「あ、リーマンさん!」声優さんが日向の向日葵みたいな笑顔を弾けさせて駆け寄ってきて、リーマンさんの手をとった。彼女の顔は上気し、瞳には涙の膜が張られていた。「見つかったんですよ役人さん!」

 確かに声優さんの肩越しに、50絡みの男性がばつの悪そうな笑みを浮かべて立っていた。「ご迷惑をおかけしました」とへこへこと低頭している。

 リーマンさんは彼に歩み寄って「役人さんですか?」と尋ねた。

「ええはいそうです。この度はどうもすみません」「自力で来られたんですか?」「ええはいそうです。迷っているうちに小さな倉庫みたいな建物を見つけまして、そこに入ると地下に下りられたんです。地下道を歩いていたら目の前にランタンを持ったこちらの方に出会いまして」

 役人さんは受付さんを手で示した。

「もしやと思って地下を探してみましたら、偶然ばったりと」と受付さんは氷のような表情で平坦に言うが、直後に溶けるようにふんわりと広角を上げた。

「体冷えてないですか役人さん?」と漫画家さんは自分の冷えた体を両手で抱きかかえるようにして尋ねた。「部屋のお湯出ないんですよここ。でもいい温泉とサウナあるんですっ!」

「私はもうぽかぽかです。生来暑がりな体質なもので。お気遣いありがとうございます」「ぅぅぅん。俺はちと失礼!」

 そう言い残し、漫画家さんはロビーを走り去っていった。

 役人さんの黒い中折れハットとトレンチコートには雪の名残の水滴がところどころ張り付き、天井の蓮のような形状のシャンデリアから降り注がれる光をいったん含んでから周囲に小さく散らしている。足元にはミルクコーヒーのような色をしたびしょびしょのボストンバッグが雑に置かれており、持ち主がついさっきホテルに到着したことの証人になっている。

 他の人たちと同様、役人さんも受付でチェックイン手続きをし、他の人と同じように、書類の簡素さ、というより適当さに適度な驚きを表明していた。彼はカードキーを受け取るとリーマンさんたちに会釈をして部屋にコートとハットを置いて戻ってきた。ボストンバッグは依然持っている。持ち手の手への食い込み具合からしてそこそこ中身は重そうだ。

 ハットをとった役人さんは白髪が目立ち、十歳ほど老け込んだようだった。というより若返っていた十歳分の年月が任期を終えて帰ってきたようだった。

「計画の参加者は……」言いながら役人さんはロビーのメンツを見回した。「あと来てないのは四人ですね」

「ええ」と弁護士さんが答える。「看護師さんとフリーターさんと学生さん、あとリーダーがまだです」

「座りませんか?」とリーマンさんは言い、ソファを手で示した。

 役人さんと弁護士さんは頷き、お互いに先に座る権利をどうぞどうぞと譲り合って五秒ほど膠着した後にまず役人さんが座った。次に弁護士さん、声優さんの順で座り、最後にリーマンさんが座った。ローテーブルを挟んでこちら側がリーマンさんと弁護士さん、反対側が役人さんと声優さんという配置だ。支配人さんと受付さんはいつの間にか姿を消している。

 ひとまず四人は自己紹介をし、一周したタイミングでリーマンさんが「すみません、電話が」と言い、ポケットからスマホを取り出した。LINE電話が着信していた。「あリーダーからです」

「リーダーから?」弁護士さんが眉をひそめる。「電話なんて珍しいですね」

「とりあえず出ます」リーマンさんはソファに座ったままで電話に応じた。「もしもし」

「ガガガガガガガガガガガガガガ」「あの、もしもし?」「ガガガガガガガガガガガガガガ」「すみません、ちょっと何をおっしゃっているのか聞き取れなくて」「ガガガガガガガガガガガガガガ」「たぶん電波が悪いっぽいです。申し訳ありませんがメッセージでのやり取りでお願いします」「ガガガガガガガガガガガガガガ」「え? それだと都合悪そうですか?」「ガガガガガガガガガガガガガガ」「うーん、すみません切りますひとまず」

