恩人
アレスは城を出て、あてもなく歩いた。乱れた心を落ち着かせるには散歩がいちばんだ。
護衛はいらないと、憲兵には言っておいた。拍子抜けするほどあっさりと了承してもらえた。
「アレス」
ひとけのない路地を歩いていた時、アレスは何者かに背後から声をかけられた。
反射的に彼は剣のグリップに手をかけ、素早く振り返った。
アレスの視線の先には、小豆色のマントを羽織って眼帯で左目を隠した、長身の女性が立っていた。
「そんな……。嘘、ですよね……?」
アレスはゆっくりと、剣から手を離した。開いた口がふさがらない。目の前の現実が信じられなかった。
時計塔が、正午の鐘を鳴らした。その音が、二人の沈黙を際立たせる。
「久しぶりね、アレス」
「シャリテさん……」
旅団のリーダーであり、アレスとプシュケの母親代わりだった女性、シャリテ。
暁旅団の襲撃を受けた夜、命がけでアレスとプシュケを逃がしてくれた、命の恩人。
彼女は生きていたのだ。
★
シャリテは、とある廃屋へアレスを連れて行った。そこは、グールマン事件でアンドレイがソピアを連れ込んだ酩酊亭のすぐそばの建物だった。ここらは廃屋だらけ。隠れ家には困らない。
「私はここに隠れてるの。見つかるのは時間の問題だけどね」
シャリテは、埃の積もった床に腰を下ろして、乾パンを齧りながら言った。
「もしかして、噂の密入国をした女性というのは、シャリテさんのことなのでしょうか?」
「そういうことになるでしょうね」
「では、昨日、俺を助けてくれたのは……」
「私よ。危なかったわね、アレス」
シャリテの矢が、アレスの命を守ってくれたのだ。彼女がいなかったら、アレスはソウの玩具にされた挙句、むごたらしく殺されていただろう。
「ありがとうございます。昔からシャリテさんには命を救われてばかりです」
「仲間を助けるのは当然でしょ。お礼なんかよしてちょうだい」
「それにしても、どうして密入国などしたのですか? 普通に手続きして入国すればよかったのでは? そうすれば憲兵さんに追われることもなかったでしょうに」
「いろいろと、複雑な事情があってね」
「そうですか」
まあ大人っていろいろあるからなと、アレスは適当なことを思った。
「この国、入るのは簡単だけど、出るのは難しいみたいね。東西南北の四つの門以外、外に出る手段がない。門番に賄賂でも通用すれば話は早いのだけど、見た所どいつもこいつもバカがつくくらいの石頭どもみたいだし、無理そうね」
「シャリテさんは、どうしてミネルウェンに来たのですか?」
「こらこら、忘れたの? 言ったでしょう、必ず迎えに行くって」
そうだ。迎えにきたのだ。考えるまでもないことだ。
にもかかわらず、なぜかアレスはシャリテに対して妙に他人行儀な感情を覚えてしまうのだった。
ミネルウェンで過ごした時間が、二人の間に質量をもって横たわっているのを認めないわけにはいかなかった。
「あの、シャリテさん。旅団の皆さんは……?」
「ほとんど死んだわ。私も見ての通り、左目を失った」
シャリテは指先で眼帯に触れた。
「だけど生き残りもいるわ」
生き残りがいる。
その事実は、アレスの悲しみの核をいくつか溶かしてくれた。ほっとする思いだった。
「また旅ができるわ、アレス」
旅ができる。それを知ったら、プシュケは飛び上がって喜ぶだろう。しかしアレスは、素直に喜ぶことができなかった。
「シャリテさん。外の世界に出て、また旅をする必要があるのでしょうか?」
「外の世界、ね……。お前はずいぶんと、ここでの暮らしに染まってしまったみたいね」
「どうか気を悪くしないでください、シャリテさん。確かに俺はちょっとヤワになってしまったかもしれません。ここならグールやスカベンジャーに怯えなくて済むし、温かいベッドもあります。俺たちは自分らの国を作るために旅をしていますけど、果たして本当にイチから国を作る必要などあるのでしょうか? ここミネルウェンのように平和な国に帰化して生活するという手段もあるのではないでしょうか?」
その問いに、シャリテは答えなかった。ただアレスの目をじっと見据えていた。
「……ついさっき、暁旅団の男から話を聞きました。昨日シャリテさんが射止めた、ソウという男です」
「あの男、生きていたのね。私も腕がにぶったわね……。で、そのソウから何を聞いたの?」
「暁旅団の目的を聞きました。連中は、身体に〈星の痣〉と思しき痣がある人間を見境なく殺して回っているそうなんです。だからプシュケは狙われたんですよ。暁旅団は、きっとまたプシュケを殺しにきます。旅は危険です」
