ソピアの想い
正午を知らせる時計台の鐘の音で、アレスは目覚めた。
ベッドに横になったまま、薄目で窓を見る。カーテンは開かれており、窓の向こうに文句なしの晴天が広がっていた。
その眩しさから逃れるように寝返りを打った直後、アレスはぎょっとした。目の前に、満面の笑みを浮かべたソピアが立っていたからだ。
「アレスさん、おはようございます」
「お、おはようございます……」
どうしてソピアさんがここに? アレスがそう尋ねるより早く、ソピアが口を開いた。
「アレスさん、お顔の傷、どうしたんです?」
ソピアは、アレスの頬に触れて言った。
「……ちょっと、階段から落ちてしまいまして」
ソピアの背後では、プシュケが不機嫌そうにベッドに腰かけて、髪にリボンを結んでいた。
「アレス。起きたなら早く着替えろ。出掛けんぞ」
「出掛けるって、どこにです?」
「ソピアに聞け」
アレスは、視線をソピアに戻した。
「観光ですよ!」
ソピアは、気品あふれる笑顔で言った。王女様であるニケより、よっぽど上品な笑い方をする娘だ。
「観光、ですか……?」
よく分からないけど、今日は特に予定はない。アレスはベッドから出て身支度を始めた。
「やっぱさ、アレスと二人だけで行ってきたほうがいいんじゃねぇの? あたしなんて邪魔だろどうせ? ふんっ」
プシュケは不貞腐れて言うと、ぷいっとそっぽを向いた。
「いいえ」
ソピアは答えた。
「プシュケさんも一緒がいいんです」
「ふん……。仕方ねぇな。でもあたしの方がちょびっとだけ年上なんだから敬えよな。あんまりナメた態度とると、あれだぞ、なんかスネの痛いところ思いっきり蹴るからな!」
敵意むき出しのプシュケに対し、ソピアは余裕の笑顔で「はい」と答えてくすくす笑う。
宿屋を出ると、道で馬車が待機していた。
「まさか、ソピアさんが馬車を手配してくれたのですか?」
アレスは驚いて尋ねた。馬車を雇うには高額な料金が要る。グールのせいで馬が激減した影響で、値段は上がる一方だ。
「いいえ。私ではありません。馬車を手配するお金なんてありませんから。ニケです。今日は特別な日なので、ニケがお祝いの一環として馬車を手配してくれたんです」
「特別な日、ですか?」
「あとでお話しします」
三人は馬車に乗って北エリアへ向かった。観光地は自然豊かな北エリアに集中している。
客車の後ろの窓から外を見ると、馬に乗った憲兵が三人ついてくるのが見えた。やれやれ。今日も護衛に付きまとわれるようだ。アレスは思わずため息をついてしまう。
ソピアは最初に、〈枯れない池〉を案内してくれた。円形の小さな池だ。透き通った綺麗な水が湧いている。千年以上前から現在に至るまで、一度も枯れたことがないのだという。ここの水を飲むと、身体についている悪霊を祓えるという言い伝えがあるそうだ。アレスとプシュケは手ですくって一口飲んでみた。
「ちょっとしょっぱいですね!」
アレスは言った。
「成分が知りたい……」
プシュケはもう一口飲んだ。「水筒に入れて持ち帰ってもへーき?」
「大丈夫だと思いますよ」
ソピアは笑った。
次は〈血の湿地〉を案内してもらった。赤黒い水が張ってあり、その水面を蓮の葉や藻が所々覆っている。
木製の橋がかけてあり、三人はその上を歩いた。細い橋なので一列になる必要があった。
「こ、これ、ほんとに血なんか……?」
プシュケは顔を真っ青にして、恐る恐る尋ねた。
「そうですよ」
ソピアはくすくす笑いながら答えた。
「ここの水を赤く保つために、ミネルウェンでは毎年、百人の生贄が選ばれるんです」
「ひぇ~!」
「ソピアさん」
アレスがため息をつく。
「プシュケは本気で信じちゃいますよ」
「すみません」
ソピアは舌をぺろりと出して笑った。
橋を渡り終えた先には森が広がっていた。その森こそが〈囀りの森〉なのだという。野鳥の囀りが絶えない、心安らぐスポットだ。三人は遊歩道を歩いていく。
