リーマンさんはドアを押し開けて外に出て歩いた。居酒屋らしき影なんか全くないけどとにかく歩いた。少しでも空気抵抗を減らすかのごとく前のめりの格好でずんずんずんずん進んだ。やがて努力が実を結び、「飛び地」の看板を掲げた平屋に辿りついた。服と頭に積もった雪を叩き払ってから手動のドアを押し開けると不思議な音のする電子ベルが鳴った。カウンターの向こうから「らっしゃい」と声がかかる。

 L字型のカウンター席だけの小さな店だ。カウンターの向こうは厨房なのだろうけど、カウンターのL字に沿って薔薇色の丈の長い暖簾がぶら下げられており、中の様子は隠匿されて見通すことができない。

「お好きな席へ」

 暖簾の向こうから、男性の低い声が聞こえてきた。暖簾にろ過されたせいかくぐもって聞こえる。

「一名です」

 聞かれてないけど、リーマンさんは念のためそう伝えてから、L字の長い方の一辺の一番奥に座った。メニューが見当たらずきょろきょろしているところに「ご注文は?」と暖簾の向こうから声がかかったので、熱燗とえいひれと、あとダメ元で天ぷらそばを注文した。暖簾の向こうの男は「あいよ」とだけ答えた。やがて暖簾の向こうでかちゃかちゃと器具が触れ合う音や冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえてきた。

「すみません、ナマコの酢の物も追加でお願いできますか?」「あいよ」

 あらかじめ準備してあったかのごとく神速で、太い腕が暖簾を押しのけてにゅっとのびてきてリーマンさんの前にえいひれの皿をこんと置いた。腕は暖簾の奥に一旦引っ込んで、気持ち程度のインターバルを挟んでから、二本に増えて熱燗のとっくりとおちょこを持って戻ってきた。

 リーマンさんは「どうも」と暖簾に頭を下げてから、熱燗をちびちびやりながらスマホをいじる。グループLINEのメッセージを見返して、計画の決行が本当に明後日で集合が本当に明日で正しいのかを改めて確かめ、集合場所が本当にこのホテル・島国で正しいのかを改めて確かめた。

 いつの間にか隣の席に誰かが座っているのにリーマンさんは気づいた。色白で目が大きくて痩せた若い女性だった。

「計画に参加される方ですか?」

 女性はそう尋ねてきた。彼女の視線は、リーマンさんのスマホの画面に刺さっていた。

「ああ、ええ。前乗りで今日」

「私もです前乗り」女性は言い、リーマンさんの顔や服装を観察した。「えっと、当てますね。役人さんですか?」「違います」「漫画家さん?」「違います」「サラリーマンさん?」「当たりです」

 女性は二度外したことを棚に上げて「当たった」と言って笑った。

「僕も当てていいですか?」「もちろん」「声優さん?」「すごい! どうして?」「なんとなくです」

 声優さんは大げさに「すごい」と言って笑い続けた。

 見ると、声優さんの前には既に八割ほどビールが減ったジョッキと、均等に几帳面に二枚ずつ残った刺身の盛り合わせが置いてある。彼女のほうが先客のようで、無礼にも隣の席を選んでしまったのはリーマンさんの方のようだった。

「失礼」とリーマンさんは謝罪する。

「何がですか?」「席、隣に座ってしまって」「いいですよ、せっかくなのでご一緒しましょう。グループLINEとTwitterでしか話したことないですし」

 腕が暖簾をくぐってにゅっとのびてきて、リーマンさんの前にナマコの酢の物、続いて天ぷらそばを置いた。「おまちどう」

「サラリーマンさんは、どうして計画に?」

 声優さんは残り二割のビールを飲み干して、カウンターにこんと置いてからそう尋ねてきた。

「リーマンでいいですよ、呼びにくいでしょうサラリーマンだと」「リーマンさん」

 言ってみると想像以上に口に馴染んで驚きだと言わんばかりに声優さんは腑に落ちた表情になった。

「リーマンさんはどうして計画に?」「非常に言いにくいんですけど、なんとなくなんです」「なんとなくでこんな計画に?」「そうです」「会社が倒産したとかでもなく?」「はい」「奥さんとお子さんを奪われたわけでも、すんごい差別を受けたとかでもなく?」「はい」「なんとなく?」「はい」「そういうものですか」「はい」

