1章「王様と王女様」
生還
――光? そう、光だ。アレスは目の端に、わずかに光を捉えた。
彼は仰向けの姿勢のまま、光のほうへ顔を傾けた。小さなテーブルの上に蝋燭が立っている。炎が小さく揺れている。木製の椅子が二脚あるけど、誰も座っていない。
アレスはゆっくりと身を起こした。
「くぅっ……!」
全身が痛んだ。どこもかしこも痛い。
彼にかかっていた毛布が、するりと滑り落ちた。どうやらアレスは、狭い部屋のベッドの上にいるようだった。ここは、どこだ……?
「……あ」
アレスは思い出した。旅団が黒ずくめの連中に襲われた。シャリテたちが命がけで逃がしてくれた。グールに襲われた。プシュケは死にかけていた……。
「そうだ、プシュケ!」
アレスは部屋を見回した。プシュケはすぐに見つかった。アレスのすぐ隣のベッドで、彼女は眠っている。いや、眠っているとは限らない。彼女は毒矢のせいで瀕死だったのだ。
アレスは体の痛みに耐えながらベッドを下り、プシュケの頬に触れてみた。温かい。続けて口の上に手をかざしてみる。手のひらに、湿った呼吸を感じた。とても規則正しいリズムの、安らかな寝息だ。
「無事ってことで、いいんですよね……?」
アレスは安堵のため息をつき、ベッドに腰かけた。そこで。
ぎぃ……。部屋の扉が軋んだ音を立てながら、ゆっくりと開いた。廊下から流れ込んだ明かりが、ドア枠に切り取られて床に四角く細長くのびる。
アレスは反射的に腰に手をのばした。しかし彼の手は空を切る。腰に剣がないからだ。今の彼の装備は、清潔な木綿のシャツとズボンだけだ。私物ではない。サイズが合っていない、だぼだぼの服である。
「おや」
部屋に入ってきたのは、ランタンを片手に持った少女だった。
彼女はランタンの光に負けないくらい輝かしい笑顔を浮かべると、さささっと素早く駆け寄ってきた。そしてアレスに顔をぐっと近づけて、「気がついたんだね!」と叫んだ。
近い……。あと声がでかい……。
少女は、表情に幼さが残っているものの、背丈はアレスよりも高い。アレスは大柄ではないにせよ小柄でもないので、そう考えると少女の体はとても立派なものだった。
「君、名前は? 年はいくつ? 出身はどこ? ていうかよく見ると綺麗な目してるね! 更にかわいー!」
少女は、切れ長の美しい形の目を糸にして、矢継ぎ早に言葉を繰り出す。
アレスは圧倒されて、彼女の顔を見上げながらぽかんとしていたが、やがて「俺は、アレスと申します……」と答えた。
「アレスくん!」と少女は叫んだ。いちいちうるさい人だ。
「あの、お姉さん……ちょっと離れていただけませんか? なんといいますか落ち着きません」
「ああ、君くらいの年頃の少年は、女の子に近づくと更にドキドキしちゃうんだったね」
「いえ、そういうことではなくて……」
ともあれ少女はアレスから離れて椅子に腰かけ、テーブルにランタンを置いた。
「俺は名乗りました」
アレスは言外に、次はあなたが名乗る番だと仄めかす。
「申し遅れてごめんよ!」
少女は言うと、気取った仕草で右手を胸に添えた。
「僕の名前はニケ。ここ〈ミネルウェン〉の王であるディカイオの一人娘さ」
「……王様の、娘……? ということは、あなたはお姫様ということですか?」
「民の中には、僕のことを姫って呼ぶ人もいるね。でも、ほとんどの人はニケって呼び捨てにするんよ。君も、遠慮なくニケと呼んでくれたまえ」
「呼び捨ては苦手で……。ニケさんでよろしいでしょうか?」
「ニケさんね、まあいいよ」
ニケは不服そうに口をとがらせた。
「自己紹介も済んだところで、いくつかニケさんにお尋ねしたいことがあります」
「年頃の男の子が僕に聞きたいことなんて、想像がつくよ。どうせ僕に恋人がいるかどうかだろう? 喜べ、僕はまだ運命の相手を見つけていない。君にも、王族になるチャンスがあるというわけさ」
「……」
「おいおいノリが悪いなアレスくん。ちょっとした冗談くらい付き合いなよー」
「失礼。あなたのような方って、俺の周りにいないもので……。どんな風に接していいのか、よく分からないのです」
「キシシッ」と、ニケは綺麗な歯を見せて笑う。「そりゃあ、僕みたいに美人でユーモアに溢れた娘なんて、そうそういるわけないよねー」
「……全くおっしゃるとおりです」
「んじゃ、本題ね」
ニケは手をポンと叩いてから、芝居掛かった仕草で両腕を広げた。
「質問を受け付ける。どーんときなさい。お姉さんが受け止めてあげよう」
アレスは視線をプシュケに移してから、質問した。「そこで眠っているプシュケは、毒矢を食らって死にかけていたんです。もしかして、ニケさんが治療をしてくれたのですか?」
「治療をしたのは専門の医者だよ。安心して」
「俺は荒野でグールに襲われて、そこからの記憶がないんです。誰が俺とプシュケをここまで運んでくれたのでしょうか? というか、ここはどこでしょうか?」
「ここは診療所。連れてきたのは騎馬警邏隊だよ。パトロールの最中、彼らは驚くべき光景に出くわしたそうなんよ。二十体近いグールの、屍の山さ。それも、手足とか頭が取れて、まさにバラバラ死体盛り合わせって感じで」
凶暴なグールどもが二十体もバラバラになって散らばっている様を、アレスは想像した。それはニケが言ったように、まさに驚くべき光景に違いない。
