新生活

「盗み聞きの非礼を、どうか許してほしい」


 いつの間にか、扉の前に背の高い人物が佇んでいた。黒髪をオールバックにした、中年の男性だ。精悍な眉と切れ長の目が、知的で高尚な雰囲気を醸し出している。薄い唇はどこか軽薄そうな印象を受けるが、それを補うかのように口角が上がっている。白を基調とした丈の長い服を着ており、一目で高貴な身分であることが分かる。


「ミネルウェンの王であるディカイオが、君とプシュケちゃんの滞在を正式に許可するよ」


「あなたが、王様ですか……?」


「そ! この人が王様。僕の自慢のお父様! キシシッ!」

 ニケはディカイオにぎゅっと抱き着いて言った。

 

 ディカイオは優しい笑みを浮かべて、ニケの頭を撫でる。

 

 親というものを知らないアレスにとっては、少し羨ましい思いのする光景だった。


「滞在を許可して頂き、ありがとうございます」


「構わないよ。ひどい目に遭った直後なのだから、ゆっくり静養するといい」


 ディカイオとニケは、それぞれ椅子に腰かけた。


アレスくんの旅団を襲ったのは、おそらく〈あかつきりょだん暁旅団〉だろうね」とディカイオは言った。「各所で、その被害が報告されている」


「暁旅団、ですか……?」


「アレスくんの話にもあったように、暁旅団は黒い雨具を着用した不気味な組織だ。雨具は、もともとは返り血対策だったようだね。それがだんだんと定着していって、今では奴らのシンボルと化している」


 返り血をいちいち洗うのが面倒なほど、日常的に人を殺している連中ということか……。


「奴らは一見、物資や子供の強奪を目的とするスカベンジャーのように見える。でも実はそうじゃない。奴らの目的は、物でも金でも子供でもないようだ」


 アレスは思い出す。確かに暁旅団の連中は、高値で売れるはずの子供や金品には目もくれず、ひたすらに殺戮に励んでいた。


「奴らの目的は、『とある特徴』を持つ人間を殺すことだと、噂には聞く。私も詳しいことは分からないのだが、どうも身体的な特徴のようだね。あるいは、アレスくんの旅団に、心当たりのある人はいないかな?」


「見た目に特徴がある人ということですね? ……うーん。ティモンの兄貴は、髪がなくてつるつるでしたね」


「髪の生えてない人がいる集団がいちいち狙われたら、この世にはぺんぺん草も生えないでしょ」とニケは呆れて言った。


「うーん……。ペペのおじさんは、胸毛が旅団で一番濃かったです」


「毛から離れなさい」


「うーん……」


「もっとこう、なんつーの、レアな特徴がある人だよ」ニケはうずうずした様子で言った。


「あ、そうそう!」

 アレスは思い出し、ベッドの上で眠るプシュケに視線を向けた。

「プシュケにも珍しい特徴があるんですよ。背中に、こう、小さい十字の痣があるんです。母親にも同じ痣があったような気がするって、本人は言っていました。遺伝かな、って。まあ、幼少の記憶が曖昧だから、ハッキリはしないみたいですが」


「おやおや」

 ニケが意地悪い笑みを浮かべる。

「背中のデザインを知り合う仲なのかい、君たちは~? キシシッ!」


「こら。ニケ、下品だよ」

 ディカイオは、ニケに優しく拳骨を食らわせた。


「ごめんなさーい」

 ニケは舌をぺろりと出して言った。


「……仕方ないでしょう。ずっと一緒にいるんですから。お風呂だって一緒に入ることありましたし……。あ、言っておきますが、今は一緒に入ったりなんかしてませんよ! 俺はもう15歳ですから」


 アレスは15歳という事実が勲章であるかのようにドヤ顔をして言った。とはいえ実は、アレスは自分の正確な誕生日を知らない。15歳というのはあくまで推定である。


「15歳って、まだまだガキじゃんよ」


「ニケもまだ子供だろう」とディカイオは言った。「人のことを言えないよ」


「僕はもう17歳だもん!」とニケはむくれて見せる。「大人だし!」

 

 そういう何気ない親子のやり取りが、アレスの目には眩しく映った。


「それで」

 ニケは気を取り直して、アレスに向き直る。

「もう他には心当たりはないの?」


 十字の痣の件は完全にスルーされている。とるに足らない特徴ということのようだ。それ以上は特に思い当たることがなかったので、この疑問は一旦棚上げすることになった。


「さて」

 ディカイオが椅子から立ち上がった。

「私はそろそろ眠るとするよ。ニケも夜更かしはほどほどにするのだよ」


「はーい」


「アレスくんも、おそらくまだ本調子ではないだろう。ゆっくり休むといい」


「あの、ディカイオさん。俺たちは、いつまでここにいていいのでしょうか? 非常に言いにくいのですが、俺とプシュケは一文無しなんです。宿代を払うのも難し

く……」


「子供がお金のことなんて気にしてはいけないよ。宿は私が手配する」


「しかし、さすがに何も対価を支払わないというのは……」


「では、三日に一度くらいのペースでいいから、城の食堂で私と一緒に夕飯を食べてくれないだろうか? それが対価でどうだろう?」


「それって、食事を恵んでいただけるということですよね? 対価どころかむしろ……」


「食事は、ただ物を食べるだけではない。楽しく話をする場でもあるのだよ。グールが荒野を闊歩する今の時代、旅人は珍しい。だから旅人から得られる情報は貴重なのだ。アレスくんが話してくれる情報が、すなわち対価となるのだよ。情報こそが、この世で最も価値があるものなのだと、私は思っている」


 ディカイオの言うことは、なんとなく分かる気がした。アレスの旅団も今まで、政治のノウハウを学ぶのを主な目的として、命を懸けてでも国々を渡り歩いてきたのだから。情報は力なり。財産なり。


「分かりました。しばらくお世話になります、ディカイオさん」


 ディカイオは柔和な笑みを浮かべて頷くと、ニケに視線を移した。

「ニケ。公務の手伝いはお休みでいい。代わりに、アレスくんとプシュケちゃんのお世話をしてあげなさい」


「うん!」

 ニケはぱっと笑顔を弾けさせた。世話係という仕事にうきうきしている様子だ。

 

 こうして、〈減らない国〉での生活がスタートした。

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