男と少年
アレスは、まだわずかに意識があった。あと虫けら一匹分でも後退すれば、気絶の谷に真っ逆さまというギリギリのラインで踏みとどまっていた。
アレスは力を振り絞って、瞼を開けてみる。細く霞む視界で、状況把握に努める。
自分が今、床にうつ伏せの格好で寝かされていることが分かった。すぐそばにプシュケも倒れている。大男が、屋内に二人を運んだのだろう。
アレスの瞼はすぐに閉じてしまい、もう開けそうにない。体が動かない。頭が意識を放棄したがっている。魂さえ、諦めるほうに一票を投じている気がする。
アレスの意識を辛うじて保たせているのは、根性でも気力でもない。怒りだった。
殺してやる。貴様が何者かは知らないが、プシュケを傷つけた奴は全員殺してやる……!
「……殺すしかあるまい」
低く掠れた声がした。一瞬、それはアレスの胸の内で響いた声かと思った。でも違った。それは鼓膜を物理的に揺らす、現実の声だった。
「それはダメです」
違う声がした。アンドレイの声だ。
「この人たちは関係ありません」
「しかし、私は、この少年に顔を見られてしまったかもしれない」
「こいつがあなたの正体を喋ったとしても、誰も信じやしませんよ」
「……日が昇るまでは、まだ時間がある。それまでに処遇を考えよう」
「ありがとうございます」
「日が昇り、〈平和の壁〉の門が通れるようになったら、タイミングを見計らって私は外へ出る。そしてソピアを『連中』に引き渡す。お前は今までどおり、何食わぬ顔
で〈希望の家〉に戻れ」
「分かりました」
「ところで、見たところ、ソピアはずいぶんと暴れたようだな?」
「はい。眠り薬入りの茶をどうしても飲もうとしなかったので少し痛い目を見てもらいました」
「殺してはいないだろうね?」
「そんなヘマはしません。気を失っているだけです。そっちの二人と同じように」
「それはよかった。死体になってしまっては、元も子もないからな」
アレスは限界だった。もう意識を保っていることはできなかった。燃えたぎる怒りと殺意を抱えながら、彼は眠りの海へと沈んでいった。
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