4章「自律式アーカイブ・ヘルメス」

魂の記憶

 アレスは鏡の前に立っていた。しかし鏡に映る姿は、どう見ても女性だった。大人の女性だ。

 アレスは悟った。ああ、これは夢だ、と。俺は今、夢の中にいるんだ、と。

 彼は、夢を夢だと自覚できる、いわゆる「明晰夢」を頻繁に見る。そしてその夢の中では、彼は必ず女性に変身している。変身する女性の姿は、顔も背丈も服装も年齢も、夢ごとに異なる。だけど最近、アレスは、夢の女性がローテーションされていることに気づき始めた。変身のバリエーションには、どうやら限りがあるようなのだ……。

 

………………レス。…………きろ、アレス。……起きろ、アレス……。


「……起きろアレス! いつまで寝てんだ! 耳にふぅ~してやる! ぞわぞわしろ~」


 プシュケが耳に息を吹きかけてきて、アレスの全身を宿命的なぞわぞわが駆け巡る。


「その起こし方やめてくださいよ」


「お前がお寝坊なのが悪いんだろー。おら、起きろオラ!」

 プシュケは今度はアレスの肩をごんごん殴りつけてくる。

「ディカイオとの約束に遅れるだろー。見てもらいたいもんがあるから朝お城に来てくれって言われてんだからさ」


 そうだった。そういえば、そんな約束をしていた。


「……夢を、見ていました」

 アレスはベッドの上で寝ぼけ眼をこすりながら言った。


「お! いつものやつ今日も見たのか! 詳しく聞かせろ、知りたい! お前が女に変身してるスケベな夢!」

 

 プシュケの好奇心は、夢にも及んでいる。人の見る夢、特にアレスが見る夢に興味を抱いている。いつか夢と深層心理の関係についての本を書くんだとも言っていた。


「はいはい仰せのままに」

 アレスはため息をつく。

「俺は夢の中で鏡の前に立っていました。そして服を脱いで素っ裸になりました」


「期待を裏切らないスケベ展開!」


「俺だって好きでそうしたわけではありません。意思とは関係なく夢は進んでいくんです」


「分かってるよ。夢なんてそんなもんだよなあ」


「それから……」


 アレスは、夢で変身する女性の姿がローテーションしているようだと話した。

 プシュケは手を顎に添えて、難しい顔で少し黙った後に「あたしさ、ずっと温めてた仮説があんだよね」と言った。そして期待のこもったまなざしで、アレスの目の奥をぐっと覗き込んできた。いつもながら近い。


「アレスが見る夢はさ、もしかしたら、ご先祖様の記憶なのかもしれないぜ?」


「ご先祖様の記憶、ですか?」


「あたしたち人間の脳に宿ってる魂は、代々受け継がれる」

 プシュケは額を指でこんこんと叩きながら言った。

「それは、本を読まない無知なお前でも知ってるだろ?」


「まあ常識ですからね」


 魂は次の世代へ継承される。継承は、女性のお腹の中で行われる。母親の魂の一部が、子宮の中で胎児に受け渡されるのだ。

 女性は、魂を次の代へ、次の代へと、ひたすら引き継いでいく箱舟なのである。

 ちなみに、男性の魂は死んだらそこで終わりだ。父親の魂が子供に継承されることはない。言うまでもなく、男性はお腹に子を宿すことができないというのが、その理由だ。魂の継承が子宮の中で行われる行為である以上、仕方のないことなのである。

 必然的に、現代の人間に宿っている魂は、一人の例外もなく、女系のご先祖様から受け継いだものということになる。


「んで、継承された魂には、ご先祖様の記憶が宿ってる。それも知ってるだろ?」


「……いや。それは初耳なのですが」


「ええ? 常識だずぇ~?」

 プシュケは勝ち誇ったようなウザったい笑みを浮かべる。

「詳しく教えてあげようか? ねえねえ?」


 プシュケは身支度を進めながら、記憶の継承について話してくれた。母親から受け継がれた魂には、記憶が宿っているのだと。魂という箱に入れられて、記憶も次の代へと継承されていくのだと。


「あたしたちの魂に宿ってるのは、お母さんの記憶だけじゃないのさ。お母さんのお母さんであるおばあちゃん、そのお母さんであるひいおばあちゃん、そのまたおばあちゃん……というふうに、女系のご先祖様の記憶は、ぜーんぶあたしたちの魂に受け継がれてるんだぜ。記憶は代々蓄積されていく。その蓄積された記憶は、ふだんは魂の水底に沈んでるけど、ある時ふいに、記憶がぷかぷかと水面に浮かび上がってくることがあるらしいんだ」


 事実、突如として大昔の記憶が蘇ったという例が世界各地で報告されているという。


「では、俺が見る夢は、本当にご先祖様の……」


「もちろんただの夢の可能性もある。期待し過ぎないようにな~」


 アレスとプシュケは身支度を終えると、宿屋の食堂で女将さんが用意してくれた朝食を頂いた。ライ麦パンと、半分にカットされたトマトだ。


「グールがまだ少なかった頃は、ベーコンやソーセージだって食べられたんだがねぇ」と女将さんは言い、ため息をついた。「グールが増えて家畜を次々と襲うせいで、肉はどんどん高騰しちゃって……。こんなもんしか出せなくて、すまないねぇ」


