邪悪

 まるで迷路だった。あちこちに左右に折れる道があり、唐突に階段が現れることもあった。天井が低くてかがまないと通れない場所もあるし、幅が狭すぎて体を横にしないと通れない箇所もあった。扉をひとつひとつ蹴り破って中を確認した。しかし誰もいない。


 その時――。


「伏せて!」

 

 切羽詰まった怒鳴り声が響いた。ニケの声だ。

 

 考えるより早く、アレスは言葉に従って素早く地面に伏せた。

 

 ひゅっ……。

 直後、頭上を何かが通り過ぎた。それは背後からやってきたようだった。

 

 素早く立ち上がりながら振り返ると、廊下の向こうに、ディカイオとニケが立っていた。


「アレスくん。君は城の地下牢にいるはずでは?」

 ディカイオは愉快そうに笑って言った。


「お父様、あのね……」

 ニケがすかさず言葉を挟もうとする。


「ニケ。お前が手引きしたのだね?」


「……それは、その」


「悪い子だね」


 ディカイオはあきれ顔で肩をすくめると、アレスに向かって左腕を突き出した。腕には、黒鉄色の円盤が装着されている。

 〈円環の水鏡〉だった。紙のように薄い円盤を撃ち出し、敵を切り裂く武器だ。アステルは、あれで首を斬り落とされたのだ。


「アレスくん。悪いことは言わない。アステルの二の舞になりたくなければ、剣を仕舞いなさい。プシュケちゃんは諦めて、来た道を戻りなさい」


「馬鹿を言うな! プシュケは必ず助け出します! それだけではありません。ソピアさんたちの仇も必ず討ちます! 俺の言っていること分かりますか、ねえ、頭のイカれた暴君様! 貴様を殺すって言っているんですよおおおおお!」


「残念だよ。君のことは、とても気に入っていたのだがね」


 ディカイオは右手で〈円環の水鏡〉のスイッチを押そうとする。


「逃げて!」

 瞬間、ニケがディカイオの左腕に掴みかかった。軌道が逸れた〈円環の水鏡〉は、地面に向かって円盤を発射した。

「アレスくん行って! プシュケちゃんを見つけて!」


「でもニケさんあなたは!」


「僕は大丈夫!」

 ニケは、目にもとまらぬ早業で、ディカイオの腰から短剣を奪い取った。そして彼に切っ先を向けた。

「行って! ごちゃごちゃ言ってないで行きなさいっ!」


「は、はい! 生きて会いましょう!」

 アレスは駆けだした。


 通路を全力で駆けた。扉を見つけるたびに蹴り破ってプシュケの姿を探した。


「どこですか、どこなんですかプシュケ!」


 焦りは募る。

 地の利はディカイオにある。追いつかれるのは時間の問題だ。狭い通路でディカイオと対峙するのは絶対に避けないといけない。遠距離武器である〈円環の水鏡〉の恰好の餌食だ。

 

 やがてアレスは、ひときわ大きく開けた空間に出た。


「ここは……?」


 そこは円形の空間だった。円周の壁面を削って作られた牢屋が、等間隔に並んでいる。見上げると、頭上は吹き抜けになっていた。天井は二十メートルほど上にある。天井のところどころには穴があいており、そこから月明かりが差しこんで、アレスの立つ地下を淡い青色でまだらに染めていた。


 アレスは周囲を見回しながら歩いた。天井と地面を繋ぐ太い岩の柱がたくさんあって、見晴らしはよくない。


「アレス!」


 叫び声が聞こえた。声がした方を見ると、プシュケがいた。


「プシュケ!」アレスは叫んで、プシュケに走り寄った。


 壁面の牢屋の一つに、彼女は閉じ込められていた。


「アレス! よかった、また会えて、よかったぜ……」


 プシュケは純白の薄手のローブを着て、手足は枷で拘束されている。足枷は鎖で壁に繋げられている。


「大丈夫ですか? 怪我していませんか?」


「ああ。危険な薬を使われてさ、一時は死ぬかと思ったけど、もう峠は越えたみてぇだ」


「よかったです。あなたに何かあったら、俺……」

 アレスはこみ上げる涙をこらえ、首を振った。

「今は再会を喜びあっている暇はありませんね。プシュケ、今出してあげます」


「無理だ。鍵がねぇんだもん」


「〈太陽の剣〉で、鉄格子なんて焼き切って差し上げます! そのろくでもない鎖も! 下がってください、プシュケ!」


 アレスは、剣を鉄格子に叩きつける。激しい火花が散り、プシュケが「ぴゃあ!」と悲鳴をあげる。

 鉄格子は、ぐにゃりとひしゃげた。よし、攻撃を繰り返せば壊せる!


