リベンジ

 荷台には、両手両足を荒縄で縛られた少女が横たわっていた。

 少女はまるで人形みたいに虚ろな目で宙を見つめている。木製の猿轡を噛まされ、口の端からは唾液が滴っている。

 彼女は、助けに来たアレスたちを見ても微動だにしない。呼吸に応じて胸がゆっくりと上下するだけだ。


「ひどい……。痣だらけです。きっと何度もぶたれたんですよ……」


「……ソピア」とニケは呟いた。

 

 ソピア。

 昨夜アンドレイと一緒に〈希望の家〉を抜け出した、あの少女に間違いない。


「ソピアさん」

 アレスはソピアの頬に触れた。

「もう大丈夫です。助けにきましたよ。すぐに帰れますからね」


 ソピアは瞼をわずかに動かしたほかは、何ら反応を示さない。その物静かな様子がむしろ、心の傷の深さを感じさせた。


「いま、悪者をぶっ殺してあげますからね」

 アレスはぐっと歯を食いしばり、歯の隙間から声を押し出すようにして言った。


「アステル……。これはいったい、どういう……!」

 ニケは目を鋭くして、アステルのほうを振り返った。

 

 しかし、さっきまでの場所に、アステルはもういなかった。彼はすでに、ニケの前に迫り、剣を振り上げていたのだ。


「お許しください!」

 ほとんど悲鳴に近い声で叫ぶと、アステルは剣を振り下ろした。ニケに向かって!

 

 火花が散る。ニケの前にアレスが割り込んで、刃を受け止めていた。


「ニケさん下がってください! 分かったでしょう、まともに話が通じる相手ではない!」


 アステルは剣を引き、飛び退いて、アレスから距離をとった。


「アステル……どうして……?」


 ニケはぽろぽろと涙をこぼし、呆然としている。

 

 アレスは、ニケを泣かせた相手を生かしておくつもりはなかった。


「アステルさん! あなたは分かっているのですか? あなたは今、ミネルウェンの王女様を斬ろうとしたのですよ? 俺はミネルウェンの法律は全然知りませんが、王族を殺そうとした輩が受ける罰なんてものはどの国も大差ないでしょう。俺がその罰を与えて差し上げますよ!」


「私はまだ終われない」とアステルは呟く。彼の眼は虚ろで、顔面は蒼白だった。「少年、私は君を殺す。その後は、ニケ様、あなただ」


 アステルは剣をニケに向け、それが突き刺さる未来を暗に示した。

 ニケの「ひっ!」という短い悲鳴が聞こえた。その悲鳴に背中を押されたように、アレスは猛然とアステルに斬りかかった。


 アステルは刃をひょいとかわすと、アレスの空振りの隙を狙って、容赦ない突きを打ち込んでくる。


 アレスは空振りした勢いを殺さずに残していた。その勢いを利用し、彼は身体を捻って空中で一回転すると、両足で危なげなく着地した。見事にアステルの突きをかわしていた。


「ニケさんに剣を向けないでください」

 アレスは顔を怒りに歪める。

「殺すぞ」


「……ふふ」

 アステルは冷笑を浮かべ、一度目を閉じた。次に彼が目を開いたとき、そこにあったはずの戸惑いや怯えは一切消え失せていた。

「少年。君が私を殺そうとしなかった瞬間などあるのかい? 君は純粋な人殺しだ。対話なんてものは意味を成さない。ふふ。あの人と同じ目をしているよ。君は私を斬り殺した後、平然と食事をとるだろう。そしていつもと何ら変わりない、安らかな眠りに身を沈めるだろう。君にとって人殺しとは、呼吸にも等しいのだろう」


「あははっ! 何わけの分からないことを? 気は確かですか?」


「君のような人間を、普通の人間はどう呼ぶか知っているかい?」


「はい?」


「悪魔だよ」


 アステルは猛然と駆け寄ってきて、腰の位置で構えた剣を横一文字に振り抜く。


 アレスは身を大きくかがめて斬撃を回避すると、ほとんど真下から剣を振り上げた。

 しかし予期されていた。アステルの回避行動のほうが一瞬早かった。


 ひたすら剣と剣のぶつかり合いが続いた。斬撃の重み。回避行動。次の一手の読み合い。それらは、確実に二人の剣士から体力を奪い取っていった。


 額に滴る汗を、アレスは乱暴に拭った。息はあがり、疲労が胸の上下運動になってあらわれている。


 アステルにも疲労の色がうかがえるが、同時に余裕も垣間見える。彼は、ダイナミックな動きで敵を翻弄するアレスとは異なり、全ての動きを必要最小限に抑えている。斬撃も、突きも、回避も、けん制も、何もかも。おかげで、アステルは余計な体力を消費せずに済んでいる。それは偏に、憲兵として、剣士として、積んできた経験の成せる業だった。


 このままじゃ、じり貧だ。増援はまだかと、アレスは弱気なことを考えた。時間を稼げば勝てる。プシュケたちが増援を要請し、西門に送ってくれる手はずになっている。しかし体力はもう長くはもちそうにない。


 そんなアレスの弱みを、アステルは読み取ったようだった。彼は、今までにない怒涛の連撃を繰り出してくる。アレスは受け止めるのに精いっぱいだった。


「……あ」


 剣をぶつかり合わせている最中、アレスは足を滑らせ、地面に尻もちをついてしまった。咄嗟に受け身を取れないほど彼は疲れていたのだ。まずい、やられる……!