「いい場所なのですが、恋人同士で来る人が多くて、ばったり遭遇すると気まずかったりします」
「なんで気まずいんだよ?」
プシュケは首を傾げる。
「この森は、人の心を開放的にしすぎるんです。なので、恋人同士で燃え上がっちゃったりして……」
「あー、チューとかしちゃうわけな!」
「チュウだけで済めばいいんですけど……」
ソピアは頬を赤らめて言った。
森はだんだんと上り坂になり、やがて足元に崖が現れた。それ以上は進めないようだ。
「ここは〈地獄谷〉です」とソピアは言い、小石を崖下に放り投げた。「……ほら。いつまで待っても音がしないのです。つまりそれだけ深いということです。昔は、ここに死体を投げ捨てていたという言い伝えがあります」
「物騒だな」
プシュケは数歩後ずさった。
「ほら、二人とも危ねぇから下がれよ死ぬぞ」
「この谷を一緒に覗き込んだ男女は、将来結ばれるという言い伝えもあるんですよ」
ソピアは肩越しに振り返り、悪戯っぽい笑みをプシュケに向けて言った。それからまた谷を覗き込んだ。
アレスも「ほんと、底が見えませんね」と感心した様子で谷を覗き込んでいる。
プシュケはムッとした表情を浮かべ、ゆっくりと崖に近づくと恐る恐る谷を覗き込んだ。
「ちなみに、さっきの話は嘘です」
ソピアは舌をぺろりと出して笑った。
プシュケは顔を真っ赤にして「て、てめぇ、ナメやがって!」と憤慨するが、とくにソピアに何をするわけでもなく、ずんずんと来た道を引き返して行ってしまった。
アレスとソピアは彼女の後を追った。
農園が密集しているエリアの小道を歩いていると、林檎を山盛りにした荷車を引く初老の女性と出くわした。
彼女は「あら、ソピアちゃん」と頬をほころばせ、子供たちにひとつずつ林檎をくれた。アレスたちはお礼を言ってから、馬車に向かって歩き始めた。すでに日は暮れかけている。
「今日は楽しかったです」
林檎を齧りながら道を歩いている時、ソピアがそう言った。
「俺もです」とアレスは言った。「とても楽しかった」
「あたしも、まあまあ楽しかった」とプシュケはぶっきらぼうに言った。「ミネルウェンの観光資源の豊富さには、しょうじき驚いたぜ」
三人は馬車に乗り込んで、南エリアへ帰ることにした。客車の中で、ソピアは何やら言いたそうにもじもじしていたが、やがて意を決したように切り出した。
「実は私、今日が12歳の誕生日なんです」
「そうなんですね、おめでとうございます!」
そう言って、アレスは笑顔で拍手をした。
「……へえ。ようやくあたしと同じステージまで上がってきたわけだ」
なぜかプシュケは挑戦的に言う。
「でもあたしのほうが何ヶ月か年上なんだぞぅ敬え! でもおめでとう!」
アレスとプシュケは、それぞれ精いっぱい祝福した。しかしなぜかソピアの表情は暗かった。
「私たち〈希望の家〉の子供は12歳になると卒業なんです。それから15歳になるまでは、ミネルウェンの同盟国である〈メティルカン〉で暮らすことになります。そこで寮生活をしながら、勉強と職業訓練をして、希望すればまたミネルウェンに戻って来られます」
「ミネルウェンを出ないといけないのですか?」
アレスは、悲しみと、いくぶんかの怒りがまじった声で言った。
「仕方ないんです。私は孤児です。勉強もお仕事もできないままでは、ただのお荷物になってしまいます。ミネルウェンは他に類を見ない子供に優しい国ですし、暮らしも豊かですが、それでもお荷物を無償で養うほど財政に余裕があるわけではありません。たとえ孤児でも、国に貢献できる立派な大人になる必要があります」
若干12歳で、国の事情を理解し、自分の境遇を受け入れることができるソピアに対して、アレスは憧れに近い感情を覚えずにはいられなかった。
「メティルカンには明日出発する予定なんです。だから、ミネルウェン最後の日である今日、アレスさんとプシュケさんと思い出を作りたいと思って、それで観光のお誘いを……」
「……そうだったのか」
プシュケは俯いた。
