向かって叫んだ。役人さんと弁護士さんが出てきて、その言葉が事実であることを確認した。

 いったん中に戻ってドアを閉め、また「どうしよう」という段階に帰結した。

 支配人さんと受付さんが駆け寄ってきたが、一向に客たらに指示を与えずじっと佇んでいる。まるで誰かからの指示を待つかのように。

「とりあえず消火を」とリーマンさんは支配人さんに詰め寄った。「消化器はどこですか?」

「消化器は廊下に多数設置してありますが、しかし火の元である二階に上がることはできません」「なぜですか」「先日申し上げましたとおり、通行止めなのです」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ、火事なんだよ火事!」と漫画家さんが支配人さんの胸ぐらを掴んで睨み顔を寄せた。

「大変申し訳ありません。私もできることなら消火にあたりたい所存です。しかしどうしようも無いのです。私には二階へのアクセスの権限が無いのです」

「支配人だろあんた!」フリーターさんが漫画家さんの手をわざわざ引き離してから改めて支配人さんの胸ぐらを掴み上げた。

 どんなに詰っても、支配人さんは同じトーン同じイントネーションで「申し訳ございません」と繰り返すだけだった。

「とりあえず『飛び地』に避難しましょう!」とリーマンさんが叫んだ。昨夜、例の居酒屋については話したので「飛び地」だけで話は通じるはずだった。「地下道を通れば、安全に行けるはずです」

「申し訳ございません」と、支配人さんがトーンとイントネーションを陰鬱にして言った。「『飛び地』へ行くことはできません」

「なぜですか?」「地下道が封鎖されているからです」

 弾かれたようにリーマンさんはカウンターに向かって駆け、回り込む手間を惜しんで飛び越えて内側に着地した。カウンターの後ろのドアのノブを回し、地下道への階段を出現させる。暗い階段を慎重に、だけど可能な限り早く下ると、壁にぶちあたった。壁? 一昨日はこんな障害物は無かったはずだ。防火扉でも閉まっているのかとノブを手探りするも、一向に出っ張りの感触がやってこない。へこみもない。平面。つるつる。壁。壁だ。地下通路が壁で塞がれている。

 リーマンさんは無駄な足掻きをせずに踵を返した。ロビーに戻ると、一同の視線が一斉に襲いかかってきた。リーマンさんは「塞がっていました」と、詳しく話さなくても絶望的な現状が伝わる声調で言い放った。

「逃げ場がねぇじゃんどうすんだよ!」とフリーターさんが叫んだ。「ジッとしてたら焼け死んじまうし、外に出たら凍死じゃん!」

「ちょっと喚かないでください! 落ち着かないと!」と弁護士さんが金切り声をあげた。「いやいや落ち着いてなんていられないでしょ実際やばいんだし!」と漫画家さんが半泣きで謎の身振り手振りを添えて叫ぶ。「万事休す」と役人さんは諦めモードに入っている。パァァァンと上階から何かが弾け飛ぶ鋭い音が響いてきた。「どうしよう、ねえどうしよう、もうやだこんなの……」声優さんは床にしゃがみ込んで頭を抱えてしまう。支配人さんと受付さんは一同に、憐れむような、突き放すような、いずれにせよネガティブなまなざしを向けてじっと突っ立っている。

「地下道以外に逃げ道はないんですか?」と、リーマンさんはホテルの二人に尋ねた。支配人さんも受付さんも、シンクロしたようにそろって首を小さく横に振った。

 リーマンさんは床に視線を落とし、落ちた視線と見つめ合うようにしばらく静止したのちに、「皆さん!」と叫んでローテーブルに飛び乗った。7×2の瞳から発せられる視線が絡みあってぎゅぅぅぅんとリーマンさんに突き進む。リーマンさんはそれをしっかり受け止めると、すっと息を吸い込んだ。

「やりましょう! というかもうやるしかないです! 学生さんの言っていたことは正しかった。後戻りはできないんです。リーダーが不在だろうと、天気が荒れていようと、そんなものは言い訳です。僕も人のことは言えません。僕はリーダーが来ないことにも、吹雪が一向にやまないことにも、どこかほっとしていました。計画をやらずに済むのではないかと期待していました。臆病でした。でも勇気を持ちます。計画を遂行します。学生さんの後に続きます。行きましょう、未来のために、やりましょう、未来のために!」

 ロビーはしんと静まり返る。リーマンさんが次の言葉を発するのを、みんな待っているようだった。でもリーマンさんはそれ以上続けずにローテーブルから降りると、「準備してきます」と言い残してロビーを立ち去った。彼の背中が廊下に消えると、俺も、私も、と次々と計画メンバーたちは駆け出してそれぞれの部屋へと消えた。

フル装備で再びロビーに集結したメンバーは、お互いの表情に決意を見た。誰もがホテル・島国を今すぐ出て行く覚悟を固めていた。

「出撃の前に水を差すようで恐縮なのですが、ひとつ解せないことがありまして」と役人さんが小さく手を挙げた。

「どうしましたか?」とリーマンさん。

「私の爆弾が消えているのです」役人さんはボストンバッグを広げて、中を一同に見せた。衣服と食料と酒と、大きな黒い空白が入っている。その空白に、爆弾ははまっているはずだった。

「実はさ、俺の銃も」とフリーターさんが言った。「消えた」

 一同は沈黙の膜を作り出したが、上階からガラスが弾け飛ぶ音が響いてきて慌てて膜を破って進軍を開始した。

「皆様」

 呼び止められ、一同は振り返った。支配人さんと受付さんが、コートを着て大きなリュックを背負い、立っていた。

「私たちも同行します。よろしいでしょうか?」

「計画を手伝って頂けるということでよろしいですか?」とリーマンさんが確認した。

 支配人さんと受付さんは揃って、小さく縦に頷いた。

「見てください、ちょっと雪が弱まってきてませんか?」と声優さんが声をあげた。

 確かに、横殴りの吹雪はいくぶんか勢いを失い、殴るから叩くくらいには弱体化していた。

「では、行きましょう」

 リーマンさんがエントランスドアを開け放つ。考え直すよう説得するように吹雪がなだれ込んでくる。

 その説得に応じず、一同は外へと踏み出していく。


〈了〉

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ホテル島国 しおみち @shiomichi4040

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