報い

 気まぐれな雲が月の前から退き、再び月光があたりを照らし出した。


「アレス……! ひどい怪我じゃねぇかよぅ……」


 アレスは、プシュケが閉じ込められている牢屋のそばに身を潜めていた。


「プシュケ……。すみません。俺は、あの外道を殺すことができないかもしれません。でも、あなただけは逃がしてあげたい」

 そう言って、アレスは鞘から剣を抜く。「下がっていてください、プシュケ。鉄格子を破壊します」


「聞け。あたしは一人で逃げるつもりはない。アレスも一緒じゃないと逃げないかんな」


「な、なにを言って……!」


「お前ここで死ぬ気だろ?」


「そ、それは……」


「そんなの許さねぇかんな。あたしはアレスと一緒がいいんだ」


 そんな優しい言葉を貰う資格なんて、俺にはない。アレスはそう思った。

 そしてアレスは、「あのこと」を話そうと決めた。それを聞けば、プシュケはアレスを捨てて逃げてくれるだろうから。


「……プシュケ。実は俺、あなたのご両親を――」


「アレス聞け」

 プシュケは遮るように言った。そして鉄格子を掴んで、顔をアレスに寄せる。

「あたし思い出したことがあるんだ」


「え?」


「聞け」


 プシュケは、じっと目を覗き込んでくる。その大きな美しい両目に、アレスは落ちていきそうになる。


「集中しろ。よく聞け。目を閉じろ。あたしの声に耳を澄ませるんだ」


 プシュケの声には、不思議な説得力があった。

 言われたとおり、アレスは戸惑いながらも目を閉じて、暗黒の中に沈んだ。プシュケが、すぅと息を吸い込むのが分かった。


「イヴンヴ・ニィヴィ・ギィスヴ・エルド・ル・ヴィクグァム・クスグリィム」


 え……? なんだ? プシュケは何を言っているんだ?


「イヴンヴ・ニィヴィ・ギィスヴ・エルド・ル・ヴィクグァム・クスグリィム」


 繰り返される。なんだ、身体が、熱い……! 痛みが消えていく……! 魂が、震える!


「イヴンヴ・ニィヴィ・ギィスヴ・エルド・ル・ヴィクグァム・クスグリィムッ!」


 アレスの中で何かが弾けた。誇り高き光明騎士団の女の記憶が魂に浮かび上がってくる。


 俺は……私は……。殺さないといけない。プシュケを害する者を……我が主を害する者を……。

 俺と私の記憶が交わり、ひとつの殺意となる――。剣を握る手に力がこもり、足が地面をみしみしと踏みしめる。


 目の端に、ディカイオの姿を捉えた。彼は〈円環の水鏡〉を構えている。


 アレスは柱の陰に飛び込んだ。危なげなく、〈円環の水鏡〉から発射された円盤をかわすことができた。


 アレスは駆けだし、別の柱に隠れた。円盤は空を切る。アレスは駆けだし、別の柱に隠れた。円盤は空を切る。アレスは駆けだし、別の柱に隠れた。円盤は空を切る。


 アレスとディカイオの距離は、あっという間に縮まった。


 見える、とアレスは思った。〈円環の水鏡〉から発射される超高速の円盤を、しっかりと目で捉えられている。攻撃を回避できている。


 ディカイオの動作が、さっきよりずっと遅くなっている。いや、そうじゃない。アレスのスピードが急激に高まっているのだ。相対的にディカイオの動きが遅く見えるのである。


「……! なんなんだ、君はァッ!?」

 ディカイオの表情は驚愕に染まっている。

 

 あと七歩で、ディカイオに届く。


 ディカイオは〈円環の水鏡〉を装着した左腕を構える。 あと四歩。


 ディカイオが右手を〈円環の水鏡〉のスイッチに向ける。あと一歩。


 ディカイオの右手が〈円環の水鏡〉のスイッチに触れる。


 終わりですよ、クソ外道!

 

 アレスは、〈円環の水鏡〉の軌道から体を逸らす。

 発射された円盤は空を切る。

 

 走りこんだ勢いをそのままに、アレスは剣を振り抜こうとした。

 

 ディカイオの、恐怖に染まった表情が網膜に焼き付く。

 

 ……! 

 誰かの顔が一瞬、ディカイオの表情と重なった。名前は分からない。でも、アレスがかつて殺した誰かだ。

 

 アレスに、一瞬の躊躇いが生まれた。かつて犯した殺人の罪悪感が、にわかに蘇ってきたのだ。同時に、命の恩人としてのディカイオの記憶も蘇ってきた。


 そして、彼を「お父様」と呼んで慕う、ニケの笑顔が蘇ってきた。


 なんで、なんだ。やらなきゃ、やられるのに。こいつは、ソピアさんたちの仇なのに。


 なんだ、この感情は……。これは、慈悲? 憐れみ? 敵を前にして、こんな感情を抱いたのは初めてだ。殺さずに済むのではないかと、甘い考えが湧き上がってくる……。


「ふふ」

 ディカイオの恐怖の色が、歓喜の色と置き換わった。

「さようならアレスくん」


 ディカイオは〈円環の水鏡〉の向きを修正し、静止したアレスに狙いを定める。


 ちくしょう、俺の馬鹿野郎おおおおおおお!


 ぐるるるるる! 

 はらわたを揺さぶるような、重厚な唸り声が聞こえた。その声はどんどん大きくなっていく。


 何かが近づいてきている!

 ディカイオの背後から!


「なっ……!」


 振り返るのと同時に、ディカイオはグールに喉元を噛みつかれた。彼は地面に押し倒され、怒鳴り散らしながらグールと揉み合う。


「アネモネ……! 貴様ッ……! 空っぽなグールの分際でこの私にぃぃぃぃ!」

 

 アネモネに蹂躙されるディカイオの背後では、ニケが両手で口を押さえ、あふれ出る涙を滴らせながら腰を抜かしている。

 

 ニケのそばの牢屋は、開いている。

 

 そうか、ニケさん。あなたが牢屋を開けたのですね……。

 

 ディカイオの首をアネモネが食いちぎり、血の噴水が上がった。


 血の噴水の高度がゆっくりと下がっていくにつれて、ディカイオのうめき声は消えていった。やがて、彼は少しも動かなくなった。


 アネモネは、ディカイオの亡骸をむさぼり食い続けている。

 

 アレスはニケを見た。

 ニケは力強く頷いた。


 アレスは頷き返すと、剣を振り上げた。

 そして、かつて〈希望の家〉の幸せな少女だったグールの首を、一刀のもとに斬り落とした。

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