「おかえりなさい。長かったですね。こちら弁護士さん」新参の女性を手で示しながら声優さんは言った。「二十分くらい前に到着されたんです」

 どうやら弁護士さんも漫画家さんと同様、チェックインの時間を大幅に前倒ししてもらったようだ。

「はじめまして、サラリーマンです」とリーマンさんはお辞儀をした。「サラリーマンではなくリーマンと呼んでください」

「リアルで話すのは初めてですもんね、はじめまして」弁護士さんはソファから立ち上がり、腰を四十五度に折った。「この度はどうぞよろしく」それから頭を上げると、目をリーマンさんから僅かに逸らした。その視線は、リーマンさんの肩を鋭くかすって、彼の背後の一点に突き刺さっている。

 リーマンさんは首だけで背後を振り返った。漫画家さんが、弁護士さんの視線を受けて呆けた顔で固まっている。視線の処遇に困っているようだ。視線を辿って前に進もうか、あるいは視線に押される形で退場してしまおうか。たっぷり十秒は迷った末に彼はけっきょく前者を選択し、おずおずと弁護士さんに向かって歩みを進めた。

「ああやっぱりあなただったんですね漫画家さんって」と弁護士さんは言った。

「ええ俺です」と漫画家さんは答えた。「すみませんね俺で」

「こちらこそ私ですみませんね」「なんか最初から俺だって知ってた風ですね?」「あなたがLINEのアイコンに使っているイラスト、あれで分かりました」「ああなるほどTwitterと同じですからね」「偶然かとも思いましたけど、グループLINEでのやり取りの言葉選びの感じがまあTwitterとそっくりなもので」「言葉選びか。たしかに癖あるとはよく言われますね」「でしょうね。さ、ひとまずお二人とも席に」

 言われたとおり、リーマンさんと漫画家さんはソファに座った。ローテーブルを挟んで男女で別れる形になる。

 ローテーブルの上にはまだリーマンさんの食べかけの朝食が残っていた。ナマコの酢の物はあと一口ぶんしかなくて、コーヒーはすっかり冷たくなってはいるけど、とにかく残っていた。

「ほら」と漫画家さんは得意そうな笑みを浮かべた。「逃げなかったでしょう朝食?」

「逃げなかったですね」とリーマンさんは頷いた。

 音もなく支配人さんがローテーブルにやってきて、新しいトレイを漫画家さんの前に置いた。リーマンさんたちと全く同じメニューの朝食がのっていた。

「ああありがたい」と漫画家さんはカロリーメイトの箱を破壊するように開封した。

 支配人さんは小さくお辞儀をすると足音を立てずに遠ざかり、受付カウンターで受付さんと何やら話を始めた。一度だけこちらを振り返り、リーマンさんと目が合うと感じのいい笑みを浮かべてまた受付さんに向き直った。

「お二人は以前から面識が?」声優さんが漫画家さんと弁護士さんに平等な視線を送って尋ねた。

「ええまあ」と弁護士さんは曖昧に答えた。「お話ししたほうがいいですか?」

「個人的には気になります。もしよろしければ」「分かりました。よろしいですか、漫画家さん?」

 弁護士さんは冷ややかな目で漫画家さんに尋ねた。漫画家さんはカロリーメイトを頬張ってむしゃむしゃしたまま投げ槍な様子でこくこくと頷いた。

「おぞましい話です」と弁護士さんは語り始める。「始まりは、漫画家さんのとある作品でした。タイトルは口に出すのも躊躇われるので言いません。とにかく漫画です。どんな漫画かといえば、おぞましいアダルト漫画です。漫画家さんが商業デビューして間もないころに描いた作品です。内容は思い出すだけ吐き気がするので詳しくは言いたくありませんが、簡単に言えばグロテスクな中年男性が女児を強姦する内容です……」

「異議あり」漫画家さんが茶化すように手を顔の横で挙げた。「それはちょっと、いや全然違いますよ。誤解を与えるような言い方しちゃあいけません。たしかにレイプの描写はあります。だけど作品のメインテーマがそんなだと思われるのは遺憾ですね。あくまでテーマは勧善懲悪なんですよ。レイプ魔はけっきょく逮捕されて獄中で自殺するんですから」

