「学生さんですかね?」と声優さんが空気に尋ねるように言った。リーマンさんが「おそらく」と答えた。

 少女は灰色のダッフルコート、紺色のスカート、黒のタイツ、黒のローファー、茶色のスクールバッグ、という格好だった。学校帰りのような格好だが、今日は休日のはずだった。全員の休日を考慮したうえで、リーダーが今日集合の明日決行というスケジュールを組んだのだ。

 受付カウンターの向こうには既に受付さんが生え、用紙とボールペンを用意している。

 少女は、ローテーブルを囲む面々に大きくお辞儀をし、その勢いを殺さずにカウンターの前まで移動した。手続きを済ませてルームキーを受け取ると部屋に向かおうとしたが、面々の6×2の瞳が織りなす網に捉えられ、ぴたりと足を止めると、部屋に続く廊下に浮気の言い訳をするような視線を一度向けてからローテーブルに恐る恐る歩み寄ってきた。

「そんな硬くならないで」と漫画家さんが立ち上がって馴れ馴れしい角度のお辞儀をする。

「そんなこと言われると余計に硬くなっちゃうでしょう」と弁護士さんが漫画家さんをひと睨みし、目元を溶解させてから少女に視線をパスした。「学生さんですね? ようこそ、計画コミュニティへ」

 学生さんはジョイントの関係で四十五度ごとにしか背中が曲がらない人形みたいなお辞儀をして、慎重にソファにお尻をつけた。とても座り心地のいいソファで、お尻から程よい柔らかさが這い上がり彼女をリラックスさせた。彼女の怯えに満ちた眼差しは一気にクリアになったが、眼鏡が曇っているせいで一同はその変化に気づかず、相も変わらず存在しない緊張を解こうと不毛な努力を重ねた。寒くない? 先に温泉行く? え大丈夫? 靴濡れてない? え大丈夫? 風邪ひかないようにね。温かい紅茶あるよ。

「皆さん、お早いご到着で」と、学生さんがか弱そうな見た目に反して低くてボーイッシュな声で言った。

「うん。みーんなチェックインの時間守らなくて」漫画家さんがなおも緊張した相手向けの媚びた声色で語りかける。「学生さんだけだよ、ちゃんと時間守ったの。えらい」

「私とリーマンさんは前乗りなのでちゃんとチェックイン時間守りましたよ」と声優さんが弁明する。

「こんなにお若い方だったとは。まだ中学生では?」と役人さんが眉尻を下げる。

「はい。二年生です」「まだまだこれからという年齢で、こんな計画に参加される決意をされるとは……」

 役人さんの言葉は、意図せずも学生さんに身の上話の水を向ける形になった。6×2の瞳が学生さんの顔に集まる。

 学生さんの眼鏡はもうクリアになっている。眼鏡の向こうの透き通った瞳が放つ視線がローテーブルにそっと落ちる音がロビーの空気をさざ波立たせる。

「学校で、嫌なことありまして。一年耐えたんですけど、もう限界で」

 学生さんはそれだけ喋ると、重石のように沈黙した。二度と持ち上げられることは無いだろうと予感させる沈黙で、誰一人続きを促しはしなかった。

「ともあれ、あとはリーダーを待つのみ!」と漫画家さんが手を陽気に打ち、それから思い出したように学生さんに看護師さんが欠席であることを教えた。「リーダー来ないと最終ミーティング始められないし、それまではぱーっとやりましょう! 最後の晩餐みたいな感じで」

「本来の最後の晩餐は決してぱーっとという雰囲気ではありませんし、今は晩餐には早すぎる時間ですが、そうですね、ぱーっとやりましょう」と弁護士さん。頰が紅潮しているのは、お酒のせいか、昂った心のせいか。

「飛び地」から運んできたらしい居酒屋料理が、支配人さんと受付さんの手によってローテーブルに並べられていく。揚げ豆腐、厚焼き玉子、ざるそば、ゴーヤチャンプルー、ホッケの塩焼き、焼き鳥、ユッケ、枝豆、冷やしトマト、ナマコの酢の物……。酒とソフトドリンクも追加。ホテルのレストランが機能していなくても、「飛び地」さえ無事なら命は繋げるようだった。声優さんが「やっぱり『飛び地』の料理最高ですね!」とリーマンさんに笑いかけた。「最高です」とリーマンさんは頷いた。学生さんが数あるソフトドリンクの中からドクターペッパーを選んで飲み始めるのを見て、漫画家さんが「通だねぇ俺と同じ」と、愛娘に向けるような声で言った。