「その様子だと、プシュケが何者なのかも知っているようね」
「プシュケはイリニアの血族である可能性が高い。そうですよね?」
「ちょっと見ないうちに賢くなったみたいね、アレス」
シャリテは口元を緩ませる。
「そうよ。プシュケは、イリニアの王族の血を引いている」
シャリテのお墨付きを得たことで、プシュケがイリニアの血族であるということは、アレスにとってもはや疑いの余地がなくなった。
「さっきの質問に答えるわ。既存の国に帰化して暮らすことが悪いのかどうか、という質問」
「え? ああ、はい」
「悪いか悪くないかは一概には言えない。でも、少なくともミネルウェンに長く滞在するのは危険なのよ」
「危険とは、どういう意味でしょうか?」
「この国の王であるディカイオ。あいつは危険なのよ。彼は、イリニアの血族であるプシュケを手中に収めようとしているのだから」
「すみません。話がサッパリ見えてきません。それは、いったい、どういうことですか?」
「一言で言えば、ディカイオは悪党ってことよ」
「そんな! それは誤解です! ディカイオさんはいい人ですよ!」
たしかにディカイオは、イリニアの血族と思しきプシュケに関心をもっている。でもそれは、偏に彼の無邪気な知的好奇心の発露でしかない。
「アレス」
シャリテは目を鋭くし、アレスを見る。彼女のまなざしは、いつでもアレスを黙らせてしまう。その力は、片目を失った今でも健在のようだった。
「私を信じて。ディカイオは危険な男よ。妙なそぶりを見せれば、お前だって消されてしまう。奴にとって、プシュケを奪い取る可能性のある者は全て敵なのだから」
「ありえません……」
「ショックなのは分かる。認めたくないのは分かる。きっとお前は、ミネルウェンで素敵な思い出をたくさん作ったことでしょうね。ディカイオにも親切にしてもらったでしょうね。でも今は非情になってちょうだい。思い出を捨ててちょうだい。思い出は時に、真実を曇らせてしまうものなのよ」
思い出を捨てる。それは、にわかには受け入れがたい要求だった。しかし同時に、受け入れる努力をしなければならないことも理解していた。
だって、シャリテがそう言っているのだから。シャリテが間違うはずがないのだから。
「ミネルウェンから出るのは、明日の朝よ。今日中に、出発の準備をしておいて」
「あ、明日……!? そ、そんなに急ぐのですか?」
「いい、よく聞いてアレス。憲兵たちが私を追っている。それは知っているわね? 私が連中に捕まったら、言うまでもなくミネルウェンを出られなくなるわ」
「それはそうですが……」
「一秒でも早く、ミネルウェンを脱出する必要があるの。分かってくれるわね?」
「……分かりました」
しばらく考えてから、アレスはそう答えた。
「シャリテさんの言うことを、俺は信じます」
「ありがとう、愛しい子」
シャリテはアレスを抱きしめた。
それから彼女は、脱出作戦の内容を話した。
明日の朝、ミネルウェンの外務大臣一行が貿易交渉のために、他国へ出発するそうだ。大臣一行は南門から出て行く。その際、シャリテの仲間たちが、門のそばで騒ぎを起こす手はずになっている。そのどさくさに紛れて、シャリテたちは門を突破して国を出る。
そういう、かなり強引な作戦だ。
シャリテは、埃の積もったテーブルの上を指さした。
そこには、二つの小包が置いてある。ひとつは赤い小包で、もうひとつは青い小包だ。
「これは狼煙の元よ。燃やすと、色のついた煙が出るの。作戦を決行するかどうかを、夜明けと同時に、これで〈平和の壁〉の外の仲間に知らせる。青が決行で、赤が延期」
それからしばらくたわいない話をしたあと、アレスは廃屋を出た。
明日の朝、逃げるようにミネルウェンを出る。そのことが悲しくて仕方なかった。一度は決意したものの、やはりうまく割り切れない。アレスの心は、旅団と〈減らない国〉のあいだを行ったり来たりをくり返す。俯いて、とぼとぼ歩いた。
「……?」
憲兵の詰所を通り過ぎた時、ふと、アレスは頭に引っかかるものを感じた。
なんだ……? いま、何か妙なものを見た気がする……。
アレスはあたりを見渡した。
特に変わったものは見当たらない。人々がゆったりとした足取りで行き交う、いつもどおりの平和な日常が流れているだけだ。
アレスは思い直して、また歩き出した。
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