6章「減らない国」
プシュケの消失
朝目覚めると、プシュケが消えていた。
「プシュケ……?」
アレスは寝ぼけ眼をこすりながら、部屋を見渡す。ベッドにも、書き物机にも、彼女の姿は見当たらない。
「トイレでしょうか……?」
しかしアレスが着替えを済ませ、いつでも出掛けられる状態になっても、プシュケは戻ってこなかった。
念のためアレスはクローゼットの中とベッドの下まで確かめてみたけど、当然いない。
アレスは心をモヤつかせながら部屋を出て、帳場で仕事をしている女将さんに声をかけた。
「すみません、女将さん。プシュケを見ませんでしたか?」
「私はいつもどおり夜明け前には起きて仕事をしてたけど、見てないねぇ」
「そうですか……。もしどこかで見かけたら、部屋にいるように伝えてもらえますか?」
「あいよ」
女将さんは笑顔で頷いた。
「朝ごはん、食べるかい?」
「いえ、今日は結構です。ありがとうございます! 行ってきます!」
アレスは宿屋を飛び出すと、城へ向かった。あるいは、プシュケはニケに会いに行ったのかもしれないと考えたのだ。
城で憲兵に事情を話し、ニケに取り次いでもらった。間もなくしてニケが城の外に出てきた。彼女の第一声で、自分の予想が空振りであることをアレスは悟った。
「あれ? プシュケちゃんは一緒じゃないの?」
「……朝起きたら、いなくなっていたんです」
アレスの中で焦燥感がみるみる大きくなっていく。
「もしかしたら新たなグールマンが現れて、プシュケをさらってしまったのかもしれません! ニケさん、どうしよう! 俺はどうすればいいでしょうか!」
「落ち着いてアレスくん」
ニケはアレスの両肩を優しく掴んだ。
「まずは、状況を教えて。昨夜は、プシュケちゃんは確かに部屋にいたんだね?」
「はい。それぞれベッドに入って、蝋燭の火を消して、おやすみって言って……。俺はすぐに寝てしまいました。朝までぐっすりです。そして起きたらプシュケのベッドはもぬけの殻だったんです。宿屋の女将さんもプシュケの姿は見ていないと」
「……部屋の鍵は、かけていたんだよね?」
「もちろんです」
「アレスくんが朝までぐっすりだったということは、特に怪しい物音もなかったわけだ」
「はい。怪しい物音がすれば飛び起きます。旅をしていると、危険なことがいっぱいなので、自然と物音に敏感になっていくんです」
外の世界では、一瞬の油断が命取りになる。眠る時でさえ、鋭敏な注意を周囲に払い続ける必要がある。
「物音に敏感なのはプシュケも同じです。むしろ俺よりプシュケのほうが敏感です。あの子は眠りが浅いから」
「もしプシュケちゃんが何者かの侵入を察知すれば、当然悲鳴をあげたはず」
「はい。そうなれば、当然俺は飛び起きたはずです」
ニケは腕を組んで、ジッと考え込んだ。それから少し時間を置いて言った。
「そうなると、プシュケちゃんが夜中に、自分でこっそり部屋を出て行ったとしか考えられないよね……」
「そんな……。俺に何も言わず夜中に出掛けるなんて、彼女が、そんな……」
「実はね、アレスくん。僕ね、ひとつだけ心当たりがあるんよ」
ニケはそう言うと振り返り、城を見上げた。
★
「どうぞ」
部屋の中から声がした。アレスとニケは、ディカイオの執務室に入室した。憲兵が外からドアを閉め、部屋には三人だけになった。
「待たせて申し訳ないね」
ディカイオは言った。
「さあ、くつろいでおくれ」
アレスとニケは、それぞれ椅子をデスクの前まで移動させて座った。デスク越しにディカイオと向き合う形になる。
「夕飯のメニューを聞きに来た、という感じではなさそうだね」
「お父様。プシュケちゃんがね、いなくなってしまったんよ」
ニケは単刀直入に切り出した。
「何か知らない?」
「プシュケちゃんが消えた?」
ディカイオは眉を顰める。
「護衛にあたっている憲兵からは、何の報告も受けていないが……」
「お父様」
ニケはデスクに身を乗り出し、厳しい表情を浮かべる。
「とぼけるのはやめて」
「どういう意味だい?」
「僕、聞いてしまったんよ。一昨日の夕食会の後、お父様とプシュケちゃんが話しているのを」
「いけない子だね」
ディカイオは椅子に深く座り直し、呆れたふうにため息をついた。
「ごめんなさい。お手洗いの帰りに、食堂の前で深刻そうに話してる二人を見つけて、気になって隠れて聞いちゃったんよ……。お父様はプシュケちゃんに『記憶を蘇らす手伝いができるから、その気になったらいつでもおいで』と言ってたよね。それから『アレスくんには知られないほうがいい』とも」
「え?」
話にうまくついていけずに混乱していたアレスだが、急に自分の名前が出てきたことで、半ば強引に話に巻き込まれる形になった。
「それに対してプシュケちゃんは『夜遅くに訪ねても大丈夫?』と聞いて、お父様は『いつでも歓迎するよ』と答えていた」
「お前の耳の良さにはいつも感心するよ」
ディカイオは和やかな笑みを浮かべる。
「しかしながら、プシュケちゃんは私に会いに来てはいないよ」
「ほんと?」
「本当だ」
ディカイオは、誠実そうな光を目に宿して言った。その目を見れば、それ以上追求する気は失せてしまう。彼は本当にプシュケの行方は知らないのだと、アレスは思った。
「そっか」
ニケはほっとしたようにも落胆したようにも聞こえる声で言った。
「ともあれ、プシュケちゃんが消えたことは事実だから、憲兵たちに捜索をお願いしてほしいんよ」
「ああ、もちろんだ。すぐに手配する」
「行こうアレスくん」
ニケは椅子から立ち上がる。
「僕たちも、手あたり次第捜してみよう」
「はい、そうですね……ん?」
椅子から立とうとしたアレスは、足元に何か落ちているのに気づき、ぴたりと動きを止めた。
デスクの両側には引き出しがついているので、その部分と床との間には僅かな隙間しかない。その僅かな隙間に、それは隠れるように落ちていた。
アレスはそれを拾い上げると、驚きで目を見開いた。
「ニケさん」
「ん? どした、アレスくん?」
「座ってください。もう少しだけ、ディカイオさんと話をする必要があります」
「何か、気づいたことでも?」
ニケは言いながら、また椅子に腰を下ろした。
アレスも浮かしかけた腰を下ろし、デスク越しにディカイオを睨みつけた。
「本当のことを話してください、ディカイオさん。ちょっと前まで、プシュケはここにいたのではありませんか?」
「そのことは、さっき話したはずだけどね」
「とぼけないでください」
アレスは、床から拾い上げたものをデスクに叩きつけた。それは、昨日、ソピアがプシュケにプレゼントしたミサンガに間違いなかった。
「おや、お揃いなのだね。妬けるねえ」
シャツの袖から覗いたアレスの手首に巻かれたミサンガを見て、ディカイオは言った。
「どういうことですか? どうしてこの部屋にプシュケのミサンガが落ちているのです?」
「どうしてって」
ディカイオは肩をすくめ、ふっと笑みをこぼす。
「ついさっきまで、この部屋にプシュケちゃんがいたからに決まっているではないか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます