リフレイン

「――プシュケちゃん。私が分かるかい?」

 

 ベッドの上に仰向けで寝かされているプシュケの顔を覗き込みながら、ディカイオは言った。

 

 プシュケの脳内には、熱を帯びた頭痛が根差していた。体は不思議な浮遊感に包まれており、気を抜けば空まで飛んで行ってしまいそうだった。

 しかし、プシュケの目の前に広がっているのは、思わず飛んでいきたくなってしまうような青空ではなく、辛気臭いごつごつした岩肌の天井だった。


「大丈夫そうだね」

 ディカイオは、心底ほっとした様子で言った。

「〈先祖返りリフレイン〉は成功だ」


 過去と現在、自分と他者、身体と魂、あらゆるものがごちゃまぜになったような、混沌とした感覚――それが、プシュケの全身にまんべんなく広がっている。


 それは、彼女に投与された〈先祖返りリフレイン〉がもたらす酩酊感である。


「プシュケちゃん。君が見たものを、ありのまま話してほしい」


「分かった」


 言葉がプシュケの喉の奥から引きずり出される。まるで自分とは別の誰かが言葉を発しているように彼女には感じられた。プシュケはディカイオの問いかけを無視することも、要求を拒否することもできないのだ。〈先祖返りリフレイン〉という恐ろしい薬物の効力のせいで。


「魂に刻まれた、ご先祖様の記憶を見ることができたかい?」


「できなかった」


「どうしてだろう?」


「分からない」


 ディカイオは、顎に手を添えて考え込む仕草を見せた。そして少し間を置いて言った。


「あるいは、トラウマが記憶の喚起を阻害しているのかもしれないね。そういえばプシュケちゃんは、幼少の記憶がほとんどないと言っていたね?」


「うん。幼少の記憶はほとんどない」


「あるいは、そこにトラウマが潜んでいるのかもしれないね。ご先祖様の記憶にたどり着くには、まずは現世の記憶を蘇らせる必要がありそうだ。その扉を突破しないと、ご先祖様の記憶の領域には踏み込めないのだろう、おそらく」


 やめて、と、プシュケは心の片隅で思った。でも、心の大部分は〈先祖返りリフレイン〉で麻痺してしまっているため、拒絶の言葉は秘密裏に破棄されてしまう。


「あまりこういうことは得意ではないのだが、自由連想法をやってみよう」

 ディカイオは言った。

「プシュケちゃんが思い出せる、いちばん古い記憶を話しておくれ。断片的でいい。心に浮かんだイメージを自由に話すのだ」


 プシュケは、指示されたとおり、頭に浮かんだイメージをぽつぽつと話した。

 得られた証言をもとに、ディカイオはさらに核心へと迫る質問を重ねていく。


 やがてプシュケの心の中で、不条理だった断片的なイメージがくっつき始めた。


 いやだ、とプシュケは思った。思い出したくない! 


 しかし、〈先祖返りリフレイン〉の効力には逆らえない。プシュケの心は、過去へと緩やかにトリップしていく――


 

 ――完膚なきまでに荒らされた教会の中に、プシュケはいた。窓の外では、家々が燃え盛っている。悲鳴があがる。断末魔が聞こえる。

 

 プシュケは教会の中を見渡す。大勢の大人たちの死体が転がっている。燃えている死体もある。子供たちの多くはすみっこに集まって身を寄せ合い、震えて涙を流している。

 

 プシュケの両親が床に倒れている。プシュケは二人の死体のそばに、呆然と立ち尽くしている。

 

 どうして、こんなことになってしまったのだろう……? いつものように、静かに夜のお祈りをしていただけなのに……。ただ、それだけなのに……。なのに、どうして、お父さんやお母さんたちは殺されてしまったのだろう……?

 

 両親を斬った相手を、涙を湛えた目で、プシュケは精一杯睨みあげる。

 

 殺人鬼は、まだ子供のようだった。十代の前半くらいだろう。不気味なほど透き通った綺麗な目をした、白い肌の少年だ。刀身が太陽のように輝く不思議な剣を持っている。


「あなたを助けにきました」

 少年は言った。

 

 相手が何を言っているのか、プシュケにはさっぱり理解できない。助けにきた……?