 声優さんは腑に落ちない表情だ。

「たとえばですけど」リーマンさんは言い訳するように続けた。「電車の飛び込み自殺ってよくあるじゃないですか。あれって電車のダイヤが乱れて他の客がイライラし始めますよね。中には駅員さんに詰め寄って意味のない罵声を浴びせるような人も出てきて」

「ああーあるあるですねー。駅員さんに怒鳴っている人たまに見ますよ。基本みんな男性ですよね、中年以上の。そんでその人の指に結婚指輪がはまってたりするともうワケ分かんなくなりますよね。せめて子無しであることを祈るばかりです」

 リーマンさんは頷く。「ま、そういうゴタゴタが生じるわけですよ、飛び込み自殺って。Twitterとかも『人に迷惑かけずに一人で死ね』とかって罵倒で溢れますよね。怒る気持ち、分かるには分かるんです。どうしてあえて電車に飛び込んでバラバラになってダイヤ乱す必要があるんだって。もっと手軽で楽な方法があるのにって、思わないでもないんです。でも最近気づいたんです。たぶん電車に飛び込む人って、家を出る時は死のうなんて全く考えていないんですよ。だけど改札を通って、ホームで人混みに押されて、昨日上司に怒鳴られたこと思い出して、天気が悪くて、家のエアコン切り忘れたことに気づいたりすると不意にスイッチがオンになって理性が介入する間もなく足が黄色い線を越えてしまうんです」「リーマンさんは、小さな嫌なことがコツコツ重なってスイッチがオンになってしまった。そういうことですか?」「たぶん違います」「違うんですかっ?」

 声優さんは目を丸くして叫んだ。

「はい」「じゃあ、さっきの飛び込み自殺のくだりは?」「たとえです」

 声優さんは新種の虫でも見たような顔をした後に、諦めたように「なるほどですね」と言った。

リーマンさんは説明義務は果たしたとばかりに食事に集中し始めた。そばをすすって噛んで飲み込んだ。

 沈黙がいい感じまで膨れるとリーマンさんは思い出したように尋ねた。「声優さんは、どうして? もちろん言いたくなければ結構ですが」「もう一杯飲んでから話します。すみません、ビールのおかわりお願いします。二つお願いします。エビスとハイネケンで」

「あいよ」

 神速でおかわりのビールを両手に持った腕が暖簾の向こうからにゅっとのびてきて声優さんの前にグラスを置いた。そして一旦戻りかけたけど空のジョッキを察知して宙でぴたりと止まり、それを掴んでから今度こそ暖簾の奥に消えた。

 声優さんは片方のグラスをイッキして、もう片方は大切そうにちびちび飲みながら話を始めた。

「私、整形してるんです」「セイケイ? 整形手術ですか?」「はい。私もともとブスで昔からずっと悪口言われて過ごしてたんです。でも将来は声優になりたいってずっと思っていたんです。どうしてもなりたくて、二十歳の時に整形したんです」「整形しないと声優にはなれないんですか?」「私のようなブスは無理です。声優の世界って、今はタレントや女優よりも見た目が重要視されるんです。女性限定の話ですが……。演技のうまさとか声の個性なんて二の次三の次です。九割見た目です」「知りませんでした。声が命だとばかり」

 声優さんはビールを口に含んでゆっくり飲み込む。皮膚の下でさざ波がうごめくように喉が上下する。彼女はハァと、見た目にそぐわない老いたため息をついた。

「そうですよね。普通に考えたら、声をキャラクターにしっかり合わせられる実力のある人がプロの声優になる。キャラクターに魂を吹き込める職人が声優になる。そう思いますよね。実際それが本来の姿なんです。そうあるべきなんです。でも現実はそうじゃありません。かわいいだけの子がデビューして、いい役もらって、チヤホヤされます。見た目なんです。見た目が全てなんです。さっき九割と言いましたけど訂正します。全てです」

「夢のない話ですね」「ですよね」

 声優さんは大切に飲んでいたビールの残りを一息で片付け、「おかわりお願いしますオリオンビールで!」と怒鳴った。

 暖簾から腕が生えて空のグラスを片手で器用に二つ回収し、それと入れ替わるようにもう片方の手がおかわりを声優さんに手渡した。

「なんていいますか、業界の意識がアップデートできてない感じですね?」リーマンさんは曖昧にコメントした。「むしろ時代に逆行しているような」

「十割同意です。けっきょく上で指揮してるのはおっさんですからね。だから業界のお偉いさん、監督とかプロデューサー、あとは事務所の人間とかが若くてかわいい子と寝たがるというある意味では当たり前の動機で業界のルッキズムが加速しているんです。声優業界って枕営業もえぐいんですよ。週刊誌とか暴露系ユーチューバーにすっぱ抜かれる度にデマだとかガセだとかすっとぼけてますけど、枕営業は確かにあちこちに存在します。もちろんそれは声優業界に限った話ではありませんけど」「意外ですね。キラキラしてふわふわした平和な世界かと思っていました」「現実は夢も希望もありゃあしません。ただ、悪いのは業界だけではありません。消費者の責任も大きいです。というのも、男のアニオタ連中がかわいくてえっちな声優をあまりにも求め過ぎているんです」

