リーマンさんは一人になった。ホテル内を散策することにした。客室が連なる廊下を抜けると、コインランドリーやリラクゼーションルーム、それからシアタールームも見受けられた。

 やがてエレベーターを見つけたので、リーマンさんは気まぐれに上ボタンを押した。しかしボタンが点灯しない。もう一度押してみても同じだった。運行階表示器も点灯しないので、エレベーターが現在どの階にあるのかも分からない。また上ボタンを押す。かち。リトライ。かちかち。かちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかち……。

「お客様」

 背後から声をかけられ、リーマンさんは振り返る。そこには支配人さんが立っていた。

「大変申し訳ございませんが、現在エレベーターは停止しております」「節電ですか?」「さようでございます」「そうですか。階段はどこにありますか?」「階段も現在通行止めとなっております」「通行止め? 階段がですか?」「はい。ご迷惑をおかけしますがご理解いただけますと幸いです」「分かりました」

 リーマンさんは来た道を引き返して、自室に引っ込んだ。そして電気ケトルで沸かしたお湯で温かい緑茶をつくって飲みながら、吹雪が吹き荒れる外の景色を二重窓越しに眺めた。窓枠に雪が吹き溜まって、意識を失いかけて朦朧とする人間の視界のように景色は楕円形に切り取られている。内外の温度差にもかかわらず不思議なくらい窓は曇っていない。リーマンさんは内窓と外窓のあいだの空気層に「大丈夫? きつくない?」と尋ねるように内窓をこんこんと人差し指の第二関節で叩いた。緑茶を飲み終える寸前にサービスの茶菓子を棚の中に見つけ一口で食べた。

 することがなくなりぼんやりしていると、スマホに着信があった。見るとLINEへの着信だった。計画のメンバーのグループLINEだ。送信者は役人さんだった。どうやらホテル•島国の駐車場前でタクシーを降り、駐車場の中へと足を踏み入れたまではよかったが、なぜかいくら歩いてもホテルにたどり着けないのだという。遭難だ。

 トーク画面にぽんと新規メッセージが表示された。送信者は漫画家さんだ。

――確かに駐車場の中には入ったんですね?

――はい間違いなく

――周りに目印になりそうなものは?

――真っ白で何も見えません雪だけです

――ひとまずそこで動かずジッとしていてください。探しに行きます

 すぐに、隣の部屋のドアがバタンと開く音が伝わってきた。

 リーマンさんもチェスターコートを羽織ると部屋を飛び出して、ロビーを早足で歩いている漫画家さんに「僕も手伝います」と声をかけた。

 エントランスドアの前に、支配人さんと受付さんが通せんぼするように立っていた。

 リーマンさんが事情を話すと、支配人さんが「少々お待ちください」と言い残して去り、二分ほどして戻ってきた。彼の手には、真ん中に穴があいた大きな円盤のようなものが携えられていた。巨大な五円玉か巨大なパイン飴みたいな見た目だ。

「縄です」と支配人さんは言った。「100メートルあります」

 受付さんが丸く纏められた縄を支配人さんから受け取り、それを慣れた手つきでほどき、先端を漫画家さんのベルトに結んだ。

「決してこの縄の許す以上は進まないでください」と受付さんはきつめの口調で言った。「帰って来られなくなります」

 漫画家さんは頷くと、エントランスドアを飛び出して行った。縄が床を蛇みたいにしゅるしゅるとうねって彼の後を追っていく。

 五分ほどすると漫画家さんは頭に雪の髪飾りを光らせてガチガチ歯を鳴らしながら戻ってきた。「やばいやばい寒すぎ死ぬわこんなのやべぇよちくしょう」

 漫画家さんは震える手で腰のベルトから外した縄を今度はリーマンさんに繋ぎ、「俺は左周りに歩いてみました」との申し送りをする。

 リーマンさんはエントランスドアを出る。ホテルの外壁を右手に歩いていく。

 ほとんど打撃に近い吹雪の歓迎を受ける。目を開けていられない。前傾姿勢で腕を顔の前で構えて一歩一歩ゆっくり進んでいく。ざくっざくっと雪を踏みしめる音が立ちあがり吹雪の鳴き声に乗って後方へ飛ばされていく。「役人さーん」と張り上げる声も前に飛んでいかない。開いた口を塞ごうと雪の弾丸が次々に飛び込んでくる。