 リーマンさんは電話を切った。そして何かを聞かれる前に「電波悪くて聞き取れませんでした。でもなんか切羽詰まった感じでしたね」と言った。

「何かトラブルでもあったのでしょうか」と声優さんは眉尻を下げる。「グループLINEのメッセージで聞いてみましょうか」

「しかしこちらからはリーダーに連絡しないのがルールでは?」と弁護士さんが言った。

「そういえばそうでしたね」「必要ならまた連絡してきますよ」「ですねー。でもなんでリーマンさんに電話をかけてきたのでしょう? 今まで連絡は全てグループLINEで一斉に送ってきてたのに」「リーマンさん何か心当たりは?」

 弁護士さんに尋ねられ、リーマンさんは宙に目線を泳がせてじっと数秒黙った後に「特にありませんね」と答えた。

「これ、よければどうです」と役人さんは相好を崩し、ボストンバッグの中からウィスキーのボトルを取り出した。

「あすごい!」と弁護士さんは声を弾ませ、ボトルを様々な角度から検分する。「レア物ですね」

「仕事のツテでの頂き物です」「ぜひいただきます。あえっとグラスが要りますね。支配人さんから借りてこようかな……」「グラスならそこに」

 そう言う役人さんの視線の先は、隣のローテーブルだった。そこにぴかぴかのウィスキーグラスが四つと、氷の入ったアイスペールが置いてあった。アイスペールの縁には小さなでっぱりがあり、そこにトングがかかっている。

「支配人さんが用意してくれたんですかね?」とリーマンさんは言った。「たぶんそうなんでしょう」

 距離的に一番近い弁護士さんがグラスを四つ両手で掴んで、最初に役人さん、次に声優さんの前にひとつずつ置いた。役人さんと声優さんはお礼を言った。次に弁護士さんはリーマンさんの前にひとつ置こうとするも、リーマンさんが手でそれを制して「僕、お酒は昼間あまり飲まなくて」と苦笑いを浮かべる。

「このお酒国産なんですけど、クオリティ高くて海外で大人気になっちゃって品薄でプレミアついているんですよ。飲んでおいたほうがいいですよ」

 リーマンさんは押しに負けて「それでは」と言いグラスを受け取った。

「まずはぜひストレートで」と言う役人さんに従って四人はアイスペールの氷を無視して酒を嗜んだ。弁護士さんと声優さんは息の合った双子の姉妹みたいに揃って「うーん!」と顔をくしゃっとほころばせて全身で感想を表現した。リーマンさんは言葉で「おいしいです」と言った。

「お三方は、違いの分かる方々なのですね」役人さんはどこか疲れ切った表情で言った。「実を言うと私にはサッパリ分からなくてですね。スーパーで千円ちょっとで買える安酒との違いが」

「実を言うと僕もあまり違いの分かる人間ではなくて」とリーマンさんは言った。「でもプレミアついてるという情報があると、なんていうんでしたっけ、プラシーボ効果ですか? それで三段階も四段階もおいしく感じます」

「私はちょっとお酒に詳しいもので」と弁護士さんは言い、「私は味覚と嗅覚に自身ありで」と声優さんが続いた。

「こりゃ、女性陣に全て飲んでいただいたほうがお酒も幸せかもしれませんな」と役人さんは笑って、それが他の三人に伝播して波紋みたいな笑い声が控えめにロビーに広がった。

 一時間ほど経過した。漫画家さんはまだ温泉から帰ってこない。

 ウィスキーはプレミアの気高さゆえに四人の攻撃の手を緩めさせ、まだ七割ほど中身を残している。ホテル内に缶ビールや酎ハイ、それからつまみの貯蔵があることを支配人さんから聞き出し、声優さんのリクエストでそれらがテーブルに運ばれていた。ビール酎ハイときどきウィスキーのリズムで四人は真昼の酒宴を進めていた。ソフトドリンクとホットの紅茶も後々運ばれてきた。