「あなたは騙されていたんです」

 少年は、床の二つの死体を剣で交互に示して言った。

「あなたはこの二人をお父さんとお母さんだと思っているみたいだけど、それは違います。こいつらは、あなたを騙していたんです」


「な、何を言って……」


「あなたの本当のお父さんとお母さんは、とっくの昔に死んでいます」


「馬鹿なこと、言ってんじゃねぇよ……!」

 プシュケは勇気を振り絞って掠れる声で叫ぶ。


「あなたの両親だけじゃない。この村の大人はみんなそうなんです」


「……え?」


「この村の大人は一人残らず悪党なんです。子供を誘拐してきて、自分が親だと嘘をついて育てて、売り飛ばす。そういう連中の集まりなんです。だから殺していいんです」


「……お前、自分が何を言ってんのか、分かってんのか……? そ、そんな、馬鹿みたいな法螺話、どこで聞いたんだよっ!?」


「××××さんから聞いたんです」

 少年はうっとりとした表情を浮かべる。

「××××さんは嘘をつかないんです。××××さんが言うことは全て正しいんです。××××さんがこの村の大人は悪党だと言ったんです。××××さんが村の大人を皆殺しにしろと言ったんです」


 狂ってる。この少年は純粋に狂っている……。

 

 プシュケの体は震え、歯ががちがち鳴っている。涙がとめどなく溢れる。手足が動かない。まるで金縛りに遭ったみたいに。


「あなたはプシュケという名前で呼ばれていましたね? なんでしょう、なぜだか、あなたには特別なものを感じます。うまく言えませんが、魂がすぅっと引き寄せられる感覚があるんです。俺とあなたは出会うべくして出会った、そんな気がするんです」


 プシュケは何も答えられない。ただ震え、泣き続ける。


「さあ」

 少年は、プシュケに手を差しのべた。

「一緒に行きましょう、プシュケ」


 少年の指が、プシュケの鼻先に触れた。


 それを合図にしたかのように、プシュケの金縛りがプツンと解けた。


「嫌ああああああああ! あたしに触るな悪魔あああああああああああああ!」


 プシュケは絶叫して少年の手を振り払うと、這う這うの体で扉へ向かった。


 その背後を、少年は悠々とついてくる。


「かわいそうな子だ」

 少年は言った。

「気持ちは分かります。本当ですよ。俺はあなたと同じだったんです。たぶん、そうだったと思います。今ではもう思い出せないけど、俺も悪党に誘拐されたことがあるんです。そこを××××さんに救ってもらったんです」


 大声で言葉にならない言葉を叫びながら、プシュケは扉に向かって這っていく。息が苦しい。ほとんど過呼吸の状態だ。


「俺は最初は、××××さんを憎んでいた気がするんです。思い出せないけど、たぶん憎んでいた。でも、××××さんが少しずつ『本当のこと』を教えてくれて、俺は目覚めたんです。大丈夫ですよ、怖くないですから。あなたも少しずつ『本当のこと』を知っていけばいいんです。いつか嫌なことはぜんぶ忘れることができますよ。俺と同じように」


 うるさい! 黙れ、黙れ黙れ黙れ! 人殺し! 人殺し人殺し人殺し!


 ようやく、出入口の扉に手が届いた。膝立ちになり、取っ手に手をのばした。


 その時、自然と扉が開いた。いや、そうじゃない。外から扉が引き開けられたのだ。

 扉の隙間から、燃え盛る炎の光の洪水が流れこんできた。あまりの眩しさに、プシュケは思わず目をつむり、尻もちをついた。それから恐る恐る目を開けると、そこには長身の女性が立っていた。顔に不自然な影が落ちており、面相は把握できない。


「××××さん!」

 少年が、その女性に駆け寄っていく。

「××××さん見てください! ここの悪党ども、俺が全員殺したんです、えらいでしょう?」


 長身の女性は少年の頭を撫でた。


「ええ。すごくえらいわ、アレス――」



「――思い出したことがあったら、話しておくれ」


 プシュケの意識は地獄のような教会から、薄暗い部屋に戻った。

 彼女は思い出したことを全て包み隠さずディカイオに話した。言葉が勝手に口をついて出た。


「それはつらかったね。両親との記憶に霧をかけ、闇に追いやってしまうのも無理はない。人間は強いショックを受けると誰でもそうなる。それにしても、まさかアレスくんがねえ」


 ディカイオは、社交辞令のようによそよそしく言った。彼にとっては、アレスがプシュケの両親の仇だったという事実など、まるで興味がないのだ。


 一息おいて、「さて、これからが本番だ」とディカイオは言った。


「トラウマの封印は解かれ、障害は消えた。よって、扉は開かれたはずだ。さあ、プシュケちゃん、意識を集中して。ご先祖様の記憶の中へ心をダイブさせるのだ――」

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