翌朝も雪は降り続いていた。吹雪はちっとも弱まらなかった。窓の外の世界には白しか存在しなかった。

 リーマンさんは寝間着から外着に着替えると歯を磨いてトイレに行ってから部屋を出て一階のレストランへ向かった。レストランはがらんとしていて客もスタッフも誰もいなかった。

「そういえばスタッフさんが吹雪で出勤できなくて食堂はやってないって」

 背後で声優さんにそう言われ、リーマンさんは振り返りながら「そうでした、おはようございます」と言った。そして自然な流れで一緒にロビーへ行き、ローテーブルを挟んでソファに腰かけた。

 ローテーブルには朝食が用意されていた。カロリーメイトとコーヒーとナマコの酢の物だった。

「これ、支配人さんが用意してくれたんですか?」と声優さんが顔を横に向けて言った。視線の先には、昨夜少しだけ言葉を交わしたあのホテルマンが立っていた。どうやら支配人のようだった。

「ささやかながら」と、いかにもホテルマンといった洗練された笑みを浮かべて支配人さんは答えた。

 二人がカロリーメイトをほとんど同時に平らげたタイミングで、ホテルのエントランスドアが外から勢いよく開け放たれた。ドアの叫びのように飛び込んでくる一人の人間と、叫びに伴う細かい唾のような雪。

 リーマンさんと声優さんと支配人さんの視線は、その雪まみれの男に吸い寄せられた。

「ここがホテル・島国で間違いありませんねっ!?」

 男性は叫んで、誰の返事も待たずにずんずんとロビーを横断していく。服やリュックからこぼれ落ちる雪が彼の軌跡を床に描く。彼が受付カウンターの前に至るまでの足取りを、リーマンさんたち三人は揃って視線で追い続けた。

「すみませんっ!」

 男性はベルをちんちんちんちん鳴らしながら叫んだ。

「やっぱり不思議な音のするベルですね」とリーマンさんは言い、コーヒーを啜った。

「やっぱり不思議な音のするベルです」と支配人さんは直立不動で答えた。

 カウンターの下からにゅっと受付さんが生えてきて、「ようこそホテル・島国へ」って感じの笑みを浮かべた。

「ちぇ、チェックイン手続きを」男性の声は寒さに震えている。「お願いします。15時までは全然時間ありますけどすみませんちょっとトラブってこんな時間に到着してしまいました。お金余分に払うんで早めに入れてもらうことってできます?」

「かしこまりました。追加料金は不要でございます。こちらに記入をお願いいたします」受付さんは用紙とボールペンを差し出す。「ご職業のみで結構です」

「え? でも……」「当ホテルにご滞在の漫画家様は一人だけですので、氏名や住所や性別や電話番号で識別する必要がありませんので」

 男性は「なんで漫画家だと分かった?」なんて疑問は省略して「よく分からないけどとにかく了解だって寒くて寒くて死にそうなのだもの」って感じに何度か素早く頷くと用紙にそそくさと記入した。その性急さと手の震え具合からしてマトモに記入できた可能性は低かったが、受付さんは一度頷くと「なる早至上主義者なもので」って感じの手つきで用紙を素早くカウンターの下に押し込んだ。「こちらが103号室のキーでございます」

男性はキーを受け取ると、そそくさとロビーを横切って、客室が連なる廊下へと消えていった。

 声優さんはコーヒーの入ったマグカップを両手で包んで、それを轆轤を回す職人のように小さく動かして黙り込んでいる。リーマンさんも黙ってコーヒーを口に運んだ。

 支配人さんが「ごゆっくり」って感じの笑みを宙に残して消えたのと入れ替わるように、さっきの男性がロビーにやってきた。そしてベルをちんちんちんちんちん鳴らして「ごめんくださーい!」と叫んだ。受付さんは一向に生えてこなかった。

「困ったな」と呟いてくるりと踵を返して、彼はリーマンさんたちに近寄ってきた。「部屋のお湯が出ないんです」

「僕の部屋もです」とリーマンさん、「私の部屋もです」と声優さん。

「ところで」とリーマンさんは言った。「計画に参加される方ですよね? 漫画家さんだと、さきほどちらっと耳にしましたが」

「ええそうです自分は計画に参加するために来ました漫画家です」

 リーマンさんと声優さんは揃って「よろしくお願いします」って感じの社交辞令じみた笑みを浮かべた。

「部屋のお湯が出ないのほんと困りますよ。風邪ひいちゃいそうなんですが」と漫画家さんは自分の体を両手で抱くようにして震えて言った。

「このホテル、温泉があるみたいですよ。源泉かけ流しの。あとサウナも付いてるみたいです」と声優さんが言った。

「温泉っサウナっ! 何階ですかね?」「それは知りません」「探しに行きましょう!」

 漫画家さんはリーマンさんの腕を掴んで立ち上がらせると、強引に引っ張っていこうとする。

「僕まだ朝食の途中で」「風邪ひきそうなんです!」「そうですか」

 こうして男二人は温泉探しをすることになり、一階の渡り廊下を経由して別棟の奥にそれを見つけた。

「では、僕はこれで」

 立ち去ろうとするリーマンさんの袖を掴み、漫画家さんは「せっかくなので一緒にどうです」と誘った。

「僕朝食の途中でして」「朝食は逃げませんよ」「温泉も逃げませんよ」「逃げますよ」「逃げるんですか?」「朝食よりは逃げます」「どちらかというと朝食のほうが逃げそうですが」「それは見方によりますね、寒い寒い風邪ひいちゃいますよ早く入りましょう」「分かりました」