「後ろだアレス!」


「……!」

 

 アレスは素早く振り返る。

 〈円環の水鏡〉をこっちに向けるディカイオの姿が目に入った。すかさず、横に飛び込んで回避行動をとった。

 

 一瞬の後、〈円環の水鏡〉から発射された円盤が鉄格子にぶつかって鋭い音を立てた。


「いい反応だよ、アレスくん」


 ディカイオは、挑発的な拍手を奏でながら歩き寄ってくる。


「アレス!」

 プシュケが叫んだ。

「あたしは大丈夫だ! あいつはあたしを殺すわけにはいかねぇからな! だからさアレスは自分の命を守ることに専念しろ!」


「奴を殺して、必ずあなたを助けます!」


 アレスは大きな柱に向かって駆け、身を隠した。〈円環の水鏡〉の攻撃から逃れるには、遮蔽物に身を隠しながら戦うしかない。

 幸い、この空間は、身を隠すには十分な大きさの柱があちこちにある。アレスは柱から柱へ移動し、ディカイオを攪乱した。


「……よし。奴は完全に俺を見失ったはずです。あとは息を潜めて、奴が近づいてくるのを待つだけ……! う、うわああああああ!」


 アレスは思わず飛び上がった。なぜなら、背後の牢屋の鉄格子から、一人の裸の少女が鬼の形相で手を伸ばし、アレスを掴もうとしたからだ。彼女は鉄格子の間に顔を突っ込んで、歯をむき出しにして、よだれを垂らして唸り声をあげている。


 こいつは、グールだ……!

 

 足音が近づいてくる。

 まずい、今の騒ぎで、位置がディカイオにバレた!

 

 アレスは慌てて柱の陰から飛び出すと、別の柱に向かって走った。

 

 しゅっ! 

 耳元を、円盤が通り過ぎるのが分かった。

 

 柱の後ろに身を隠してから頬に触れてみると、手に血が付着した。


「ディカイオさん!」

 アレスはヤケクソで叫んだ。

「なんなんですか、あいつは! なんでグールが牢屋の中にいるんですか! ああちくしょう!」


「この子はアネモネという。見てのとおり、とびきりの美少女だ。買い取りたいという他国の友人のために、捨てずにこうしてキープしているのだ」


「グールを買い取る輩がいるのですか……?」


「ああ、いるよ。大勢ね。グールは、魂こそないが、肉体は生きている。食事も排便もするし、赤い血だって流す。排卵はしないから出産こそできないけど、性行為はできる。むろん、かなり気を使う作業になるがね」


 アレスはわけが分からなかった。

 性行為……? たしかに理論的に言えば可能だが……。


「その友人とやらは、性的な楽しみのためにグールを買い取るのですか……?」


「そうだよ。友人は地位のある人間だし、彼の国は性に厳格なことで有名なのだ。生身の妾をとるわけにもいかない。そういう人間はグールを欲しがる。やりたいだけやって、飽きたら殺せばいいのだ。しょせんはグールだ。殺したところで誰も文句は言わない」


 アレスは、柱から顔をのぞかせ、牢屋の中で唸り声を上げ続けるグールを見た。

 〈希望の家〉で何も知らされずに育てられ、仲間と友情をはぐくみ、あるいは恋をして、夢を抱いて――だけど12歳になったら薬で植物状態にされて、エクスマキナの「糧」として使い捨てられた、不幸な少女、アネモネ。


 アレスは、グールになってしまう前の彼女のことを思い、改めて怒りに震え、ぎりりと歯噛みする。


「貴様はいったいどこまで腐ってやがるんですか……! 死肉にも劣るゲス野郎め……!」


「ああああああ!」


 突如、何者かの絶叫が聞こえた。

 

