三章「グールマン」
追跡
家々の明かりは消えている。月明かりだけが、二人の行く道をうっすらと青く照らしている。
「まずは警備してる憲兵に事情を話そうぜ」
〈希望の家〉を目視できる距離まできたところで、プシュケはそう提案した。
「いえ、話さないほうがいいかと」
「は? なんでだよ? 今夜グールマンが来る可能性が高いから警戒を強めろって、憲兵には伝えておいたほうがいいだろ?」
「プシュケ。おかしいと思いませんか? エピオくんの前に消えたという、エルピスさん。彼女が消えた時には既に、〈希望の家〉の周りのレンガ塀は完成していた。憲兵さんの警備もあった。なのに、エルピスさんは消えてしまった」
「そりゃグールマンが相当の手練れだってことだろ?」
「俺は違うと思います」
「じゃあ、どう思うんだよ?」
「グールマンの正体は、憲兵さんだと考えることができます」
「……アレス、お前、本気で言ってるのか?」
「俺はプシュケと違って、変な冗談は滅多に言いません」
「いや結構言ってんぞ自覚しろ。……あのさあ、民を守る憲兵が子供をさらうなんて、ありえねぇだろ?」
「権力者や官憲が何の罪もない子供たちにひどいことをしてきた例は枚挙にいとまがありません。そのことは、俺なんかより、本をたくさん読んでいるプシュケのほうが詳しいのでは?」
「……でもさ、ミネルウェンだけは例外だろうよ……。ここの人ってみんな親切だし。犯罪もほとんど起きないって話だし……」
プシュケは頭はいいが、ちょいとばかし純粋すぎる。疑うことを知らない。
「ディカイオさんだって絶対にシロだとは言い切れません。憲兵さんたちをうまく利用して、子供を誘拐しているのかもしれません」
「アレスのボケェ! どうしてそんなひどいことを言うんだ! ディカイオはいい人だ! 帰る場所のないあたしたちを国においてくれて、食事や宿まで恵んでくれてるんだぞ!」
「そんなこと俺だって分かっていますよ。ディカイオさんをはじめとする、ミネルウェンの人たちは命の恩人です。でも今は情を捨ててください。グールマンは、どう考えても常識の通用する相手ではありません。だったらこっちも、情や先入観は捨てて挑むべきです」
「ぐぬぬ……」
〈希望の家〉の敷地の背後には、木々が生い茂った小高い丘がある。
アレスとプシュケは、そこの中腹に潜んで、〈希望の家〉を見張ることにした。高低差のおかげで、俯瞰で屋敷を眺めることができる。二人はそれぞれ離れた場所で見張りを行い、なるべく屋敷全体をカバーできるようにしている。
アレスは考える。プシュケの推理は理にかなっているけど、今日グールマンが本当に現れるとは限らない。アレスたちの行動は徒労に終わるかもしれない。というか徒労に終わる可能性のほうが高いと思う。それでも彼は目を皿にして、虫けら一匹たりとも見逃しはしないという心持ちで見張りを続けた。
「……おや?」
アレスは気づいた。屋敷の二階の窓に、明かりが灯ったのを。カーテン越しなのでぼんやりしているが、明かりが時折不安定に揺れるのが分かる。蝋燭の明かりのようだ。
すぐに明かりは消えたけど、アレスはその窓をじっと見つめ続けた。何かが起きそうな予感がした。その予感は当たった。窓が内側から慎重に開かれ、一人の少年が顔を出したのだ。彼は周囲をきょろきょろと見渡したあと、何やら長くて平べったいものを窓の外に差し出した。
「板……?」
アレスは独り言をつぶやく。
少年が窓から差し出していたもの、それは木の板だった。窓枠を支点にして板を支え、それを少しずつに先へ先へとのばしている。
やがて板は、屋敷を囲むレンガ塀の上に到達した。
一枚の板によって、部屋とレンガ塀を繋ぐ橋が出来上がった。
「何をするつもりでしょうかね……? いや、まずはプシュケに伝えないと」
アレスは木々の間を疾走し、プシュケのもとへ向かった。
「プシュケ、動きがありました!」
「何が起きたんだ?」
「直接見たほうが早いです!」
アレスはプシュケを伴って、もとのポイントにとんぼ返りした。
部屋と壁を繋ぐ板の橋を見ると、その上を一人の少女が恐る恐る渡っているのが見えた。両手でバランスをとって、亀のようにゆっくり、だけど確実に、壁に近づいていく。
「何やってんだよあいつ……! 落ちたら大変じゃん!」
「大した高さではありません。落ちてもせいぜい骨を折る程度です。止めずにこのまま黙っていましょう。間違いなく、何かが起きようとしています」