 リーマンさんは二本目のビールを開けたタイミングで「もしよければ役人さんが計画への参加を決意した理由を教えていただけませんか?」とお願いした。

 役人さんは躊躇いも逡巡も見せずに「分かりました」と答えた。おのおのくつろいだ格好で座っていた三人はごく自然に居住まいを正し、話を聞く体勢になった。

「まず結論から申し上げますと、私はとある公文書の改ざんに手を染めました。文書の真相が公になれば大臣クラスの政治家の首が、いや場合によっては総理の首が飛ぶような内容の文書です。私はある休日の昼下がり、電話で上司に呼び出されてせこせこと文書の改ざんに勤しみました。都合の悪い箇所をちまちま削除したり書き換えたりしたのです。その改ざんはやがて露見し、知ってのとおり世間から注目を浴びるようになりました。ええ、そうです、いま世間を騒がせているあの疑惑です。私は文書の改ざんと平行して、その事実を告発するための文書も作成していました。しかしその文書データは結局お上に回収されてしまい、長らく闇の向こうに隠されていました。野党の追及の末ようやく国会に引っ張り出された時には既に、その暴露文書すら改ざんされた後でした。改ざんといっても文言の削除や書き換えではなく、プライバシーに配慮してとかそういうもっともらしい理由をこじつけて肝心な個所を黒塗りだらけにしたわけです」

 役人さんはそこで一旦話をとめ、ウィスキーをグラスに親指の太さ分ほど注いで、それを一気に呷った。ウィスキーでなく梅干しでも口に含んでいるかのような表情で彼は喉ぼとけ一度上下させる。そして空のグラスをローテーブルにゆっくり、そうしないとグラスとテーブルが対消滅してしまうのだという風にゆっくり置いた。

「私は■■財務局の幹部職員でした。我々は、とある国有地を、国と宗教法人■■■■がスムーズに取引できるよう手を回しました。知ってのとおり、■■■■は霊感商法で有名なカルト団体です。大きな問題なく、条件付きで借地契約が締結されました。その後、その土地から大量の地下埋設物が発見されたということで、国は不動産鑑定士の査定価格■億■■■■万円から■億■■■■万円を値引きして、最終的に■億■■■■万円で■■■■に早期売却しました。そしてこの大幅な値引きに首相夫人が関与していたのでは、という疑惑が浮上し、我々は不都合な真実をもみ消すことになりました。私に改ざんを指示した■■は国会での証言を拒否しました。そりゃあそうです、叩けば叩いただけ埃が出る身なのですから、証言なんて死んでもしないでしょう。でも皆様知ってのとおり、A新聞が改ざんについてのスクープを飛ばして世間を騒がせています。財務省は今てんてこ舞いですよ。彼らの今後の動きは容易に想像できます。まず私が切られます」

「そんな、役人さんは悪くないじゃないですか」と声優さんが叫びと囁きを同時に絞り出すように掠れた声で言った。

「そう言って頂けると少しだけ救われます。ですが私はシロではありません。改ざんを実行したのは他でもない私なのですから。この国では、何事も何人も末端から切り捨てられていきます。役人に限った話ではありません。実際、恩恵を受ける順序を後ろにずらされることによって、結果として大勢の一般の国民の皆様が切り捨てられています。背広を着て椅子にふんぞり返っているだけの人間が不当な搾取で莫大な利益を手にし、汗水たらして働く者の手には残りかすしか行き渡りません。と、脱線してしまいました、失礼。結局のところ、改ざんに携わった人間の中で私は一番の下っ端です。まず私が切られるのは間違いありませんし、回避は不可能です」

「なんとかならないんですか? こんなの絶対おかしいじゃないですか」声優さんは弁護士さんに勢いよく尋ねた。その叫びの裏には、法律の力で役人さんを助けてあげることはできないのかという懇願が透けて見えた。

 弁護士さんは一度口を開きかけたが、口に入れようとしたものが想像以上に大きかったかのように諦めの表情でまた口を閉じてしまった。

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