2章「消える子供」

ミネルウェンへようこそ

 ミネルウェンに来て、六日目の朝。アレスとプシュケは着替えをしている。

 旅の時に着ていた服はズタボロになってしまっているので、ディカイオが新しい服を与えてくれた。アイボリー色の木綿のシャツとズボン、それから下着なんかも。革製ブーツは履き込まれたおさがりだけど、前の持ち主が大切に扱っていたようで、まだまだ実用に耐えうる。

 

 ミネルウェンでは、女性はドレスを着る人が多いそうだけど、プシュケは「スカートすーすーしてきらーい」と文句を言い、結局アレスと同じ服が支給されることになった。

 

 プシュケは金色の髪を後ろで束ねて結ぶと、その上にお気に入りの茜色のリボンを付けた。


 一足先に身支度を終えたアレスは、プシュケが脱いだり着たりするのをぼうと眺めている。実年齢より幼く見える小さな体。褐色の肌。透き通るような青い瞳を具えたくりくりした大きな目。うん、いつものプシュケだ。毒矢で死にかけていた時の弱々しさは、もはや微塵もない。


「なんだアレス? あたしのことジロジロ見てさー! すっけべー! 見たきゃ見ろー!」

 プシュケはせっかく着たシャツを脱ぐと、頭上でぶんぶん振り回してけらけら笑った。


「微塵も見たくないので早く着てください。待ち合わせに遅れます」


「あーい」

 プシュケは乱暴にシャツを被ると、靴下をこれまた乱暴に履き、ブーツに足を突っ込んだ(言うまでもなく乱暴に)。

「おし、準備完了だぜ!」


「では行きましょう」


「あ! やっぱちょっと待った!」


「なんです? 今までの非礼を懺悔する気にでもなりましたか?」


「うんこ!」


「はい?」


「うんこしたい!」


「……早く済ませてください」


 プシュケは部屋をどたどたと飛び出して行き、ややあってやけに満たされた顔で戻ってきた。今度こそ二人は揃って宿屋から出た。


「おっはよ、二人とも!」


 通りの向かいからニケが小走りでやってきた。

 彼女は、厚い生地の栗色のワンピースドレスを着ている。スカートの丈は長いが、全体的にゆったりしたサイズなので動きやすそうだ。腰はコルセットで絞られ、ボディラインが引き立っている。美しいことは認めざるを得ないが、どうしても王女様には見えない。ドレスの生地は安っぽいし、薄汚れている。庶民の服装と大差ない。短い髪は、寝ぐせなのか、所々跳ねている。右手には、かじりかけの林檎が握られている。

 今日は、ニケに国内を案内してもらう予定だ。


「おはよん、ニケ!」

 プシュケはニケの体に抱き着くと、頬をすりすりする。長身のニケとちびのプシュケでは、身長差の関係で、プシュケの顔がニケの胸の下あたりにくる。


「すっかり顔色が良くなったねプシュケちゃん」

 ニケはプシュケの頬に触れ、ふにふにと弄びながら言った。

「すべすべだし、更にかわいー! ほんと綺麗な顔してるよねプシュケちゃんって。こんな美しい娘、そうそうお目にかかれないよ。僕なんかよりずっとお姫様っぽい!」


 普段の言動を見れば前言撤回待ったなしですよと心で呟きながら、アレスは周辺を見渡した。


「なんだか人が少ないですね? 露店も出ていませんし。何かあったのでしょうか?」


 昨日までは、通りの両側には露店が連なり、そこで大勢の人々が買い物をしていた。楽器を奏でる吟遊詩人や、お手玉を華麗に弄ぶ曲芸師もいて、その周りに人々が集まって温かい笑顔と拍手を送っていた。でも今日は、通りはずいぶんと閑散としている。


「今日は土曜日。安息日なんよ。だからみんなお仕事を休んでいるわけさ」


 アレスとプシュケは、ミネルウェンの静かな町並みを興味深そうに眺めながら、ニケの後ろに続いた。


「地下に続く階段があちこちにあるな!」

 プシュケは言った。

 

 大昔の人が作った地下都市があって、そこを現代の人が様々な目的で転用しているのだと、ニケは教えてくれた。地下は一年を通して気温が一定なので、葡萄酒を寝かせて熟成させるために使う人が多いという。