「お前とちゃんと話ができるの、今日が最後なんだな……。いいよ、あたしのこと敬わなくて。腹を割って何でも話せ」
「ありがとうございます、プシュケさん」
湿っぽい空気が、客車の中に充満する。
「ソピアさん」
アレスは身を乗り出し、対面に座るソピアの目を覗き込んだ。
「この前、俺たちと一緒に旅に出るのもアリかもって言っていましたよね? もしメティルカンに行くのが嫌なら、俺たちと一緒に……」
「さすがに、あれは冗談ですよ」
ソピアは笑う。
「私、剣術には自信アリですけど、グールがうろうろしている荒野を何日も旅するのは無理です。そこまで強くはありません」
「そうですか……」
「私、いっぱい勉強して、将来は研究のお仕事をしたいと思っています。遺物の研究をしたいんです。遺物は人々の生活を豊かにします。人々が豊かになっていけば、世界は平和になって、不幸な孤児も減ります。それが私の夢なんです」
「でっかくて素敵な夢じゃん! 分かる、分かるぜ、遺物はロマンの結晶だぜ!」プシュケは屈託のない笑顔で言った。
「ありがとうございます」
ふだんは口を開けて笑わないソピアが、綺麗な歯を惜しみなく見せて笑った。
ソピアだって孤児のひとりだ。きっと幼いころから寂しい思いをしてきたことだろう。大変な思いをしてきたことだろう。いくらミネルウェンとはいえ、差別を全く受けなかったということもないだろう。そんな彼女の、孤児を減らしたいという願いは、感動の矢となってアレスの心に深々と突き刺さった。
「ねえ、アレスさん」
ソピアは席から腰を浮かせ、アレスの耳元に顔を寄せた。
アレスはドキッとして、身体を硬直させる。
「私、アレスさんのことが好きだっていうのは、本気ですから」
ソピアは囁いた。
「でも、アレスさんの本心は、私ちゃんと分かっています」
「……え?」
「プシュケさんを、大切にしてあげてくださいね」
アレスが「は、はい……」と気の抜けた声を漏らした時にはすでに、ソピアは席に腰を落ち着かせていた。彼女の表情は、晴れ晴れとしているように見えた。
宿屋の前で、馬車は止まった。そこでアレスとプシュケ、それからソピアも降りた。御者は「毎度あり!」と言い残し、馬車を馳せて去っていった。
道のわきで、三人は名残惜しそうに佇んでいた。
「プシュケさんには、まだお礼を言っていませんでした。アレスさんから聞きました。グールマンの正体を突き止めてくれたのは、プシュケさんだと。プシュケさんも、私の命の恩人です」
ソピアは言うと、ポケットから短い紐を取り出し、プシュケに手渡した。それは藍色と檸檬色の二色で構成されているようだった。
「おお! かわいいじゃん!」
プシュケは歓声をあげた。
「これミサンガってやつだよな?」
彼女の言う通り、それは刺繍糸を編み込んで作られたミサンガだった。藍色の帯の中に、等間隔に檸檬色の模様がある。その模様は、曲線が滑らかな十字のような形をしている。夜空で星がぴかりと輝く様を表現していると思われる。
「これ、ソピアが作ったのか?」
「はい。以前、遠い国から来た旅人さんに作り方を教わったんです」
ソピアは同じものをポケットからもう一つ取り出すと、それをアレスに手渡した。
「俺にもくれるのですか? ありがとうございます!」
アレスはさっそく、それを左手首に装着しようとするが、片手で紐を結ぶのはなかなか難しい。見かねたソピアが、代わりに結んでくれた。
「おお! 人生初アクセサリです!」
「初めてがこんなお粗末な品でごめんなさい……。何回か、友達に作ってあげたことがありまして、すごく喜んでもらえたんです。だからアレスさんとプシュケさんにもって思って作ったんですけど、あの、もし邪魔だったら捨てちゃっていいですからね……」
「とんでもありません!」とアレスは叫んだ。「これ、イケてますよ! この模様、俺の踵の刺青と同じ模様ですし。あ、もしかして、合わせてくれたのですか?」