 弁護士さんと声優さんは二人で元カレの愚痴を始めた。「やっぱり車はSUVが無難!」と弁護士さんが証拠を突きつけるように言った。「いやね、その元カレが三度目か四度目かのデートの時にランボルギーニで迎えにきたのね、分かるランボルギーニ? スポーツカー。そうそうあの平べったくてドアがワケ分かんない開き方するやつ、あれで来たのね。それ見て私一気に不安になっちゃってね、いやべつにスポーツカーが嫌いなわけじゃなくて、ただねスポーツカーに乗る男って一人の例外もなくナルシストで、ナルシストって一人の例外もなく運転が荒いのね。とはいえ帰ってくれとは言えないから、愛想笑い浮かべながら助手席に乗ったのね。したら案の定、飛ばすわ飛ばすわ! 音もうるさいし! 野蛮な動物のオスって、でかい音立てたり体を実際以上に大きく見せたりしてメスにアピールするじゃない? たぶんあれと同じなんだろうね車飛ばすのも。あいつらにとってスピード=性的魅力なんでしょうね。猛スピードで別れてやった」

「ウケる」と手を叩いて声優さんは笑い、空になった弁護士さんのグラスにウィスキーと氷を追加した。弁護士さんはお礼を言ってグラスを手に取り一口飲んだ。

「地雷男って、三回目くらいではっきりしますよね」と声優さんは言った。「私の場合、特に酷かったのは、全然声優業界とは縁のないIT企業の役員の男だったんですけど、まず最初に会った時に髪が角度のエグいツーブロなの見て、おやって思って、明らかに筋トレしてる胸板見て、おやおやって思って」

「既にツーアウトね」「三振の予感がぷんぷんしてたんですけど、その時私すっごく病みまくってて、ちょっと優しくされるとコロっといくバカなチョロイン状態で、期待を捨てきれなかったんです。だから二度目も会って無難に過ごしました。で三度目の日、その日は電車でデートに行きました。私まだ大して売れてない時でマスクすらせずに普通に二人でデートに。私たちは席に座ってました。彼がうとうとし始めて、私も黙ってたんですけど、目の前に立ってる女の子がスマホを落として彼の手にぶつかったんです。そしたら彼、女の子のことすごい目で睨みつけたんですよ。女の子はいかにも気弱そうで喋るの苦手って感じの子で、無言で頭を下げて謝ったんです。それでも怒りが収まらないのか彼は舌打ちして、威嚇するように片手をポキポキ鳴らし始めたんですよ。女の子は怯えて車両を移っちゃいました。で、電車を降りて一緒に歩いてる時に彼『謝罪は言葉にしないと伝わらないよね』とか呟き始める始末で」「スリーアウトチェーンジ!」「まあ単に虫の居所が悪かっただけかもですけど」「虫の居所が悪かったは言い訳にならないでしょ。虫が悪い場所に移動するルートが存在する時点でそいつは欠陥品よ。でデートはどうだったの? 聞くまでもないけど」「その後のデートのことは何も覚えてないです。ひたすら彼が気持ち悪くて忌々しくて、早く帰りたいって念じ続けていたのは覚えてますけど」「災難だったね。声優さんの貴重な時間がそんなゴミによって消費されるなんて、これは立派な犯罪だよ」「電車って基本みんな他人でしかも無関心なので、素の姿が出るんですかねー」「脚組んでる奴とかも死んでほしいよね、邪魔すぎ」「脚組んでる人って99パー男ですよね!」「だいたい中年でね」「そしてツーブロック」