 二人は脱衣所で服を脱いで、アメニティの清潔なフェイスタオルを棚からそれぞれ一枚取って浴場に入った。まず体を洗った。

「こんな気持ちいいシャワーは生まれて初めてですよ」漫画家さんは細い湯の束を浴びながら言った。お湯で戻される乾燥ワカメのように、強張っていた彼の表情が崩れていく。

 体を洗い終えると二人は檜風呂を経由してサウナに入った。扉を入ってすぐのところの台にサウナマットが積んである。漫画家さんがそれを一枚手に取ったので、彼に倣ってリーマンさんも一枚取った。コの字型の席の奥まった位置に漫画家さんは向かう。その背中にリーマンさんは続く。席は四段構成で漫画家さんは迷わず最上段まで上がってサウナマットを敷いてそこに腰を下ろした。リーマンさんも漫画家さんから五十センチくらい離れた場所にサウナマットを敷いて座った。漫画家さんはハアーッとため息をついて表情を溶かす。

「サウナブームずっと続いてるじゃないですか」と漫画家さんは言った。「だからどこも基本混んでるんですよ。でも今はたった二人でこんな広いサウナを占領してる。これって地味にすごいことですよ」

「そういうものですか」「そういうものですよ。テレビも付いてないし、オートロウリュだし、このサウナ結構レベル高いですよ」「オートなんとかはよく分かりませんけど、テレビは無いほうがいいんですね?」「人によりますけど、まあだいたいは無い方がいいって言いますね集中が乱されますしテレビって」「集中するんですねサウナって」「自分は瞑想のためによく利用しますんで」「なるほど」「おお、しかもこのサウナたぶん壁がケロ材ですよ。独特の甘い香りがします」「ケロザイ、ですか?」「ケロは木材です。樹齢200年以上の欧州赤松が立ち枯れたものです。すごく貴重でね『木の宝石』なんて言われてるんですよ。国内じゃ数えるほどしかケロサウナって無いんです。いやあこのホテルはノーマークだったなあ。あーきもちー風邪ひかずに済みそうだ」

 二人はサウナを出て水風呂に入って、浴場内のリクライニングタイプのととのい椅子に寝転がった。サウナ・水風呂・外気浴の流れがサウナの基本なのだと漫画家さんは言った。とはいえこんな天気なので外に出るわけにもいかず、外気浴は内気浴で代用するしかない。

 ルーティンをワンセット終えた後はまた温泉に入った。

「泡がぼこぼこ出る風呂ないのがちょっと残念ですわー」と漫画家さんは言った。「ジャグジーでいいんでしたっけ? あれ俺好きなんですよ。下からぼこぼこ泡出てくる風呂。なるべく強く出てくるやつが好きでしてね。あれで足の裏マッサージすると気持ちいいんですよ。まあでも好きな理由は別にあって、水面に泡が上がってきてもんどりうってる様子をじっと眺めてるとね、ものの十秒で意識が泡に溶けていくっていうか、なんかもう泡のこと以外考えられなくなるんですよ。その感覚が好きなんですよ俺。頭空っぽにするのって至難の業ですけど、頭の中を泡だけにするならジャグジー使えば簡単にできるんですよこれが」

 それから少しして、二人は温泉から出てまたサウナに入った。さっきと同じ席に座った。

「漫画家さんはどうして今回の計画に?」とリーマンさんは尋ねた。

「話すと長くなりますよ」「どれくらいの長さですか?」「五分くらいですかね」「あまり長くないと思いますよ」「サウナの中での五分は長いんですよ。しかもこのサウナなかなか温度高いから余計に。たぶん百度超えてるんじゃないかな」「キツくなったら出ましょう」「たしかに椅子で続きを話せばいいだけの話ですね」

 漫画家さんはフェイスタオルで顔を拭いてから、それを山賊みたいにかぶった。そして特に躊躇いも葛藤も見せずに語り始めた。

「いやね自分ね漫画家なんですよご存じのとおり。漫画家っていってもたぶんリーマンさんがイメージするのとは全然違うと思いますけどね。有名雑誌に連載持ってるわけでもないし作品が映画化アニメ化した経験だってありません。賞だって取ったことありません。いやじゃあどうやってデビューしたんだよこいつはって疑問に思われるでしょうけど、べつに今の時代出版社に持ち込んだり新人賞取ったりしなくてもデビューはできるんですよ。投稿サイトやらSNSやらにあげてそれが人気出れば割とすんなりとプロの漫画家デビューできます。いい時代になったようなそうでないような気もしますね。デビューのハードルががんがん下がったおかげで世には有象無象がごろごろしてますからね。粗製濫造の国ですわ今や。まあ俺もその粗製濫造の有象無象の一人でしてね。投稿サイトにこつこつあげてた漫画が人気出て出版社に引き抜かれて紙の本で売られました。部数は大したことないです。なんてったって普通の本屋じゃ買えないような漫画なんですよ。どんな風に普通じゃないのかはちょっと言いづらいな。とにかく普通じゃない……ねえリーマンさん、熱くないですか?」「サウナですからね」「いやまあそうなんですけど限界近くないですか?」「僕はまだ平気です」「けっこう強いんですね。俺はそろそろ出ます」「では僕も」

 二人は席から立ち上がり、サウナ室を出てサウナマットを返却ボックスに放り込んだ。シャワーで汗を流して水風呂入ってととのい椅子で休んだ。その後はまた温泉に入って最後にシャワーを浴びて浴場を出たが、ほとんど会話はしなかった。漫画家さんはずっと曖昧に口をもごもごさせ、喉に引っかかる言葉を吐き出そうか飲み込もうか迷っている様子だった。

 服を着てロビーに戻ると、ソファにはまだ声優さんがいた。そしてその隣にはもう一人、別の女性が座っていた。

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