「ううん」

 プシュケは首を横に振る。

「パンとトマトだって安くないぜ。よそもんのあたしたちにこんな優しくしてくれて、おばさんほんとありがと!」


「プシュケの言う通りです」

 アレスが頷く。

「俺たち、旅をしていた頃は虫を食べて飢えを凌いだこともありましたし」


「岩どけると出てくるうねうねした虫ねー、あれはちょっとウマかったよな!」


「あれをおいしいと評したのは旅団の中でプシュケだけでしたよ」


 会話から二人の境遇をなんとなく察した女将さんは、「これもお食べ」と言い、蒸したジャガイモを一つずつ皿に置いてくれた。二人はお礼を言い、ありがたく頂いた。


 朝食を終えて外に出ると、ニケが宿屋の前で林檎を齧りながら待っていた。彼女の腰には剣がぶら下がっている。有事に備え、常に携えておくことにしたのだろう。

 昨日は死人のように真っ青だったニケの顔色は、今ではずいぶんとよくなっていた。


「や。おはよ」

 ニケは、片手をひょいと上げて言った。


「わざわざ迎えに来ていただかなくても」とアレスは言った。「城までの道はもう覚えましたし」


「言われてみれば、確かにそうだね」


 ニケの笑顔はちょっとぎこちない。アステルの死のショックを引きずっているのだろう。昨日の今日なのだから、当然か。


 道行く人々がニケに声をかけてくるのは日常茶飯事。庶民が王女様を茶化すシーンにも、もう慣れた。


「おや。あの子、アリシャさんでは?」

 露店を覗いて回っている少女を指さして、アレスは言った。


「違うよ」

 ニケが答えた。

「アリシャと同じ〈希望の家〉の子だけど、アリシャとは別人さ」


 少女に近づいて像が明確に結ばれると、確かにアリシャとは別人であることが分かった。


 ニケは少女に「やあ、エリタ。おはよう」と声をかけた。


 エリタと呼ばれた少女は人懐っこい笑みを浮かべて「ニケ、おはよう!」と元気いっぱいで返事をした。


 エリタのそばを通り過ぎると、アレスは「それにしても、アリシャさんに似ていますね」と言った。


「言われてみれば、似てるかもね。でも姉妹じゃないんよ」


 正午前に、お城の前の広場に到着した。すでにディカイオはそこにいた。そばには護衛の憲兵が四名と、馬車が一台待機している。


「おはよう、プシュケちゃん、アレスくん」

 ディカイオは今日の天気と同じくらい気持ちのいい笑顔で出迎えてくれた。

「さて、さっそくだけど、二人に見てもらいたいものがある」


 目的地は、東エリア(厚生地帯)にあるようだ。

 アレス、プシュケ、ニケ、ディカイオの四人が客車に乗り込むと、馬車は出発した。

 アレスが客車の後ろの窓から外をちらりと見ると、乗馬した護衛の憲兵がついてくるのが見えた。


 出発してから一時間程度で馬車が停止し、客車の扉を憲兵が外から開けてくれた。

まずディカイオとニケが順番に客車のステップを踏んで地面に降りた。それからアレスが降りて、最後にプシュケが「抱っこしろ」と言うから、「飛び降りればいいじゃないですか」とは言わずに、アレスは素直に抱きかかえて客車から彼女を降ろしてやった。


 鉄の門扉の両脇に憲兵が立っていた。ディカイオが無言のメッセージを送ると、憲兵たちは敬礼をした後に門扉を開けた。

 

 庭の小道を歩いていくと、目の前に箱のように四角いガラス張りの建物が迫ってくる。一見どこが玄関扉なのは見分けがつかないが、もちろんディカイオは迷わずに透明なガラス扉を開いて中へアレスたちを通した。


「ここは、もともとは植物館だったんよ」とニケが説明してくれる。「観賞用の珍しい植物がいっぱい植えられていたんよ。まだ世の中に旅人が大勢いたころは、なかなか人気の観光スポットだったんだよ~。でも経営が難しくなっちゃってね、今じゃご覧のありさま」


 館内には植物などひとつも見当たらない。植物館だった頃の名残で、水が干上がった水路や、その上を渡るための橋がある。


 ディカイオに先導され、アレスたちは通路を進んでいく。休憩用の東屋のそばを通り過ぎ、石の階段を上がっていく。二階の通路を少し歩くと、丸く開けたスペースに出た。そこに椅子が一脚ぽつんと置かれており、人が座っていた。


「君たちに見てもらいたいものは、これだよ」


「……? 男の子か?」

 プシュケが目を丸くして言った。

 

 椅子に座っているのは、透き通るような白い肌をした、美しい銀髪の少年だった。

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