 いつの間にかグラスは空になっていた。声優さんは暖簾の向こうに「ビール三つお願いします銘柄はなんでもいいです!」と怒鳴って二つのグラスと一つのジョッキを入手して、それらを抱き込むような恰好で話を続けた。

「お暇があったら、2ちゃんねる――ああ今は5ちゃんねるでしたっけ――でも何でもいいのでネットで声優について語っている板を見てみてください。どの書きこみも誰の顔がかわいいとか誰のおっぱいが大きいとか誰が実は彼氏持ちだとか非処女だとかいう内容であふれています。誰の声がいいとか演技がハマっているとか語る人なんて誰一人としていませんよ。誰も声なんて聞いてないし演技にも注目していないんです」「そんなルッキズムにまみれた業界だから、整形せざるを得なかったわけですね」「ええ、そうです、そうなんです!」

 リーマンさんの月並みな相槌がこの上なくありがたい援護射撃だとばかりに、声優さんは声を荒らげた。でも直後に「すみません興奮して」と言ってトーンを落とした。

「私は大学行きながら声優養成所に通いました。養成所で優秀だと認められると直属のプロダクションに所属できるんです。私はプロダクションに所属することが出来ました。その時はまだ整形していませんでした。夢と希望にあふれていましたよ。このままデビューしてたくさんのアニメやゲームに出るんだってわくわくしました。でもさっき言ったとおり、声優業界は見た目が全てです。オーディションに落ちに落ちて絶望しました。……リーマンさんが言いたいことは分かりますよ。それは単に私に実力がなかったからじゃないのか、そう思ってますよね? いいえいいんです、取り繕うことはありませんよ、そう思うのは当然です。でもこれにはきちんと反論できます。というのも、整形した直後に嘘みたいにオーディションに受かるようになったからです。ついでに言うと豊胸手術もしました。ええ、そうです、やっぱり審査の連中は見た目で判断していたんですよあのクソゴミども……すみません、ちょっと飲み過ぎてるみたいです……すみませんお冷やお願いします!(暖簾の奥からグラスが出てくる。お冷やをごくごく飲んでふうと一息)。……えーと、なんでしたっけ? そうそう、オーディションに受かるようになったんです。それと同時に、事務所のマネージャーから暗に枕営業を仄めかされるようになったんです。誰それにお世話になってるんだから分かるよね?明日の夜どこどこホテルで会ってあげられるよね?みんなそうして仕事貰ってるのに君だけ例外なんて虫が良すぎるよね?って。私は断れませんでした。せっかく掴んだチャンスをフイにするくらいならキモイおっさんと一回寝るくらいどうってことないって思いました。今思えば当然ですけど一回では済みませんでした。事あるごとに呼び出されてえっちしてバイバイです。一人また一人とそんな関係の相手が増えていきました。それと並行して私の仕事は増えていきました。自分で言うのもなんですけど売れっ子でした。テレビに顔出しで出演する機会も何度かありました。ネットでも私の話題はよく上がりました。かわいいとかおっぱいでかいとか処女らしいぞとかです。笑えませんか? 私は本当はかわいくもなければおっぱいも小さいしクソジジイどもとヤリまくりなんですよ? でもアニオタ声豚どもは勝手なイメージを抱いて勝手にべらべら語るんですよ。この世にかわいくて巨乳で処女の私なんて存在しないにもかかわらず……まあ、そんな状況ではありますけど仕事は順調でした。演技力もありましたし歌もうまいほうでした。求められればどんな相手にだって仮面の笑顔を向けることも出来ました。でもある時バレてしまったんです。枕営業ではありません。それは今の今まで世間にはバレていません。バレたのは整形です。どこの誰かは知りませんけど私の高校時代の卒アルをTwitterでバラまいたんです。そりゃあもう地獄のような誹謗中傷の嵐でした。極悪非道の詐欺師のような扱いを受けました。アニオタ声豚たちだけではありません。今まで体を求めてきていた臭い監督やスタッフたちも掌を返しました。私はぴたりとホテルに呼ばれなくなり同時に仕事も減っていきました。もちろん必死でオーディションを受け続けました。でもだめでした。連中は端から私を選ばないと心に決めているんですから」