 役人さんとフリーターさんは■■■■について語り合っていた。

「あーやっぱ■■■■って■■■■とべったりだったんすね。あんなボンクラが首位当選なんておかしいと思ったんすよね」

「ちなみに次点で当選の彼女も同じですよ」役人さんは元アイドルの参議院議員の女性について述べた。「もちろんアイドルというネームバリューも大きいですがね」

「マジこの国って馬鹿しかいないんすかね、って高卒の俺でも思いますよ。アイドルが国政に参加して何ができるんすか? ロボットアニメのヒロインみたいに歌でみんなを元気にでもするんすか? 無理でしょ、あの人現役の時でも大して国民元気にしてないでしょたぶん、俺まだ生まれてなかったからよく知んないけどさ」「私は彼女の現役時代を知っていますが、まあ我々世代のおじさん連中のことは多少は元気にしてましたかね」「いやおっさん連中を元気にしてもしゃーないでしょうよ、いや役人さんは別っすよ、元気になってほしいですわほんと。でも大抵のおっさんって何もしなくても普通に無駄に元気じゃないすか。だって世の中がそういう風にできてんだもん、おっさんが有利に優先的に元気になるようにさ。俺もいずれおっさんになるけどさ、残念ながらたぶんもうそんな恩恵は受けられないだろうね。さすがに年金が一切もらえなくなるとかは思ってないけどさ」「フリーターさんのおっしゃることはご尤もです。しかしおじさん支配の一因が若者の政治への無関心にあるのもまた事実。若者がおじさんにノーを突きつける機会を自ら放棄してしまっている現状は、おじさんの私としても非常に嘆かわしく思います」「そーさねー、馬鹿さで言えば俺ら若者が一番やべーのかもね」「まあ国民性もあるでしょうな。全体主義と同調圧力の国ですから。みんな苦労してるのだから自分だけ弱音を吐いたり反抗したりしてはいけない、と。とりあえず現状維持で、と。海外なら巨大なデモが生じるようなことすら、黙って耐え忍ぶ習慣が身についてしまっている」「唐突でごめんですけど、役人さんはなんで計画に参加しようと思ったんすか? キッカケとかあるんすか?」「あれはいつ頃でしょうかねえ、退勤後に道を歩いていたらですね、背広姿の若い男性がふらふら歩いているわけです。一見ホワイトカラーのシャキッとした人なのですが、髭の剃りのムラと、見かけにそぐわない臭いに気づきましてね、ふだんならそんなことしないのに、彼の後ろをつけてみましてね。好奇心というほど若くもなく、憐れみというほど優しい感情でもありませんでした。気まぐれに野良猫をほどほどに追いかけてみるのと同じ感じですかね。そしたらその男性は路地に入っていって、ハンバーガーショップの裏手に回ったんです。寒い季節でした。私は路地の入り口で探偵みたいにコートの襟を立ててじっと彼を見つめていました。すると彼はゴミ袋を漁り始めたのです。ホームレス、それもなりたてのホームレスでしょう、動作に迷いと恥じらいが滲んでいました。私は彼が無事に廃棄のハンバーガーやらポテトやらを獲得できることを祈りました。彼はゴミ袋を三つか四つ開けて、諦めたように何も取らずに路地の向こうに消えました。私はさっき彼が開けたゴミ袋を覗いてみました。するとね、入っていたんですよハンバーガーとポテトがちゃんと」「え、じゃあホームレスのにーちゃんはなんで手ぶらで消えたの?」「水がかけられていたんですよ、ハンバーガーにもポテトにも。それだけでなく煙草の吸い殻やキッチン洗剤までぶちまけられていました。ホームレス対策でしょう。対策と言うより明らかに嫌がらせです。手間もコストも余計にかかるのに、そんなことする合理的な理由がありません。まあその時点では、私は極めて不愉快でしたがあくまで不愉快の域を出ていませんでした。でも、少し歩いて気づいたのですが、その店にはきちんと施錠ができる廃棄置き場が存在したのです。分かりますか? 本来なら廃棄はその中に置けばいいのです」「うわー、それは性格悪い店だなー。どの店? マック? モス?」「■■■■です」「うわー、イメージ変わるわー。名前忘れたけど割と好きな女優がCMやってっからさ。二度と食わねえわ。まあ計画の後はハンバーガーどころか霞すら食えなくなるかもだけどさ」「私が計画への参加を決意したのは、それが最後の一押しでした」「それと逆の話なら俺知ってるわ。とある個人経営のスーパーでさ、廃棄になった弁当や惣菜をね、ホームレスに配っていたんすよ。でも、ホームレスが集まってきて迷惑だって近所から苦情が入ってさ、結局やめになったんすよ。ホームレスの数なんてべつに大したことなかったんすよ、俺近くに住んでたから分かっけど。もし仮に、ホームレスに対してじゃなくて、家ある普通の連中に廃棄をプレゼントしますって企画だったら絶対に苦情なんて入らなかったよ。苦情の原因って、臭いとか騒音とか、たぶんそういうんじゃないと思うんすよ。実際ホームレスたちは静かだったし、臭いも全然気になんなかったし。本当の理由って、たぶん嫉妬なんすよ。仕事しないで税金納めてないくせにタダ飯貰ってずるいって、カスみたいな、働かざる者食うべからずみたいな、そんな心の貧しい奴らの一種の嫉妬が、貧しい人の生きる糧を奪い取っちまったんすよ。気が滅入りますよ」「そういう国に我々は生きているのですね」