 白く煙る前方に、駐車場を囲むブロック塀がおぼろげに見えてきた。リーマンさんは左へと舵を切り、ブロック塀を右手に歩いていく。やがて駐車場の出入口に立つ看板がかすかに見えてきた。ようこそ、ホテル・島国へ。

 出入口から道路へ出ようとした時、リーマンさんとホテルを繋ぐ縄がぴぃぃんと張り詰めた。無理に進もうとすると、ぐいっと後方に引っ張られた。リーマンさんは立ち止まって目を細めたまま、真っ白な周囲を見渡した。それから縄を伝ってホテルへとまっすぐ引き返した。

 まだ昼間のはずだが、空を覆う雲にはどす黒い闇が溶け込んでいる。

 ホテルが見えてくる。五階建ての建物だ。節電のため昼間は不要な明かりは点されていないはずだが、五階の窓のひとつから柔らかい明かりが漏れ出して、横殴りの雪に滲んで瞬いている。

 ポーチを上がり切ったところで体から雪を叩き落とし、リーマンさんはエントランスドアをくぐって中に入った。中では、漫画家さんと支配人さんと受付さん、それから温泉帰りの声優さんと弁護士さんが、安っぽいドラマのワンシーンみたいに横一列に並んで立っていた。

 声優さんが失望から身を守るために身を固めながら「どうでした?」と儀式的に尋ねてきた。聞くまでもないことだが、退勤の挨拶と同じで、それを言わないと時間に一区切りつかないからとりあえず言わなければならないことではあった。リーマンさんは無言で首を横に振って応えた。それに対して誰も失望を表明しなかったし、むしろなぜか安堵の空気すらあった。

「支配人さん」とリーマンさんは言った。「通行止めという話でしたが、有事ですので上の階に上がらせてもらってもいいですか? 高い場所から俯瞰すれば、きっと見つかるはずです」

「なるほど」と漫画家さんが手を打った。「その手がありました! 役人さんが駐車場のどこかにいるのは間違いないんだし!」

「申し訳ございませんが」と支配人さんは申し訳なさそうに言うが、目には尖った光がちらりと鋭く走った。「二階以上に上がることはできません」

「なんで?」漫画家さんが詰め寄った。「早く助けないと役人さん凍死しますよ!」

「二階以上の場所から俯瞰したとしても駐車場を見渡すことはできません。この吹雪では不可能です。ご理解ください」

「いやでもやってみないと分からないのでは?」と弁護士さんが口を出す。

「申し訳ありませんが」と支配人さんは繰り返す。

「今このホテルには、僕たち以外誰もいないんですよね?」とリーマンさんは尋ねた。

「そのとおりです」「でもさっき外から建物を見たら五階の部屋に明かりが点いていました」「さようでございますか。消灯のチェック漏れがあったのかもしれません。後ほど確認いたします。ご協力ありがとうございます」

 イライラした様子で話を横で聞いていた弁護士さんが「人の命がかかっているんですよ!」と怒鳴った。

 それを聞くと、さっきまで一番そわそわしていた漫画家さんがスンと冷静になり、表情を消した。そして「……命、ねえ」とやや皮肉めいた調子で言った。

「なんです漫画家さん?」弁護士さんがすかさずつっかかる。「言いたいことがあるならはっきりとどうぞ」

「いやなんていうか俺たち計画に参加するわけだから、あんまり命がどうこう語らないほうがいいのではと」「なんです? 役人さんが今日凍死してしまっていいとそう言いたいわけですかあなたは?」「そうは言ってませんよ。ただ俺は……」

 弁護士さんも漫画家さんも誰に配慮してかウィスパーボイスで言い争いを続けている。他のメンツの注意は二人に注がれている。

 リーマンさんはそろりそろりと後ずさりし、逃げるように客室が連なる廊下へ滑り込んだ。そしてみんなの気配の触手が届かないところで駆けだした。エレベーターは停止しているので階段を探し回った。しかし一向に階段が見つからなかった。非常口らしき扉から外に出てみたが、非常階段も見当たらない。ゴーッと吹き込んでくる吹雪に言い訳するように慌てて中に戻って扉を閉めた。廊下の床に白く細長く輝く装飾がなされ、すぐに暖房の温かさで透明になった。

 リーマンさんはホテルの廊下を駆け回ってひたすら階段を探した。しかし上階へと進めそうな設備はやはり見つからなかった。けっきょく彼はロビーに戻ってきてしまった。そこで発見があった。

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