プシュケの涙

 今夜も城での夕食会に誘われていたのだが、アレスはすっかり忘れていた。ミネルウェン脱出の件に気を取られ過ぎていたせいだ。

 アッと思い出した時にはすでに、夕食会スタートの時間は過ぎていた。


 アレスは全力で城へ走った。

 すでに顔パス状態なので、憲兵たちはすんなりと彼を中に通し、食堂まで案内してくれた。


 いつもどおり、食堂では、プシュケ、ニケ、ディカイオがテーブルについている。


「遅刻~!」と言いながら、ニケはアレスの椅子を引いてくれた。「まだスープは冷めてないはず。早く食べちゃいな」


「すみません」


 着席し、アレスは遅れを取り戻すようにせかせかとスープを飲んだ。


「何やってたんだよ~アレスゥ?」


 隣の席のプシュケががばっと抱き着いてきた。


「うわ、プシュケ、酒くさいですよ!」


「申し訳ない」

 ディカイオが酒瓶を手で示して言った。

「少し目を離した隙に、プシュケちゃんが飲んでしまってね……」


「水かと思って間違って飲んじった~!」プシュケはえへへ~と憎らしい笑みを浮かべた。


「本当は分かっていて飲んだのでしょう?」

 アレスはため息をつく。


「まあね~! 飲んだらどうなるか知りたかったし~味も知りたかったし~。なんか頭がポワポワするぞアレス~今ならお前にちゅーしてやってもいいくらい気分がいいぞアレス~。酒ってこんな感じなのか勉強になったぞ賢くなっちった~」


 プシュケはまくし立てると、ひっくとしゃっくりをした。


「申し訳ありません」

 アレスは深々と頭を下げた。

「このお馬鹿さんには後できつく言っておきますので……。お酒なんて、今では貴重品でしょうし……」


「そのことは気にしないでいいよ」

 ディカイオは笑った。

「つい昨日、〈薬の国〉から届いたものでね。量産化に成功しているようで、価格もかなり手ごろなのだよ」


 酔ったせいで凄まじいウザ絡みをしてくるプシュケに拳骨を食らわせながら、アレスは食事を続ける。


 なるべく早く、シャリテと打ち合わせた内容をプシュケに伝える必要がある。しかし、この酔っ払い娘が静かに耳を貸してくれるとは到底思えない。

 それに、ディカイオがいる空間で秘密を口にするのはあまりにも危険すぎる……。


「おや? アレスくん、私の顔に何かついているかい?」

 

 言われて、アレスはハッとなった。自然と、ディカイオを観察してしまっていたのだ。


「い、いえ、今日も男前だなーと思いまして!」


「あはは。そんなこと、妻以外に言われたことないよ。ありがとう」


 ちなみにディカイオの妻はすでに亡くなっている。以前、ニケが教えてくれた。


「僕も言ってあげてるでしょー?」とニケが頬を膨らませる。


「あはは。そうだったね、ごめんごめん」

 ディカイオは手をのばし、ニケの頭を撫でた。

 

 この、子煩悩で柔和な笑顔を絶やさない男が、果たして本当に、シャリテが言うような悪党なのか?


「……」


 アレスは自覚する。俺は今、シャリテさんとディカイオさんの両方を疑っている。最悪だ。二人とも命の恩人なんだぞ……。


「あの、ディカイオさん」


「ん?」


「仮の話です。あくまで、仮定です。もし俺とプシュケがすぐにミネルウェンを出て行きたいと言ったら、許していただけますか?」


 ディカイオは困り顔でアレスを見た。

「どうしたんだい? 何かあったのかい?」


「い、いえ、特に……。ただ、いつまでもお世話になるわけにもいかないですし、そろそろ旅に出ることを考えなくてはと思ったりしまして……」


「なに、気にすることはないよ。君たちはもう国民のようなものなのだから」


「そうだよ!」

 ニケは両手を組み合わせ、それを頬にくっつける格好で笑った。

「アレスくんとプシュケちゃん、いっそのこと、もうミネルウェンに永住しちゃいなよ! 実はね、南エリアに廃墟だらけの地区があって、その一帯を改築する計画が持ち上がってるんよ。二人に、出来上がったお家を一軒あげるよ! ね、いいでしょう、お父様?」


「もちろん。二人はグールマン事件の功労者でもあるのだから、特例として永住権をあげることに関して、誰も文句を言わないだろう」


 アレスの心は、切なく締め付けられた。こんなに親切な人たちを裏切って、俺とプシュケは明日、ミネルウェンから逃げ出すんだ……。


「だめっ!」


 プシュケの声が、食堂に響いた。

 

 その張りつめた声に、わいわい盛り上がっていたディカイオとニケは、ぴたりと喋るのをやめた。


「……どうしたの、プシュケちゃん?」

 ニケが恐る恐る尋ねた。


「ごめんな」

 プシュケの声はかすれていた。顔を伏せて肩を震わせている。

「あたしとアレスは旅人なんだ。いつかはさミネルウェンを出なくちゃいけないんだ。こんなに親切にしてもらってさずっと住んでもいいよって言ってもらってさ……。なのにさごめんなほんとにごめん……」


 ニケがゆっくり席を立ちプシュケの背後に回った。そして背中から彼女を優しく抱きしめた。


「そうだよね。こちらこそ、勝手なことを言ってごめんね。よしよし。泣かないで」


「うう……お酒のせいで涙が出ちゃっただけだい! たぶん泣き上戸なんだよぅあたしは」


 デザートを食べ、夕食会がお開きになった後、ディカイオがアレスに耳打ちした。


「アレスくん。ちょっといいかな?」


「え? あ、はい」


 ディカイオは、アレスを食堂の外に連れ出そうとしているようだ。

 アレスは〈太陽の剣〉がしっかり腰に差してあることを確認してから、ディカイオの後ろに続いた。警戒心を抱いてしまう自分が恥ずかしかった。


  廊下に出て、周囲に誰もいないことを確認した後、ディカイオはおもむろに話し始めた。


「実は――」



 アレスは落ち着かない足取りで、静かな夜道を歩いていた。


「嘘ですよ……。そんなの、嘘に決まっています……」


 アレスの頭は混乱で満ちていた。いち早く真相を確かめたくて仕方なかった。


 やがてアレスは、憲兵の詰所に到着した。

 そして、建物の前に設置してある掲示板に、恐る恐る目をやった。

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