 漫画家さんはいつの間にか部屋からノートパソコンと液タブを持ってきており、ローテーブルで漫画を描き始めていた。

「部屋でやればいいじゃないですか」と弁護士さんが流し目を突き刺して言った。

 漫画家さんはやれやれといった風に言い返す。「いやもう包み隠さず言いますけどね、描いてるところ見てほしいんですよ。いやべつに見られてうれしくなる変態は俺だけじゃないですよ。表現者ってみんなそうです。見てほしいんです、作業の風景、かっこいいところを。オタクなら尚更ね。ほらオタクって自分の好きな作品めっちゃ押し付けてきてうざいでしょ? で俺もオタクなんで押しつけがましいんですよ。自分というものを、自分を構成するものをとにかく見てほしいんですよ。いいから見てよ~、べつに見なくてもいいけどやりますからねここで」

 弁護士さんは口を曲げて眉をひそめ、声優さんとの会話に戻っていった。

 リーマンさんと学生さんは、特にこれといった話題を定めずに、たゆたう言葉を拾っては繋げて、摩耗し切ると宙に放り捨てるを繰り返していた。「なんか意外です」と学生さんは言った。「リーマンさんみたいな方が計画に参加するなんて」

「意外かな?」会話の中で敬語だと落ち着かないと学生さんに言われ、リーマンさんは不慣れなタメ口に努めていた。

「はい。なんていいますか、ぜんぜん絶望していないように見えます」「満員電車に毎日乗ってると、表情に本心が表れづらくなるんだよ、たぶん」「なら私も満員電車で通学すればよかったです」「というと?」「ほんとベタな話なんですけど、私学校でいじめられてたんです」学生さんは声を絞って呟いた。顔がにわかに紅潮した。リーマンさんは「無理しないで」と言ったが、学生さんは首を横に振ってから続けた。

「世の中のイジメを受けてる人たちって、大抵はたぶん明確な始まりの動機って分からないと思うんです。これといったキッカケがあったわけではなく、だんだんと少しずつ転がるようにイジメを受ける側に運ばれていって、気がついた時にはもう戻れない。でも私は違って、ある時仲良しだった子に『明日からあんたのことイジメるから』って宣言されたんです。冗談だと思ったのでなんでって笑って返したら、『あんたってすぐ本心が顔に出るから』って。どうも本気で機嫌を損ねたようだって気づいたので謝りました。ごめんね気をつけるねって。それで事は収まると思いました。普通は収まります。でも本当に次の日からイジメが始まったんです。その子とその仲間と、あとぜんぜん普段絡みが無い子、男子までもが私を無視するようになりました」

 気がつくと、一同は黙り込んで、意識を学生さんの話に向けていた。漫画家さんも液タブのペンを宙でぴたりと止めて、ぎゅっと口をつぐんでいる。その固い空気に学生さんは初め困惑して俯いて話を中断していたが、やがて意を決したように顔を上げた。

「私、その子とは毎日一緒に帰ってたし、一緒にディズニー行ったこともあります。一緒に笑ったり、しつこくナンパしてくるロリコン男に一緒に本気で怒ったこともあります。なのに、そんなことぜんぶ無かったみたいに急になっちゃって、私悲しいとか悔しいとかっていうより、ほんとにここは現実の世界なのかって混乱の方が大きくて、何らかの理由で世界線が移動したんじゃないかって本気で思って、信じられないかもしれませんがネットで並行世界のこといっぱい調べて元の世界への帰り方を研究しました。しょうじき言って、今でも世界線が移動した説は捨てていません。というかそうとしか考えられません。あの子がたった一日で、全ての思い出を無かったことにして私をイジメるようになるなんて、まだ信じられません。何度もあの子に『私たちって一緒にディズニー行ったよね?』って聞いてみようと思いました。でも彼女に近づくことすらできませんでした。怖かった。話しかけるのがじゃなくて、『うん、行ったね』って答えられるのが怖かった」

 そこで学生さんは言葉を千切り、その断面を確かめるような間を置いてからまた続けた。

「そこで計画を知りました。この計画で世界に大きな歪みが発生すれば、世界線が移動する可能性があります。元の世界に帰るのは無理だと思いますが、私を憎まないあの子が存在する世界には行けるかもです」