 当然、アステルはチャンスをものにしようと、剣を振り下ろしてきた。


 その剣は、しかし、完全に振り下ろされることはなかった。なぜかアステルは剣を宙でぴたりと止めると、素早く後方に飛び退いたのだ。


 その理由は、一瞬の後に判明した。アレスの目の前を、白銀色の筋が横切ったからだ。それは剣筋だった。細長く鋭い、スマートな形の剣が描いた剣筋。


 地面に尻もちをついた格好のまま、アレスは、その剣の持ち主であるニケを見上げた。


「アレスくん」

 ニケが、剣を持っていないほうの手をアレスに差しのべた。


「申し訳ありません、助かりました」

 アレスはニケの手をとって、立ち上がった。


「アステル。もうやめて。ソピアは諦めて。そしてミネルウェンから立ち去って」

 ニケは、剣の切っ先を西門に向けた。

「僕たちはアステルを見つけた。だけど逃げられてしまった。そういうことにしよう」


「ニケさん……」

 思わずアレスは口を挟んでしまう。

「あの男を逃がすつもりですか?」


「……アステルは、僕の命の恩人なんよ。以前、興味本位で遺物発掘の調査隊に同行させてもらったことがあって、その時僕はグールに殺されかけた。でもアステルが助けてくれた。アステルの顔の傷は、その時にできたものなんよ」


「……でも、あの男はまた別の国で子供をさらうかもしれませんよ?」


「お願い、アレスくん」


「……」


「お父様たちには、本当のことは黙っていて」


「はあ……。王女様の命令でしたら、仕方ありませんよね」

 アレスは剣を下ろした。そしてアステルに向かって言った。

「アステルさん。俺はもう、あなたとやり合うつもりはありません。ソピアさんさえここに置いていってくれれば、もう後を追ったりは、しません、よ……って、ちょっと!」


 アレスが話し終えるのを待たず、アステルが剣を構えて突進してきた。彼の目には明らかな殺意が宿っている。虚を突かれ、アレスもニケも、剣を構えるのが遅れてしまった。


 なんですか、それ? ニケさんの情けを、愛を、あなたは踏みにじるのですか……!?


 アステルがニケに向かって剣を振り下ろす。信じがたいことに、まずニケから殺る気なのだ! たぶん、距離的に近いという理由だけで!


 アレスはニケを守るために、踏み込んで剣を振り上げる――。間に合うか、間に合わないか、五分五分の状況だった。


 アレスの顔に、生温い液体が飛び散った。死の臭いがする、真っ赤な液体だ。ニケがやられた、のか……? アレスの剣は間に合わなかったのか……? ……いや違う。


「……ああ、あああ!」


 ニケは腰を抜かして地面に尻もちをつくと、両手で口を押さえ、目を見開いた。彼女は生きている。顔には、アレスと同じように、血飛沫が吹きかかっている。


「間に合って、よかった」


 声がした。低くて柔和な、威厳を感じさせる声。


「ディカイオ、さん……?」


 鋳物工場の物陰から、ディカイオが駆け寄ってきた。そして膝に手をついて、ぜぇぜぇと上がった息を整え始める。汗がぽたぽたと、地面に滴り落ちる。


 アレスは彼から視線を外し、アステルを見た。

 アステルは地面に倒れ、ぴくりとも動かない。それもそのはず。アステルの頭は、すでに胴体から外れてしまっているのだから……。アステルの生首の目には、殺意が残留している。彼はまだ、アレスたちを殺すつもりでいるのかもしれない。


 死体のそばの街路樹には、銀色の円盤が突き刺さっている。紙のように薄っぺらい、吹けば飛んで行ってしまいそうな円盤だ。だが、その円盤には、弁護の余地がないほどの量の血液が付着していた。


「これだよ」

 アレスの困惑を見て取ったディカイオは、左手を掲げて言った。

 

 彼の腕には、黒鉄色の厚みのある円盤が、革ベルトで固定されていた。


「我が国で製作された武器だよ。〈円環の水鏡〉と呼ばれている。発掘された遺物をもとに新しく作り上げた、いわゆる『模倣遺物』だよ」


 模倣遺物とは、発掘された遺物を現代人が真似して作り上げたアイテムのことだ。古代の進んだ技術を解析して真似るのは困難を極めるが、稀にこうして成功することもある。


「それが、あの銀色の円盤を発射したのですか……?」


「そう。そしてアステルの首をはねたのだ。私が、アステルを殺してしまった……」


 アレスはもう一度、街路樹に突き刺さった円盤を見た。血で濡れた円盤は、まるで水鏡のように、アステルの首なし死体を反射している。


「あ、アステル……アステル……」


 ニケは両腕で自分の体を抱いて震えながら、虚ろな声で犠牲者の名を呼び続けている。スカートから覗く彼女の太ももを、水が滴っている。失禁しているようだった。


「ニケ」

 ディカイオは、ニケの前にしゃがみ込んだ。そして体をそっと抱き寄せた。

「ニケ。許してほしい。迷っている暇はなかった。あと一瞬でも遅れていたら、お前が死んでいた」


「……うん」


「お前にもしものことがあったら、私は……」


「ごめんなさい……」


「謝る必要はない。お前は勇敢だ。アレスくんと共に、グールマンを追い詰めた。でも、無茶のし過ぎはよくない」


 ニケは堰を切ったように泣いた。

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