この前の剣術デートのとき、アレスは、ソピアに踵の刺青のことを話していたのだ。ソピアが見たいと言うので、実際に見せもした。
「はい。アレスさんの踵の刺青。それと同じ模様にしてみました」
ソピアはぱっと笑顔を弾けさせた。それからプシュケに視線を移した。
「プシュケさん。〈希望の家〉の友達から聞いたんですけど、プシュケさんの背中にも、このお星さまの模様があるんですよね? その子、お湯屋で一緒になった時に見たそうです」
「おうよ。模様というか、痣だけどな!」
「とても綺麗な模様だと言っていましたよ。見惚れちゃったって」
「綺麗? そんなこと言われたの初めてだぜ」
プシュケはまんざらでもなさそうだ。照れ隠しをするように、彼女は続けた。
「あたしたちも、ソピアに何かプレゼントあげねぇとな」
「そうですね。今日はソピアさんの誕生日なんですから。本当ならソピアさんがプレゼントを貰うのが道理というものです」
「そんな、大丈夫ですよ、お気遣いなく」
ソピアは手を顔の前で振る。
「私は、お二人に危ないところを助けてもらったんですから。一生かけてもお返しできないほどのものを、もう頂いてしまっています」
「ところがどっこいしょー、そうもいかないぜ! それじゃああたしらの気が収まらねぇ!」
プシュケは言った。
「何か、あげられるものは……あ、そうだ!」
プシュケは髪のリボンを外すと、それを差し出した。
「ソピアって、すげぇ綺麗な髪してるからさ、きっと似合うと思うぜ。これ貰ってくれよ」
「貰ってしまっていいんですか? すごく高そうなリボンなのに」
「いんや、そこまで高くねぇから、気にすんなって」
本当はそれが高価であることを、アレスは知っていた。
「ありがとうございます!」
ソピアは目を輝かせてリボンを受け取り、胸に抱いてにっこり笑った。彼女もプシュケと同じように髪をポニーテールにするのが好みのようなので、リボンは使いやすいだろう。
「私、髪には自信ありなんです。リボンはつけたことなかったけど、今日からイメチェンしてみようかな!」
「結んでやるよ」
プシュケはソピアの後ろに回ると、ポニーテールにリボンを結んであげた。
「おお、似合ってんじゃん! ま、あたしほどじゃねぇけどな」
プシュケは、ソピアを様々な角度から眺めて満足そうに頷いた。
「でもな、道具ってな、長く使うとどんどん主人に馴染んでいくんだ。いつかは、あたしよりそのリボンが似合うようになる日がくるかもしんねぇな! せいぜいがんばれ!」
「ええ、ええ、大切にします!」
ソピアは、プシュケにぎゅっと抱き着いた。
プシュケは頬を赤らめながら、「よしよし」と言って、ソピアの頭を撫でた。
「えっと……俺は……」
さて、アレスはソピアへのプレゼントをあれこれ考えてみたが、残念ながらあげられそうな物が一つも思いつかない。彼は必要最低限の物しか所有したがらない性格だから。
「……パンツか靴下ならあげられますが、いりますか?」
「んな臭ぇもんいるわきゃねぇーだろ!」
プシュケがアレスのスネを蹴とばして言った。
その様子を、ソピアはくすくす笑いながら眺めていた。
「そうだ! 俺、ソピアさんがメティルカンとかいう国に行っても、必ず会いに行きますよ。その時に、何かとびきりのプレゼントを差し上げますよ!」
「え? 会いにきて、くれるんですか?」
「当然だろ馬鹿。お前はあたしたちの友達なんだからさ」
プシュケがにっこり笑って答えた。
「あたしたちは旅に慣れてるしさ。なあ、アレスぅ?」
「ええ。地面が続く限り、どこまでも行きますよ」
ソピアの目から、一筋の涙がこぼれた。
「……ありがとう、ございます。生きる希望が、ひとつ増えました。また、いつか必ず、お二人とこうして笑い合いたいです……。今は泣いちゃってますけど……」
プシュケはソピアをそっと抱き寄せると、いつまでも優しく頭を撫で続けた。
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