「愛だね」と漫画家さんが呟いた。とくに誰もリアクションしなかったけど、KY発言を咎める空気もなかった。漫画家さんの言葉が真剣そのものだったからだろう。

「気持ちは分かります、なんてことは私には当然言えません」と役人さんが言った。「でも学生さんのその感覚は決しておかしなものではないと断言できます。というのも、私も妻との、今となっては元妻ですが、彼女との関係で似たような経験がたくさんあるからです。些細なことで関係がぎくしゃくし、ねじれ、ほどけなくなる。プロポーズの時に泣いて喜んでくれた顔や、子供と三人で出かけた旅行先の数々、家のテーブル越しに会話する時の安らいだ空気、そういったあらゆる場面を鑑みて、いま現在の絶望的な関係をおかしいと思う。明らかに、いい思い出のほうが悪い思い出よりも多いのです。圧倒しています。でも結果は、悪い思い出側の勝利なのです。ありえない。何かの拍子にレールが切り替わって、悪い思い出が多い世界に移動させられたとしか思えない。と、しがないおじさんの愚痴でした」

 後から来た人ほど、メンバーの事情を知らない。そこで、最後に来た学生さんを除く全員が、計画への参加を決意した事情を改めて語った。情報が空白を埋めて共有され浸透していくにつれて、場の空気は硬質さと鋭さを増していった。学生さんとフリーターさん以外はその空気に対抗するようにアルコールをコンスタントに補給し、熱量がすでに天井近くに達していた。情報共有が終わるとあとは惰性で騒ぐだけになり、膨れ上がった熱が破裂するように声優さんがまず爆睡の網に捉えられた。弁護士さんとリーマンさんが両肩を貸すようにして彼女を部屋まで連れていき、刺身を盛り付けるように慎重にベッドに寝かせた。二人がロビーに戻ると役人さんが消えていたが、トイレに行っていただけですぐ戻ってきた。吸い殻で山盛りになっていた灰皿は空になっていた。廊下の薄闇に溶けていく支配人さんの背中が見えたので彼が回収したらしかった。

 漫画家さんが「できた!」と叫んで、完成した漫画を画像化してグループLINEに送って共有した。みんなそろそろ飲み食い以外の娯楽を求めており、全員の視線が自前のスマホに引き寄せられた。「ビフォア:レボリューション:アフター」というタイトルの短編だった。

「こんな短時間でこれを?」フリーターさんが片手でうっすら生えたあごひげをごしごし擦りながら言った。

「ラフ画だけどね。あと実は前半は事前に描いてあったんでね」「いやそれでも凄いでしょ、後半は今日描いたわけでしょ」「今夜が最後になるかもしれないし、忌憚ない意見を言ってね」

 内容は、暴政を敷く架空の国を舞台に、政権を打倒しようとする寄せ集め革命軍が、作戦決行前夜に飲みまくって酔い潰れて全てがどうでもよくなってしまいその場で解散するも、翌日なぜかきちんと定刻通りに議事堂は爆破され、再びメンバーが集まって「誰がやったのか?」と犯人探しをするもまた飲みまくってどうでもよくなってまた解散するという内容だった。

「漫画家さん、もしかして計画辞めたいです?」と漫画を読み終えた弁護士さんが言った。責めてるわけではなく、むしろ同情の色すら浮かんでいた。

「まさか。これは俺の決意表明みたいなもんですよ、逆にね」「逆に」「そう逆に。計画はやりますよ、明日必ず」

「なんといいますか、ちょっと藤子不二雄Aっぽさがありますね、FじゃなくてAのほう」と役人さんがコメントした。

「いやいやそんな恐れ多い……」漫画家さんはたじたじになる。「でも嬉しいですよ、ありがとうございます」

「漫画家さんさ、才能あるよ」とフリーターさんが言った。

「えほんと?」「あ意外な反応。あやっと気づいた?とか言うかと」「言わないよ。褒められたら普通に嬉しい」「すごいよ。キャラもみんな個性的だし。最初の会議のハイテンションな掛け合いとかすげー好きだよ。俺さ、和製漫画アニメ特有のハイテンションな寒いノリほんと嫌いなんだけど、漫画家さんのハイテンションはぜんぜん好きだわ。テンション高いのにウィットに富んでて、見てて気持ちいいわけ。ねぇ、議事堂爆破の場面で街のスピーカーから音楽流れてるけど、これなんの曲なんすか?」「チャイコフスキーのやつ。テーテレテレテレテッテッテーってやつ」「あああれね、なんて名前だっけ?」