やがて少女は、無事に壁の上にたどり着いた。そしてしゃがみ込むと、壁の外側にぶら下がって地面と足の距離を縮めたうえで、飛び降りた。彼女は地面に無事に着地し、服の埃を手でぽんぽんと払う。
「見ろアレス。もう一人出てくるぞ」
窓からもう一人、子供が姿を現した。今度は男の子だ。さっき板を壁に渡して橋を作ったあの少年だ。
彼も少女と同じように、板の橋を渡った。その足取りは軽やかで、恐怖は一切感じられない。ものの十秒で壁の上に到達してしまった。
「手慣れてるな」とプシュケは言った。
「板など使わずに、あの程度の距離飛び移ればいいものの」
「んなのお前しか無理だよ。ほんとお前、見た目はインテリっぽいのに実はただの脳筋野郎だからな」
「運動神経がいいうえに物腰柔らかな肉体派紳士という意味ですか?」
「ちげーよアホ」
アレスとプシュケが無駄話をしているあいだに、少年は壁の上でうまくバランスをとりながら、板を掴んで手前に引き寄せていた。
やがて窓枠の支えを失った板は、屋敷の側庭にすとんと落ちた。地面が柔らかい土なので、大した物音は鳴らなかった。事実、塀の出入り口を警備している憲兵は反応を示さない。
「追いましょう」
二人は木々に身を隠しながら、少年と少女に忍び寄った。
「ねえ、こんな遅くに家を抜け出しちゃって、本当に大丈夫かな? 管理官にバレないかな?」
少女が心配そうに言った。
「大丈夫だって、何度も言ってるだろ? 夜明け前には帰る。ちゃんと、部屋に戻るためのルートだって用意してあるんだ」
少年はキッパリと、そう答える。
しかし少女は、依然として不安そうに表情を曇らせている。
「アンドレイがそう言うなら、信じるけどさ……」
少年は、アンドレイという名前のようだ。
「おう。信じまくってくれよ、ソピア」
ソピア。例の、もうすぐ12歳を迎える子の名前だ。
「いよいよきな臭いですね」
「これで本当にただの夜遊びでしたってほうが、むしろ不思議なくらいだぜ」
アンドレイとソピアは、つけられているなどとは露も考えていないようで、背後には全く気を配らなかった。ゆえに尾行は簡単だった。
アンドレイとソピアの目的地は、一軒の寂れた建物だった。木造の平屋で、数段のステップを上がった先にポーチがある。軒先に看板がぶら下がっており、掠れた赤ペンキで「酩酊亭」と記されている。酒場のようだ。しかしどう見ても、酩酊亭は人が去って長い時間放置されているようだった。廃墟に片足を突っ込んだ空き家だ。
見渡してみると、酩酊亭だけでなく、この一帯は空き家だらけであることが分かる。
アンドレイは一度周囲を確認したあと、ソピアに酩酊亭の中に入るよう促した。ソピアは素直に従い、扉を引いて中に入った。アンドレイもその後に続いた。
「どうするアレス?」
プシュケが尋ねた。こういった実地での咄嗟の判断は、アレスの方が的確に下せるのだ。
「ひとまず様子見でいきましょう」
二人は、酩酊亭の向かいの空き家の陰に隠れて、左右にのびる砂利道越しに様子をうかがう。
「あのアンドレイってガキが、グールマンなのか……?」
プシュケは言った。
「今のところ、それが有力説ですね」
「確かにさ、まさか犯人が〈希望の家〉で暮らす子供だなんて、夢にも思わねぇもんな……。警備をする憲兵は、外からやってくる敵にばかり注意してるから、内側の犯行には気づきにくいだろうしよ……」
「そうですね」
「でも、いったいどうして……。同じ家で暮らして、一緒に飯食って、もしかしたら夢を語り合ったかもしれない仲間に、どうして危害を加えようとするんだ……?」
「そういうのって、犯罪心理学っていうんでしたっけ? 以前プシュケが話してくれましたよね。あなたが考えて答えを出して、本に書くといいですよ。シャリテさんの建国の助けにもなるでしょう」
それから十分ほど、二人はジッと建物の監視を続けた。
「埒が明きませんね。プシュケ、ちょっと近づいて窓から中を覗いてみましょう」
…………………………。
返事がない。
「プシュケ、無視はいけませんよ……って、ちょっと!」
プシュケはにわかに、ふらりとバランスを崩した。
アレスは彼女の体を咄嗟に支えた。腕に感じる重みからして、プシュケの全身が脱力しているのは明らかだった。
気を失っている……! なぜ……?
「……!」
アレスが視線を横に移すと、そいつはいた。
漆黒のマントを纏った、大男が!
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