 そこまで語り終えると、声優さんは力なく項垂れた。そして熱をすっかり失った声で補足のように続けた。

「ネットの炎上も業界でのイジメも耐える覚悟はありました。強い覚悟でした。でもある時、ファンの人がTwitterで『元の顔のほうが好き。応援』と擁護してくれたのを見て、覚悟の縄がぷつんと切れてしまったんです。どんなに叩かれても切れなかった縄が、応援の声で簡単に切れてしまったんです。そうして、私は計画への参加を決意しました」

 声優さんは、丸くて固いピリオドのようなため息を浮かべて沈黙した。まだ話したいことはたくさんあるけど体力が追いつかないという風だ。

「終わってますね、この世界」とリーマンさんは言った。

「はい」「奢りますよ、今日」「ありがとうございます。実はお財布部屋に忘れてしまって」「ナマコの酢の物おすすめです」「ナマコの酢の物お願いします!」

「あいよ」と暖簾の向こうから聞こえた。

 声優さんはその後もビールを五杯おかわりしていたが顔色は全く変化がない。それでも「これ以上はやばそうです」と彼女本人にしか分からないボーダーラインを越えそうになるとしっかり踏みとどまった。

 リーマンさんは暖簾の向こうに向かって「お会計をお願いします。二人一緒で」と言った。

「3800円です」

 一桁の九九みたいな即答が返ってきた。

「二人分ですよ?」「3800円です」「計算間違ってませんか?」「3800円です」

 リーマンさんは財布から五千円札を取り出すと、暖簾の下に半分滑り込ませた。自販機みたいに、お札がすーっと奥に消えていく。

「お釣りは結構です」とリーマンさんは言った。

「次お越しの際にサービスします」「ありがとうございます」

 店のドアを開けると不思議な音の電子ベルが鳴り、雪の神様の叫びみたいな吹雪が店内になだれ込んできた。カウンターの暖簾がバタバタなびいた。

 リーマンさんと声優さんは吹雪の中を一歩一歩ゆっくり歩いた。声優さんはリーマンさんの腕にしがみ付き、ほとんど目を閉じていた。

 A4出入口に着くとドアを開けて中に入って服の雪を払い落とし、暗い階段を下った。光が届かなくなると手探りで進むほかなかった。

 地下道に下りるとリーマンさんは記憶を頼りにランタンを探り当て、つまみを回して明かりを点けた。リーマンさんが先頭を歩き、声優さんがその後ろに続いた。

「なんかここ落ち着きますね」と声優さんは言った。

「そうですか?」「はい。なんていいますか、安全地帯といいますか、ここにいるあいだは誰にも攻撃されないって感じがして」「分かる気もします」

 道が終わって階段が始まる。数段上がると、見計らったかのように扉が開いて受付さんが顔をのぞかせた。ドアの形に切り取られた明かりがリーマンさんの目を眩ませる。

「おかえりなさいませ」「ただいま帰りました」

 ドアを通ってホテルのカウンターの裏に出ると、暖房の抱擁が待っていた。

 受付さんが閉めるドアを名残惜しそうに見つめながら声優さんは「美味しかったですね」と呟いた。

「はい。美味しかったです」「ごちそうさまでした」「いえいえ」

 ロビーを経由して、客室が並ぶ廊下に入り、声優さんは101号室の前で、リーマンさんは102号室の前で、それぞれカードキーで鍵を開けた。最初から存じ上げていたとばかりに、二人とも「隣同士ですね」とは言わなかった。

「おやすみなさい」とリーマンさんは言った。

「あの」と声優さんは心許なさそうに言った。

「はい」「計画、明後日決行なんですよね?」「そのはずです。どうしてですか?」「いえ、なんか、本当に全員集まるのかなって不安になって」「天気のせいで?」「天気もそうですけど、なんていいますか、みんながここに集まるのが現実的とは思えなくて」「でももう二人はこうして集まっています。集合予定日の前夜なのに」「そうですね」

 声優さんは少なくとも表面上は安心した様子を見せ、「おやすみなさい」と言い残して101号室の中に消えた。リーマンさんも102号室の中に入った。

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