 誰もタイトルを思い出せなかった。

 柱時計がぼーんと午後11時を告げた。「はやっ!」と弁護士さんが叫んだ。「リーダー、まだ来ませんね」

「こんな天気だし、立往生しているのかも」と誰かが言った。「連絡してみては?」と誰かが言った。「でもこっちからはコンタクトしないのがルールでは?」と誰かが言った。「もうそんなこと言ってる場合じゃないでしょ」と誰かが言った。「そういえばリーマンさん、今朝リーダーから電話あったんですよね?」と誰かが言った。「はい。電波が悪いのか、何言ってるのかさっぱりでしたけど。とりあえずLINE送っておきます」とリーマンさんが言った。

 リーマンさんがスマホを操作し、グループLINEにリーダーへのメンションのメッセージボックスを一つ追加する。それを自前のスマホで確認すると弁護士さんが腰をあげた。「温泉入って寝ます」

「倒れないようにね、弁護士さんかなり飲んでるし」漫画家さんがドクペのペットボトルを鑿を回転させるように両手で弄びながら言った。

「こんなのまだ飲んだうちに入りませんよお気遣いどうもありがとう」

弁護士さんが消えた後、ロビーを舞う会話と会話の間隔がみるみる離れていき、やがて空白の方が大きくなった。半目の学生さんの首がこくこく前後に揺れているのを見て、リーマンさんが「そろそろお開きにしましょうか」と言った。みんな誰かがそれを言うのを待っていた。異論は影すら現れず、全員が席を立つ準備を始めた。リーマンさんは、散らかり放題の卓上を片付け始めたが、背後から「こちらで片付けておきますので、どうぞお休みになってください」と支配人さんに声をかけられた。彼の隣には受付さんも両手を前で組んでまっすぐ立っている。二人並んでいると、どこか表情にお互いの面影があった。とはいえ支配人さんにはあって受付さんにはなく、受付さんにはあって支配人さんにはない要素も数多く、というかそっちのほうが多く、数字で考えれば二人は似ていないはずだった。

 リーマンさんはお礼を言って温泉に向かった。静かだが、人の気配が磨りガラスで屈折して脱衣所に溶け出していた。服を脱いでロッカーに仕舞って、アメニティの清潔なフェイスタオルを棚から一枚取って浴場に入った。

 檜風呂に漫画家さんとフリーターさんが浸かっている。二人は上を指さしたり水面を指さしたりしていて、その姿は二人の哲学者を描いたダヴィンチの絵のパロディみたいだった。役人さんはシャワーでシャンプーを洗い流している最中だった。

「ああリーマンさん」とフリーターさんが気づいた。「お疲れ様っす。飲んで食って駄弁るだけでもけっこう疲れるもんなんすね」

 リーマンさんは髪と顔と体を洗ってから檜風呂に入った。すでに漫画家さんとフリーターさんはサウナに移動していた。役人さんは炭酸風呂の中で目を閉じてじっとしている。

 露天風呂に続くガラス戸を見る。殴りつけるような雪の塊が無数に宙を斜めに落下している。リーマンさんは檜風呂から出ると、ガラス戸を開けて外に出た。昨日のコピペみたいな吹雪が体にまとわりつく。早歩きで岩風呂に移動し、つま先で水面に触れるとちょうどいい温度だったので一気に肩まで浸かった。肩から上が雪の猛攻に曝されているが、リーマンさんは心地よさそうにため息をついて東屋の天井を見上げる。そう、東屋がある。にもかかわらず吹雪は天井を回避するようにするすると侵入してくる。

 後から役人さんもガラス戸を開けて外に出てきた。吹きつける白い暴力に身を縮めて手探りでちょぼちょぼ歩いている。目を開けていられないようだ。

「ここです」とリーマンさんは声の縄を投げ、役人さんは縋るようにそれを掴んで無事岩風呂に到着した。

「命がけですな。服を着ていないので余計に」役人さんは言うと、温泉のお湯を両手ですくって自分の顔にかけた。

「ぜんぜんやみませんね雪」とリーマンさんは言った。

「そうですな。明日、きちんと計画を実行できるのか不安です」「この勢いのままだったら、確かにやり遂げられるか不安ですね」

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