 ディカイオは驚愕の表情で、声のしたほうへ素早く振り返る。


「ニケさん!」

 アレスは叫んだ。

 

 絶叫の主はニケだった。彼女は今まで柱の陰に隠れていたようだが、怒りに耐えきれず飛び出し、ディカイオに向かって短剣を振り下ろしたのだ。

 

 しかしディカイオは、その攻撃を〈円環の水鏡〉で受け止めた。それは盾として使うこともできるようだ。


「お父様には人の心がないの!? どうしてそんなひどいことができるの!?」


「ニケ。やめなさい」


 ニケは短剣を押し当て続ける。


「ニケ」

 有無を言わさぬ迫力を伴った声で、ディカイオは言った。

「やめなさい」


「……」

 今度は、ニケは素直に短剣を引くと、それを地面に捨てた。


「いい子だ」


 しかし、ニケは攻撃を諦めたわけではなかった。彼女はディカイオに飛びつくと、首に噛みついたのだ。


「ぐっ……! やめろ!」


 ディカイオは、ニケを強引に引き剥がし、地面に放り投げた。


 ニケは背中から地面に落下し、「うぐっ」とうめき声をあげる。だけどすぐに立ち上がり、ディカイオを睨み上げる。


「お父様! もうやめてよ! アレスくんとプシュケちゃんを、そして〈希望の家〉の子供たちを解放して! お父様にまだ人の心が残っているなら、僕の言葉を聞いて!」


「ニケ。口を慎みなさい」

 ディカイオは、ぬくもりを欠いた声で言う。

「お前は、自分だけは傷つけられないと高をくくっているのではないか?」


「え……?」


 ディカイオは〈円環の水鏡〉のスイッチを押した。発射された円盤は、ニケの右足のふくらはぎを切り裂いた。


「あああああ!」

 ニケは激痛に悲鳴をあげ、地面に倒れた。

 

 アレスは救助に向かおうとするが、ディカイオが〈円環の水鏡〉を発射するほうが早いと即座に判断し、柱の後ろに戻った。


「ニケさん! 大丈夫ですか!?」

 柱の後ろから声を投げかける。


「あ、ああ……ちゃんと足はついてるよ……ぐあ!」


 ニケのうめき声が聞こえた。

 

 アレスが柱から顔をのぞかせると、ディカイオが愛娘の腹につま先をねじ込んでいる光景が目に飛び込んできた。


「やめろ! あなたの娘さんでしょう!」


「うちの教育に口出しするな小僧おおおおおお!」


 ディカイオは顔を憤怒に染め、声を張り上げた。彼がこんなに感情を露わにするのを、アレスは初めて見た。


「ニケ。お前は私の跡を継ぐ者だ。ミネルウェンを理解し、受け入れないといけないのだ。お前はいずれ、私の仕事を引き継ぐことになるのだからね」


「嫌だ! 僕は子供たちを不幸にする政治なんてまっぴらだ! 死んでもごめんだ!」


 ディカイオはため息をつき、憂さ晴らしをするようにニケの腹を蹴とばした後、一転して優しい口調で諭すように何かを語り始めた。


 その隙を、アレスは見逃さなかった。彼は柱から柱へと移動し、ディカイオの背後に迫っていた。あとは背中をひと突きして、その邪悪な魂を天へと返してやるだけだ。


 しかし、なぜか運は、邪悪な魂の持ち主に味方をしているようだった。にわかに、月が厚い雲で隠れてしまったのだ。そのせいで、天井の穴から差し込んでいた月光は消滅し、あたりは真っ暗になった。


 今この瞬間、唯一の光源は、アレスが持っている〈太陽の剣〉だけだった。それは、ぼんやりと橙色の光を放ち、持ち主の潜伏場所を饒舌に叫んでいた。

 

 まずい……!

 慌てて剣を鞘に仕舞った時にはすでに、〈円環の水鏡〉から発射された円盤は、アレスの脇腹を切り裂いていた。


「ぐ……!」


 咄嗟に回避行動をとったため致命傷こそ避けられたものの、アレスは体勢を立て直すために、大きく後退せざるを得なかった。

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