「その死体の山のすぐそばで、アレスくんとプシュケちゃんは倒れていたらしいんよ」
「……マジですか」
「アレスくんの手元には剣が落ちていたそうだよ。高熱を発して橙色に輝く、すごく綺麗な剣。警邏隊に見せてもらったけど、あれは〈遺物〉だね?」
遺物とは、約千年前――つまり〈世界大戦〉以前――に人類が使用していた、文明の利器のことだ。極めて高度な技術で作られており、文明が大幅に退化した現代では、その仕組みを明らかにすることは到底できない。今は人口も〈世界大戦〉直前の2%以下まで減っており、単純に遺物研究者のマンパワーが足りないという事情もある。
「ええ。〈太陽の剣〉と、俺は呼んでいます。とびきり熱くなって、敵をバターみたいにするりと切り裂いてしまう優れものです」
アレスは、どんな経緯で〈太陽の剣〉を入手したのか全く記憶にない。まるで体の一部であるかのように、物心ついた時から、自然な表情で〈太陽の剣〉は彼の手元にあった。それが遺物であるということも、シャリテの旅団に加わった後に知ったことだった。
「実はね、バラバラになったグールの傷口から察するに、焼き切られたと考えるのが自然だって話なんよ」
「焼き切られた? それでは、まるで……」
「そう。アレスくんが〈太陽の剣〉を振り回して、一人で二十体近いグールをバラバラにしたような状況なんよ、これが」
「あ、ありえませんよ、さすがに……。グールを二十体もだなんて……」
「うん。普通に考えたらアリエマセン。だからこそ僕は知りたいんよ。ねぇねぇ、一体全体どうやったんだい? どんな手を使ったんだい? ねぇねぇ」
「申し訳ありません。何も思い出せないんです。あの時は、もう終わりだって諦めてしまって、力が抜けてしまって……その後のことは何も覚えていないんです」
「無理もないか。人間の記憶って曖昧だし、ショックなことがあるとすぐに飛んじゃうし」
「ニケさん。さっき、ここがミネルなんとかって言っていましたけど、それっていったい?」
「ミネルウェンだよ。強固で巨大な壁に囲まれた、小さな国さ。壁の外の人たちからは、もっぱら〈減らない国〉なんて呼ばれているんよ」
「……〈減らない国〉。けっきょく俺たちは目的地にたどり着けたのですね……」
「?」
「俺たちの旅団は、もともと〈減らない国〉を目指していたんです」
「旅団? たった二人の?」
「いえ、もともとは大勢いたんです。それが一夜で二人に減ってしまって……。大好きな仲間たちが、みんな、いなくなってしまって……」
「……毒矢のことといい、なにやら、深刻な事情がありそうだね」
ニケは表情から一切の軽薄さを消した。
「差し支えなかったら、話してもらえないかな?」
アレスは、旅団が黒ずくめの連中に襲われるところから、記憶が途切れるところまでを掻い摘んで話した。
「大変だったね」
話を聞き終えると、ニケは目を伏せ、沈んだ声で言った。心から、アレスの身の上を憐れんでくれているようだ。部屋に、陰気な沈黙が下りる。
ニケは暗い空気を吹き飛ばそうと気を遣ったのか、「アレスくんとプシュケちゃんのこと、もっと知りたいな!」と元気に言い、表情をほころばせた。「君たち、出身はどこ?」
「それが、俺とプシュケは幼い時の記憶が曖昧で、出身が分からないんです。親の顔すら思い出せない有様です。そんなわけで、旅団のみんなが親代わりで、兄弟代わりでした」
「旅団に入ったキッカケは?」
「それも覚えていないんです。でも、旅団の仲間たちの話によれば、俺は幼いころ、どっかの賊に誘拐されて、売り飛ばされそうになっていたらしいんです。そこを、偶然通りかかった旅団に助けられた。で、俺は成り行きで仲間に加わって旅をすることになった。そういう話のようです、はい」
ニケは少し考える仕草を見せたあと、思い直したように質問を続けた。「旅団の旅の目的はなんなんだい?」
「建国です」
「ケンコク? 国を建てる系?」
「そうです。俺たちは、虐げられた人々や難民で構成された流れ者集団です。ですがこの乱れ切った時代に、いつまでも流浪の民を続けるわけにはいかない。そこで様々な国を渡り歩いて、お金を稼ぎながら政治の勉強をしているわけです。最終的には、自分たちの国を作る予定です。そう、リーダーからは聞いています」
「感心感心。実に立派な旅だね! さぞかし立派なリーダーなのだろうね」
「ええ、そのとおりです。シャリテという名の女性です。歳を聞くと怒るので正確な年齢は知りませんが、中年の人です。とても強くて、かっこいい人なんです。しかし、たぶん、もう、シャリテさんは……」
アレスは俯いて、唇を噛みしめた。
ニケは椅子から立ち上がってアレスの前まで来ると、彼をそっと抱き寄せた。そして耳元で「しばらく、ここにいていいからね」と優しく言った。「我が国に滞在して、ゆっくり静養するといいよ、うん」
ニケの豊かな胸に顔をうずめる格好で顔を赤くしていたアレスは、やがて、ぼそりと「ありがとうございます。助かります……」と言った。「……しかし、王様が許可してくれるとは限りませんよね。なんといっても、俺たちはよそ者なわけですし……」
「それなら心配無用だよ、アレスくん」
突如、アレスでもニケのものでもない、誰かの声がした。
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