ホテル島国

しおみち

「お釣りは結構です」

 リーマンさんが四百円のチップ込みの五千円札を差し出して言うと、タクシーの運転手は不機嫌そうに「どうも」と答えた。

 カチッと鳴って、後部座席のドアが開いた。途端、猛吹雪で視界が白く染まった。夜の黒さが隠れてしまうほどの白さだ。暴力的な気温が体を包み込んで、リーマンさんは思わず身を引いた。

「お客さん大丈夫?」

 運転手が怒鳴った。その口調は言外に、寒いからさっさとドアを閉めさせてくれと告げていた。

 リーマンさんが外の雪を踏んづけて靴底型に汚すと、それをキッカケにしたようにドアがパタンと閉じた。彼は車の後部に回り、ロックが外れたトランクからスーツケースを取り出すと手早く閉めた。

 ぶぱっとクラクションが一度短く鳴り、タクシーが発進した。黒い車体は白い吹雪の中に汚れみたいに滲んでいき、やがて点になってやがて消えた。

 リーマンさんは目の上に手で庇を作って駐車場を横断する。駐車場で遭難してもおかしくない勢いの吹雪を通り抜けて、彼はホテル・島国のポーチへとたどり着いた。

 紺のチェスターコートは雪で白に染め上げられ、スーツケースにも一食しのげそうな量の雪が積もっていた。リーマンさんは雪を叩き払ってから、エントランスドアを開けて中に入った。

 エントランスはやや古い作りのように見えるが石材の床は几帳面に綺麗に磨かれており、調度品もシックで品がいい。すみっこにはグランドピアノが置いてある。

 リーマンさんは周囲を見渡してみたが、ボーイも客も見当たらなかった。ロビーのソファには誰も座っていないし、どういう道理か受付も無人だ。

 リーマンさんはゴゴゴゴとスーツケースのキャスターの音を響かせながら進んで受付カウンターまで来た。ベルをちんと鳴らした。反応がない。

 かさりと、紙が触れ合うような音がした。リーマンさんは身を乗り出してカウンターの向こうを確かめてみようとしたけど、天井に防犯カメラがあるのを見てやめた。

 ちん。ベルを鳴らす。反応なし。ちんちん。反応なし。ちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちんちん。

「お客様」

 背後から声をかけられ、リーマンさんは手をぴたりと止めた。

「このベル不思議な音がしますね」

 リーマンさんは背中越しに言ってから振り返った。

「お気づきになられましたか」「何にですか?」「ベルです」「ベル?」「ベルの音でございます」「ああええそうですねちょっと油が足りていなそうな音です」「油ですか」

 間をはかるような沈黙のあと、真っ白なユニフォームを着た長身のホテルマンは「ようこそ、ホテル•島国へ」って感じの笑みを浮かべてお辞儀をした。

 リーマンさんは「とりあえずチェックインの手続きを」って感じの笑みを返した。

 ホテルマンは頷くと、リーマンさんの肩越しに「お客様がお越しです」と自明の理を説いた。

「こちらで」

 背後で女性の声がしたのでリーマンさんはカウンターに向き直った。カウンター越しに、眼鏡をかけた若い女性スタッフが立っていた。胸に名札をつけているが名前は書かれておらず、真っ白のつるつるののっぺらぼうだ。あるいは名札に見える全く別の何かなのかもしれない。

「お客様のご職業をこちらに」

 受付さんはチェックインの用紙(正式名称、レジストレーション・カード)を手で示して言った。用紙は、「職業」以外の欄が横線を引いて潰してあった。

「名前とか住所はいいんですか?」「結構です」「そうですか」

 リーマンさんは職業欄に「会社員」と書いてボールペンを置いた。

「職業だけだと何かと困りませんか?」「問題ございません。当ホテルに宿泊予定のサラリーマン様は一人しかおりませんので、氏名や住所で識別する必要がないのです」

 言いながら、受付さんはそれが誰かに見られると非常にまずいのだと言わんばかりに素早く用紙をカウンターの内側の棚に仕舞った。用紙と入れ替えるように102と記されたカードキーを取り出してカウンターの上に置いた。

「どうも」リーマンさんはカードキーを受け取ると、思い出したように尋ねた。「レストランは何階にありますか?」

「レストランは休業中です」「休業?」

「こんな天気ですから」受付さんはエントランスドアまでの距離分を乗せた目で、ガラスで縦長の矩形に切り取られた外の吹雪を見た。「スタッフが誰も出勤できず、料理を作ることができないのです」

「なら仕方ないですね。外でどこか食事できるところは?」「裏手に居酒屋が一軒ございます。『飛び地』というお店です」「ありがとうございます」

 リーマンさんは102号室に荷物を置くと、財布とスマホだけ持ってまた受付に戻った。そこで外出する旨を伝え、カードキーを預けようとしたが、自分で持っていて構わないと言われたので財布に仕舞った。

「お客様、『飛び地』へ行かれるのでしたら地下をお通りになったほうが安全かと。こんな天気ですので」「地下があるんですか?」「はい。地下道を通ってA4出口を出ればすぐ目の前が『飛び地』でございます」「地下道にはどうやって入ればいいですか?」「ご案内いたします」

 受付さんはくるりと踵を返すと、控室だかどっかに続くドアを開いてその奥に消えてしまった。ドアは開けっぱで、その向こうは一切の光を拒絶するように真っ黒い。ドアと同じ形の闇が壁に穿たれている。じっと待っていると、「こちらへ」と細長い声がのびてきたので、リーマンさんは回り込んでカウンターの内側に入り、ドアの奥の闇に足を踏み入れた。が、危うく踏み外すところだった。ドアを跨ぐとそこはすぐに階段になっていた。

 受付さんは狭い階段を二十段か二十一段か二十二段か下りたところの踊り場で立ち止まってこちらを見上げていた。彼女の右手にはLEDランタンがぶら下がっていて、周囲の闇を丸っこくえぐり取っている。

 受付さんはリーマンさんがきちんと階段を踏んだことを確認すると前に向き直って歩き始めた。その背中をリーマンさんは追う。

 階段が終わると、まっすぐ廊下がのびているようだが階段と同じくらい左右が狭かった。足音が反響して過去に喰われて消える。

「この地下道は電気は点かないのですか?」「節電中なもので」「なるほど」

 やがて広く開けた場所に出たが、あまりにも暗くて果たして具体的にどれほどの広さなのかは分からなかった。受付さんのランタンが描き出す光のサークルでは照らしきれないほどの広さなのは確かだが。

 受付さんは右に進路を変えると迷いのない足取りで進んでいく。リーマンさんがその背中を追っていくと、やがて暗闇から壁が現れ、そこに空洞が浮いているのが見えた。階段だった。

「この階段を上がればA4出口でございます。出てまっすぐ進めばすぐに『飛び地』が見えてきます」「ありがとうございます。ところで帰りはどうすればいいでしょう?」「ランタンをここに置いていきます」

 受付さんは階段脇のフックにランタンをぶら下げ、つまみを回して明かりを消した。光のサークルにさーっと闇が流れ込んできた。

「明かりなしで帰れますか?」とリーマンさんは尋ねた。

「慣れていますので」「そうですか」「それでは」

 完全な暗闇の中で、受付さんがお辞儀をしたのをリーマンさんは空気で感じた。

 足音が遠ざかるのを待ってからリーマンさんは手探りで階段を上がった。階段は途中で二回折れていた。右、左。上り終えると両開きのガラスドアがあり、タクシーを降りた時と同じクオリティの吹雪が月明かりに縁どられて輝いているのが見えた。

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