「ほうほう、勉強になるなる!」

 プシュケは肩掛けかばんから小さなノートと万年筆を取り出して、すらすらとメモを取る。


「プシュケちゃん勉強熱心だね!」

 ニケが感心して言った。


「おうよ。シャリテの理想の国作りのために少しでもいっぱい勉強しときたいんだ。あとね、あたしね、いつか本を書きたいんだ! タイトルはズバリ、『平和な国を作る100の秘訣!』」


「なんだか胡散臭いタイトルですね」

 アレスは言った。


「なんだとぅ! アレスのくせに生意気だぞ!」


 三人は次々と各所を回っていく。


「そしてなんと言っても、あれを紹介しないわけにはいかないね! 見なよ、あの目も眩むような高さの壁を!」

 ニケは芝居掛かった仕草でくるりと回転すると、国を取り囲んでいる壁を指さした。

「あれを我々は〈平和の壁〉と呼んでいるんよ。高さはなんと約20メートル! あれのおかげで、外敵やグールから民を守ることができている。壁を作ったご先祖様たちに感謝だよ、ほんと。大昔、僕たちが住むこの大陸全土がひとつの王朝だったとき、ミネルウェンは王都として機能していたんよ。だからこそ、ここまで立派な防御壁があるのさ」

 

 かつて、広大なこの大陸全てを、ひとつの王朝が治めていた。それは常識だが、無数の小規模な国家が戦争に明け暮れながら増えたり減ったりしている現代の人間からすると、当時の治世を想像するのはやはり難しい。

 

 ミネルウェンは、大雑把に言えば円形だそうだ。壁沿いに歩いても、二日あれば一周できる程度の小さい国なのだと、ニケは説明した。


「我が国は、お父様のお城がある中枢エリアを中心にして、大きく東西南北の四つのエリアに分けられているんよ。僕たちが今いるのは、南エリア。通称『商業地帯』だよ。地理的な関係で、旅人や貿易商は南側からやってくることが多いから、そういう人たち相手の商売をするお店や宿屋は、南門から近いここらに密集するようになったんよ」


 ニケは、南以外のエリアのことも教えてくれた。大雑把にまとめると、こんな感じ。

◆西エリア……通称「工場地帯」。爆発物を扱う工場もあって危険。騒音がひどいため、周辺に民家はほとんどない。平日は大勢の男たちが力仕事に励んでいるけど、安息日は物音ひとつしない幽霊地帯と化す。


◆北エリア……通称「農業地帯」。主に農産物を生産している。自然豊かで、まだ旅人が大勢いた頃には、人気の観光スポットでもあったそうだ。


◆東エリア……通称「厚生地帯」。医療施設や研究施設、それから図書館や博物館など、人々の生活を援助したり向上させたりする目的の施設が密集している。


 そんな説明を聞きながら歩いていると、道行く人たちが「ニケ、おはよう!」「ニケちゃん、今日も綺麗だねえ!」「お父さんに減税をお願いしてくれよ~」「ニケ、出歩いてないで仕事しろ~?」などと、かなり馴れ馴れしく声をかけてくる。およそ王女様に対する態度ではない。

 

 ニケはそんな彼らに対して「やあ、おっちゃん、腕の傷はもう大丈夫かい?」「おばさんもますます若返ったんじゃない?」「去年減税を実施したばかりでしょうが!」「旅人さんのお世話が仕事なんですぅ~!」などと、友達感覚で返事をする。やはり王女様って感じはしない。

 

 ともあれ、ニケが民に愛されていることは明白だった。彼女を見ると、誰もがぱっと笑顔を弾けさせ、声をかけずにはいられなくなるのだ。

 

 ぶらぶらしている最中、五階建ての、やけに立派な御屋敷を見つけた。その御屋敷は、周囲をレンガ塀で囲まれている。背の高い大人でも、てっぺんには手が届かない高さだ。


 そのレンガ塀の内側に入るための入口はひとつだけのようだ。そこを通って前庭を横断すれば、御屋敷の玄関に到達できる。しかし、レンガ塀の入口の横には、強面の憲兵がむっつりとした表情で立っている。商店感覚で気軽に入れる雰囲気ではない。

 そんな彼も、ニケの姿を見つけると、目じりをへにゃりと下げて「おはようございます、ニケ様」と言った。官憲は、ニケを様付けで呼ぶようだ。


 ニケは「おはよう! 警備お疲れ様!」と元気に挨拶を返した。


「おっきな家だなあ!」

 プシュケはレンガ塀越しに御屋敷を見上げて言った。

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