「このやり取り、Twitterで何十回したでしょうね? 繰り返される引用リツイートで、もはや最初のツイートまで遡れないほどミルフィーユ状態になってたのを思い出します」弁護士さんはウンザリ具合をため息で表現してから続けた。「いいでしょう、ひとまず面倒なので言い換えます。勧善懲悪もののアダルト漫画の中に、おぞましい中年男性が女児を強姦する描写があるんです。もちろんそんな漫画は我が国ではちっとも珍しくなんてありません。ネットで料理や歴史の調べものをしている時でさえ平気でそんな漫画の広告が表示されます。ユーザーの閲覧履歴をもとに広告を表示するターゲティング機能関係なしに、たとえ閲覧履歴が真っ白だろうが、新品のスマホだろうが、そういった広告がまるで当然の権利だとでも言いたげに現れます。誰でも一度はそんな広告を目にしたことがあるはずです。スマホは子供だって当然使っているのにそんなことお構いなしです。たしかに青少年ネット規制法があるので未成年のスマホには原則的にフィルタリングが施されています。しかしフィルタリングをすり抜ける広告は決して少なくないうえに、そもそも精度がすごく甘い。広告出す側はあの手この手でフィルタリングをかいくぐろうとしてきます。漫画やゲーム広告の例で言いますと、性器や乳首を露出すると当然引っかかる可能性が高いので、乳首は衣服に浮かし、水着や下着には女性器を暗示する筋を描きます。そうでなくても、異常に胸を大きく描いたり谷間を強調したりしたイラストを使った広告はあちこちにあります。不自然に白濁した液体を身にまとっているイラストも散見されますが、これが何を意味しているのかは言うまでもありませんね。スマホだけでなくパソコンも。パソコンは家族で共有している場合も多いでしょう。そこでもアダルトじみた広告が理不尽に表示されます。広告主が出せと申請して、広告代理店が軽くOKして、規制に引っかからないよう狡い工夫を凝らして私たちのもとへ届けられます。ギリギリを攻めるチキンレース状態です。法的拘束がほとんどなく、自主規制に頼っているのが現状なので、業界のモラルの低さがそのまま私たちの目に飛び込んでくる形です。……漫画家さんの例の作品も、ネット広告に一時期出ていました。そんな折のことでした。強姦致傷事件が発生したのです。被害者は9歳の女児でした。犯人は逮捕されて、今まさに裁判が行われている最中です。その男は初犯で、口先では反省の弁を述べているので長期刑は絶望的です。まだ若いので刑期を終えて野に放たれる日がいずれやってきます。ありえませんが、奇跡でも起きて無期懲役の判決が下ったとしても結局我が国の加害者に甘い法律のもとでは仮釈放が認められてしまうでしょう。むろん漫画家さんの作品の犯人のように都合よく自殺してくれることもありません。現実の性加害者のツラの皮はどんな刃も跳ね返すほど厚い。そしてこれが重要なのですが、容疑者は取り調べではっきりと証言したのです。漫画家さんの例の漫画をネット広告で知って、購入して読んで性欲を抑えきれなくなったと。はっきりそう言ったのです。漫画家さんの名前も作品のタイトルも、はっきりと! その証言は週刊誌にすっぱ抜かれて活字となって世に出回っているので、良ければネット記事のURLをお送りしますよ。つまり証拠はあるということです。私はTwitterでその記事をリツイートし、ネット広告の規制を訴えかけました。心からこのままではダメだと思ったのです。インチキ医学やオカルトアイテムの広告はたびたび行政主導で景表法の的になって淘汰されていますが、アダルト漫画やゲームの広告を国が問題視した例は未だにありません。これはおかしい、間違っている、そう思っての行動でした。すると想像していたことではありますが、表現の自由を旗印にした人々に袋叩きにされました。初めてのことではないので驚きはありませんでしたが、やはりひどくげんなりしました。容疑者の証言という強力な証拠に対して『それはその容疑者が特殊なだけ』とか『容疑者が嘘をついている』とか苦し紛れな、だけども心の底からの本音で言っているような、噴飯ものの言論で私のリプ欄は溢れかえりました。彼らの物言いは反論ではなくほとんど誹謗中傷でした。いつものことです。そしてその誹謗中傷の急先鋒が何を隠そう、この男、漫画家さんだったのです。自分の作品が俎上に載っているので当然と言えば当然ですが……。炎上は延焼しました。私の訴えに賛同してくれた野党政治家や作家さんのみならず、一般の飲食店にまで飛び火しました。とある居酒屋さんは特に大きな被害を被っています。毎日公式アカウントに嫌がらせの書き込みをされて、お店のレビューも荒らされています。私の意見にささやかな共感を示してくれた、ただそれだけなのに……。多くの場合ネットの炎上の寿命は短いものですが、この件は事件発生から半年経過した今でも激しく燃えています」

 弁護士さんの目は薄い涙の膜で潤んでいた。それを誤魔化すかのようにマグカップを手にして、すでに湯気が立たなくなっているコーヒーを口に運んだ。

リーマンさんは「なるほど」とだけ言い、声優さんは目を伏せてしばらく押し黙っていたが、やがて「その事件のことは知っています。炎上のことも。ひどい話です」と呟いた。

「ひどい」と、漫画家さんは嘲笑とも自嘲ともとれる笑みをこぼした。「ええ、ひどいですよ。そのとおりです。女児がレイプされたことも、炎上でいろんな人が傷ついているのも、そりゃあひどいですよ。分かっていますよ」

「反省しているんですか?」声優さんが目を鋭くして言った。

「反省かどうかは分からないけど、思うところがないとこんな計画に参加しようなんて思わないですよね?」漫画家さんはやはり嘲笑とも自嘲ともとれる笑みで応じた。

 鉛のような沈黙があたりに落ちる中、ややあってリーマンさんが口を開いた。「弁護士さんは、どうして計画に?」

「抗議のためです」弁護士さんはそうとだけ言った。そしてそれ以上の追及を避けるかのように席を立つと、「温泉に行ってきます。部屋のお湯は出ないと聞いたので」と言い残し、ロビーから消えた。彼女が残したじっとりした沈黙から這いだすように、声優さんも「私も行ってきます」と立ち上がって弁護士さんの後を追って行った。

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